宏道流の沿革
宏道流は江戸時代の半ばに、常盤井御所古流の第十九世梨雲斎望月義想(1722~1804)によって創流された伝統ある流派であります。
義想の人となりと宏道流創流のいきさつについては、『瓶史国字解』(1808年)が次のように述べています。
梨雲斎 姓は望月氏 名ハ義想ニシテ俗称調兵衛ナリ 江戸ノ人ニシテ家ハ篠輪津(不忍)ノ西ニ住ム 享保七年壬寅ノ正月ニ生マレ文化元甲子の歳九月ニ死ス。歳八十有三歳ナリ 詩ヲ
シ 書ヲ
シミ 又性幼年自リ挿花ヲ嗜ム。常ニ胆瓶ヲ以テ時花ヲ貯ヘ 之
換ヘテ倦ムコト無シ 人或ヒハ之ヲ
[1]ト謂フ。嘗テ袁石公(袁宏道)作ル所ノ『瓶史』ヲ読ミ 沈潜翫味スルコト之ヲ久シウシ 同行ノ者ト談論スル毎ニ嘆ジテ曰ク 挿花ノ『瓶史』有ルハ猶礼楽ノ春秋有ルガゴトシト 遂ニ『瓶史』一篇ヲ挙ゲテ之ガ為ニ序シテ其ノ義ヲ表章シ 其ノ
シテ以テ
ニ喩ス 是自リ以来知リテ之ヲ好ム者都下ニ
テ他ノ邦ニ及ブ本朝ニ於テ『瓶史』開元ノ祖也。
<上記の内容を日本の現代語に近い文にすれば下記のようになります>
梨雲斎は姓を望月、名を義想で俗称は調兵衛。江戸の人で、家は代々篠輪津(現東京·上野不忍)の西に住む。享保七年(1722年)正月に生まれ、文化元年(1804年)九月に死去、享年82。詩を作り書を楽しみ、また幼年の頃から挿花を嗜む。常に胆瓶に時季の花を貯え、それを挿し入れて飽きることがない。人は花癖子と呼んだ。かつて袁石公(袁宏道)が著した『瓶史』を読み、その書に深く没頭して理解することを久しく続け、いけばなの仲間たちと談論するたびに嘆かわしく感じていうには、挿花『瓶史』には礼楽の春秋がある如し。しまいには『瓶史』の一編をあげ、その内容を讃えて世に明らかにし、その奥義を申し述べた。よってこれらを同好の士に諭す。これより、これを知って好むものは都下で盛んに広まり、ひいては他の邦にも広い範囲に及ぼし、わが国では『瓶史』開元の祖といわれた。
『瓶史』は中国明時代の詩人、袁宏道(袁石公)が著わした花論書で、本書は日本で1696年(元禄9年)に出版されました。本書に述べられた文人隠逸なる花への強い憧憬は、中国の文化、知識人の花に対する態度を集約したものとして、わが国の文化人や花道人にも強い影響を与えました。
義想もまたこの『瓶史』の精神に大きな感銘を受けたひとりで、その名を冠した宏道流(袁中郎流)を創流し、『瓶史』を校訂して刊行するなど、『瓶史』への傾倒には並々ならぬものがありました。義想のおこした新しいいけばなは、同じ頃、次々に新しい流派をおこした生花とともに多くの人々に歓迎され、当時の記録によれば、江戸、相模を中心にして門弟三千人を数えたといわれています。そして、文化年間には『瓶史』に詳細な註解をほどこした『瓶史国字解』(全四巻)が高弟たちの手により刊行されました。ついで義想の命をうけた桐谷鳥習は、門弟の総力を集結して『袁中郎流挿花図会』(全九巻)を刊行いたしました。
本書には約三百三十余点の作品が収録されておりますが、江戸時代に刊行された二百数十書の花書の中で、合せて全13巻という著書はきわめて例外的なもので、当時の宏道流の隆盛ぶりがうかがわれるのであります。
その後、宏道流は『瓶史』の挿花精神をバックボーンにしながら二代義達、三代義徳、四代義泉、五代義寛、六代義耀、七代義琮、そして私八代義瑄と受け継がれて現在に至っております。
【注释】
[1]花癖子:花に憑かれた人。江戸幕府三代将軍徳川秀忠は大変な花好きで、「武家深秘録」(1613年)に「将軍秀忠 花癖あり」との記載があり、初代家康、第三代家光を含めて「徳川花癖」と呼ばれ全国的に園芸ブームが起きた。