1.はじめに
日本語には、同一の語根のもとに、さまざまな語尾変化が付いて、動詞が形成されるシステムが存在する。このような同一の語根のもとに形成された自動詞と他動詞の関係を取り扱う先行研究は、大きく二つのパターンに分けられる。一つのパターンは日本語学の伝統的な自他の捉え方に即した「自他対応」と呼ばれるもの〔1〕であり、もう一つのパターンは西洋流の自他交替(transitivity-alternation)という観点の影響を受けたもの〔2〕である。前者は主に形態を中心としており、後者は主に意味を中心としている。伝統的な自他の研究は形態から意味へアプローチし、西洋流の影響を受けた自他の研究は意味から形態へアプローチするなら、両者はうまく合流することが期待されるが、しかし、実際に両者の間に大きなギャップがある。伝統的な自他対応では、意味に関する統一した定義と基準を与えていない。つまり、自動詞と他動詞のそれぞれのメカニズムを明らかにしていない。一方、西洋流の自他交替では、自動詞と他動詞のそれぞれのメカニズムを明らかにしているが、そのメカニズムに動詞の形態を当てはめようとしても、うまく当てはまない。1.1節-1.2節では、この二つのパターンの先行研究とその間のギャップを詳しく見る。そして、1.3節では、それに基づいて、本研究の代案を提示する。
1.1 従来の自他対応の定義および問題点
1.1.1 従来の自他対応の定義
動詞の自他対応に関する研究は従来多数ある。ただ、自他対応を初めて形態、構文(統語)、意味の三つの面で明確に形式化して定義づけたのは、奥津(1967)であった。奥津(1967)は自他対応を以下の通りに規定している。
(1〔3〕)自・他の対応とは、次の二文
(ⅰ)N1 ga | N2 o[+V, +Transitive, X, Y] |
(ⅱ) | N2 ga[+V, -Transitive, X′,Y′] |
において、Y=Y′なる時、[+V, +Transitive, X, Y][+V,-Transitive, X′,Y′]で表される二動詞間の関係を言う。
(奥津 1967:61〔4〕)
奥津(1967)以後、日本語の動詞の自他対応が、基本的に、意味、形態、統語の三つの条件が満たされている場合に成り立つという観点はほとんどの先行研究に引き継がれている。以下では、佐藤(1994a)がまとめた三つの条件を挙げる。
(2)自他対応の定義
a.意味的条件 自動詞文と他動詞文が同一事態の側面を叙述していると解釈可能である。
b.形態的条件 自動詞と他動詞が同一の語根を共有している。
c.統語的条件 自動詞文のガ格と他動詞文のヲ格が同一名詞句で対応している。
(3)自他対応の実例
a. | 鉛筆が | 折れる。 |
b.太郎が | 鉛筆を | 折る。 |
(佐藤 1994a:21)
佐藤は(3)について、以下のような説明を加えている。
(3〔5〕)に示した「折れる-折る」の例は(2)の条件をすべて満たすものである。すなわち、(2a)の意味的条件に関して、自動詞文(3a)と他動詞文(3b)は同一の事態の側面を叙述するものとして解釈可能である。また、(2b)の形態的条件に関して、(3a)におけるor-e-ru(折れる)と(3b)のおけるor-u(折る)は同一の語根orを共有している。更に、(2c)の統語条件に関して、自動詞文(3a)のガ格と他動詞文(3b)のヲ格は同一名詞句「鉛筆」で対応している。
(佐藤 1994a:21-22)
1.1.2 問題点
1.1.2.1 以上の定義に当てはまらないケース
奥津(1967)や佐藤(1994a)をはじめとした自他対応の定義は明らかで、有効な定義であると認めるものの、この定義に部分的に当てはまらない例の処置が問題となってくる。たとえば、「入る―入れる」、「消える、消す」のようなペアは、直ちに(2b)の形態的条件に当てはまらない。「入る―入れる」を例にして説明する。自動詞の「入る」は「hair-」という語根を持ち、他動詞の「入れる」は「ir-」という語根を持つ。両者は同じ語根を共有するとは言えない。しかし、意味上、「入る」はよく「入れる」と対応し、統語上でも対応することができる。つまり、(2a)の意味的条件と(2c)の統語的条件は満たすにもかかわらず、(2b)の形態的条件だけが満たさない場合は、自他対応と見なすか否かは、さらなる検討する余地がある。
また、以下のペアは、(2c)の統語的条件に当てはまらない。
(4)漢語動詞の非能格動詞―対格動詞対応
NP1ガ | NP2ヲ | Vする |
NP1ガ | Vする |
(5)実例
a.二大スターが | ミュージカルを | 共演する。 |
b.二大スターが | 共演する。 |
(楊 2010:15)
(5a)と(5b)は、(2a)の意味的条件と(2b)の形態的条件を満たしている。(5a)と(5b)における「共演する」は同一事態の側面を叙述すると解釈可能である。また、(5a)における「共演する」は、(5b)における「共演する」と、同じ語根を持つ。しかし、この二文は、(2c)の統語的条件は満たさない。(2c)は、他動詞のヲ格(目的語)が自動詞のガ格(主語)に対応すると規定するが、(5b)の自動詞の主語(二大スター)に対応しているのは、(5a)の他動詞文のヲ格(ミュージカル)ではなく、ガ格(二大スター)である。このようなペアは従来の自他対応の定義に当てはまらないため、自他対応から除外しないといけないが、しかし、本当に除外して妥当なのか。
さらに、(2a)の意味的条件に当てはめるために、奥津が指摘した「Y=Y′」という条件を満たさないといけない。言い換えれば、「同一事態」の側面を叙述するという条件を満たすために、他動詞文のヲ格名詞と自動詞文のガ格名詞が同一の名詞でなければならない。それによると、本居春庭が指摘した「みつから然る」ことを表す自動詞と「ものを然する」ことを表す他動詞、たとえば、「伏す-伏する」のようなペアは、自他対応から除外しなければならなくなる。「みつから然する」ことを表す自動詞「伏す」は、「ハルは、もともと体が弱く、月のうちの半分は床に伏すような生活であり、健康になることが願いであった」のような、「人が伏す」の例がほとんどである。「ものを然する」ことを表す他動詞「伏する」(現代語では「伏せる」)は、「読みかけていた本を枕の横に伏せる」のような、「ものを伏せる」の例がほとんどである。「人が伏す」に対応する「人を伏せる」の例は見つからなかった。本居春庭は「伏す-伏する」を自他の対応として扱っているが、奥津(1967)以来の定義によると、自動詞と他動詞は同一事態の側面を叙述すると解釈しにくいため、自他対応から除外しなければならない。現代語にもこのような例がある。たとえば、「風が吹く」と「笛を吹く」においては、N2が違う名詞句(他動詞文ヲ格名詞は「笛」、自動詞文ガ格名詞は「風」)であり、同一事態の側面を叙述すると解釈しにくいため、(2)の定義によると、自動詞「吹く」と他動詞「吹く」とは自他対応しているとは見なすことができない。
さらに、他動詞文のヲ格が自動詞文のガ格が同じ名詞句の場合でも、同一事態を叙述していない場合がある。たとえば、「切れる」と「切る」というペアを例にして見てみよう。
(6)
a.太郎が | 糸を | 切る。 |
b. | 糸が | 切れる。 |
(7)
a.✳銀行が | クレジットカードの期限を | 切った。 |
b. | クレジットカードの期限が | 切れた。 |
(6)と(7)に関して、(2b)の形態的条件からみると、「切れる」と「切る」は「kir-」という語根を共有し、(2c)の統語的条件からみると、「切れる」と「切る」は、「NP1ガNP2ヲ切る」-「NP2ガ切れる」というような統語対応も成立している。つまり、(2b)と(2c)は満たしている。しかし、(2a)の意味的条件はどうだろうか。(6a)と(6b)は同一事態の側面を表すと解釈可能であるが、(7a)と(7b)は同一の事態の側面を叙述しているとは考えられにくい。(7b)に対応する(7a)は成り立たない。「期限を切る」の例は「今度も党則を改正して任期延長の期限を切っておかないと、中曽根を辞めさせられなくなるぞ」のようなものである。この例における「期限を切る」は、「期限が切れる」と同じ事態の側面を叙述していない。つまり、同じ名詞句(「期限」)が他動詞のヲ格と自動詞のガ格の両方に出てきていても、必ずしも同じ事態の側面を叙述していない。(2)の定義によると、このような用法での「切れる―切る」は、自他対応から除外しなければならないものである。しかし、「切れる」をコーパスで調べれば、「(クレジットカードの)期限が切れた」のような用法が多数出てくる。量でいえば、(6a)の「糸が切れた」のような他動詞と対応できる例よりも多い〔6〕。(2)の定義に即すれば、「期限が切れる」という用法の「切れる」を自他対応から除外しなければならない。要するに、「糸を切る―糸が切れる」という二文からみると、「切れる―切る」は自他対応をなしているが、「期限を切る―期限が切れる」という二文からみると、「切れる―切る」は自他対応をなしていない。
「決まる―決める」というペアは、上記の「切れる-切る」と同じ問題がある。たとえば、「代表を決めた」と「代表が決まった」という用例からみると、「決める―決まる」は(2)の三つの条件をすべて満たしているため、自他対応をなしている一方、コーパスで「決まる」を実際に検索してみたら、「彼が犯人に決まってるじゃん」のような用例は数多く出てくる。この用法の「決まる」は他動詞文の「彼を犯人に決める」と同一事態の側面を叙述しているとは考えられにくい〔7〕。そのため、「彼を(犯人に)決める―彼が(犯人に)決まる」という用法における「決める―決まる」は、(2b)と(2c)は満たしているが、(2a)は満たさない。したがって、この用法の「決まる」は「決める」と、自他対応と認められない。要するに、「代表を決める―代表が決まる」という二文からみると、「決まる―決める」は自他対応をなしているが、「彼を(犯人に)決める―彼が(犯人に)決まる」という二文からみると、「決まる―決める」は自他対応をなしていない。
1.1.2.2 自他対応の位置づけ
上記のように、奥津(1967)、佐藤(1994a)の定義には問題点がある。具体的な用法によって、自動詞と他動詞が自他対応をなすか否かは変わってくる。奥津(1967)、佐藤(1994a)の定義を支えるために、以下のような解釈があるかもしれない。「糸を切る―糸が切れる」のような二文が挙げられる。そのため、「切れる―切る」は動詞レベルで自他対応をなしている。「期限を切る―期限が切れる」のような用例は、例外として処置すればいい。
しかし、前節でも触れたように、「が切れる」という文字列をBCCWJというコーパスで検索してみたら、「期限が切れる」の用例数が一番多く、62件をヒットした。そして、「糸が切れる」のヒット数は38件であった。量から見ると、むしろ「期限が切れる」という用法は「切れる」という自動詞の中心的な用法であると言える。少なくとも量的な中心用法を例外と処置するのは、妥当ではないと思われる。
さらに、「期限が切れる」における「切れる」を例外処置としてもよいと則っても、やはり問題が残っている。(1)と(2)の定義に即して、「期限が切れる」という用法における「切れる〔8〕」を例外と見なすなら、「切れる」は二分される。図式で簡単に示すと、(8)の通りになる。
(8)
除外された「切れる1」をいったいどう取り扱うべきのか、除外された「切れる1」が、除外されていない「切れる2」とどのような関係にあるのかなどの問題は、(1)と(2)定義によって解決できない。結局、この定義は、動詞の一部の用法(「切れる2」)に限って有効であり、他の用法において無効になる。
実は、奥津(1967)が指摘した自他対応の定義には、明確に「自・他の対応とは、次の二文…において…二動詞間の関係をいう」という記述がある。つまり、奥津(1967)にとって、自他対応は、自動詞と他動詞の二動詞そのものの関係ではなく、具体的な「文」における二動詞間の関係をいうものである。本書の観点から言い換えれば、奥津(1967)をはじめとした自他対応の定義は、レキシコン内の自動詞と他動詞の相関関係を言うのではなく、文に具現化した後の、動詞の用法レベルでの二動詞間の関係を言うのにすぎない。
さらに、このような具体的な用法に縛られた自他対応の定義づけは、自動詞と他動詞の意味的相関関係を徹底的に記述することができない。上記の「切れる―切る」の例でいえば、「期限が切れる」における「切れる1」を除外して、「糸が切れる」における「切れる2」だけが他動詞「切る」と自他対応をなしていると規定すると、この枠内での「切れる―切る」の意味的相関関係は、自動詞「切れる全体」と他動詞「切る」の相関関係ではなく、「切れる2」と他動詞「切る」の相関関係にすぎない。しかし、動詞の用法レベルの、言い換えれば、具体的な用例の中の「切れる2」のではなく、動詞レベルの、言い換えれば、「切れる全体」としての「切れる」は、他動詞「切る」とどのような関係をなしているかということを明らかにしなければ、自他対応の研究は不備な状態にとどまる。そのため、「切れる1」と「切れる2」の共通点を見つけ、「切れる全体」の性質を考察しなければならない。
上記の「切れる―切る」と同じ問題点を持つのは、奥津(1967)が挙げた「挟まる―挟む」の例である。
(9〔9〕)
a.私は | 栞を | 本に | 挟む。 |
b. | 栞が | 本に | 挟まる。 |
(奥津 1967:66〔10〕)
(9)からみれば、確かに「挟まる」は「挟む」から派生され、「挟まる」の語彙意味構造には、他動的な行為の「hasam-」が含まれている。したがって、(他動詞から)「自動化転形ルール」は以下のように導かれることも自然に見える。
(10〔11〕)Intransitivization
N1 ga(N2 ga N1 o[+Intransitivization])Intr ⇒
N1 ga[+Intransitivization]Intr
(奥津 1967:67)
つまり、自動詞と見える「挟まる」の中には他動詞「挟む」が含まれている。
しかし、コーパスから実際に出てくる「挟まる」の用例には、「栞が本に挟まる」のような、語彙意味構造の中に他動詞が含まれているものもあれば、「この付近の地層は風化した泥岩層ですが、所々に白っぽい色をした薄い地層が挟まります。これは火山灰がかたまった凝灰岩です」のような、語彙意味構造の中に他動詞が含まれていないものもある。誰かが人為的に白っぽい色をした薄い地層を泥岩層に挟むことが考えられにくい。その地層が自然現象として挟まっているのである。このような用例における「挟まる」の語彙意味構造の中に、他動詞が含まれていないと判断できる。つまり、同じ「挟まる」(しかも、「挟まる」は「-ar-」という自動化辞を持つ自動詞)であっても、語彙意味構造に他動詞が含まれている場合と、そうでない場合に分けられる。そうでない場合を完全に考慮に入れず、「-ar-」という自動化辞を持つ自動詞「挟まる」が、(9)の自動化転形ルールによって派生され、その語彙意味構造の中に他動的な行為hasam-が含まれているという自・他の意味的相関関係についての奥津(1967)の考察は、偏っていると思われる。
要するに、奥津(1967)をはじめとした従来の自他対応に関する研究は、他動詞と照らし「栞が本に挟まる」という用法における「挟まる」の意味的メカニズムを明らかにしたが、「栞が本に挟まる」と「白っぽい色をした薄い地層が挟まる」との両方の用法を持っている自動詞「挟まる」を統一的に説明できるメカニズムを提供していない。
1.2 非対格動詞と他動詞の自他交替および問題点
1.2.1 非対格動詞と他動詞の自他交替
日本語の自他対応というのは、自動詞と他動詞が語根を共有しながら、語尾の違いによって対応するというものである。つまり、日本語の自動詞と他動詞は、語尾変化、言い換えれば、形態という点において対立するが、他の点(たとえば意味)は共通する。したがって、従来の自他対応に関する研究は形態を中心としたものが多い。
一方、英語の自動詞と他動詞は、自他対応ではなく、自他交替(transitivity alternation)をなしている。なぜなら、英語の自動詞と他動詞は、形態を共有しながら、意味という点において違う。たとえば、
(11)
a.John broke the window.
b.The window broke.
(11a)における他動詞breakは、(11b)における自動詞breakと形態的に違いがない。ただ、(11b)においてbreakは自動詞として現れ、自然的な変化という意味を表し、(11a)にいてbreakは他動詞として現れ、人為的な動作がbreakという変化を引き起こしたという意味を表す。このような同じ形態を持ちながら、違う意味を表す自動詞と他動詞は自他交替をなしている。
自他交替に関する研究は意味を中心としたものが多いことも当然のことである。自他交替の関係をなしている自動詞と他動詞が、意味的にどのような点において対立し、どのような点において共有するかに関する研究が多数ある。その中、Croft(1991)のcausal chainという観点が代表的なものである。Croft(1991)は以下のことを述べている。
A possible verb must have a continuous segment of the causal chain in the event ICM[Idealized cognitive model, aka frame]as its profile and as its base.
(Croft 1991:20)
Croft(1991)によると、動詞は単一事象を表さなければならない。ないしは、複合事象を表す可能性もあるが、各下位事象が[cause(引き起こし)]の関係で結びついた複合事象のみが可能である。以上のCroft(1991)の観点を自動詞と他動詞との関連から解釈すれば、以下のようになる。(11b)のような自動詞は、単一事象を表すものである。(11a)のような他動詞は、複合事象を表すものである。この複合事象には、二つの下位事象がある。一つは、Johnの働きかけの動作であり、もう一つはwindowの変化である。この二つの下位事象が必ず[cause]の関係にある。つまり、Johnの動作はwindowの変化を引き起こさなければならない。この二つの下位事象が[cause]の関係を成さないと、一つの動詞の意味構造に収められない。言い換えれば、Johnの動作という下位事象とwindowの変化という下位事象の間には、[cause]の関係しか成立しない。[cause]以外の関係が許されない。
また、LCSという動詞の意味構造の記述の仕方が広範に採用されてきた。LCSを用いて、自動詞と交替をなしている他動詞の意味構造を記述する際、CAUSEという関数を用いるのが一般的である。
(12)[x ACT ON y]CAUSE[y BECOME[y BE AT z]]
[x ACT ON y]という節と[y BECOME[y BE AT z]]という節を結びつける関数はCAUSEである。管見の限り、今までの研究では、CAUSEだけが他動詞に関わる関数としてたてられてきた。
1.2.2 問題点
以上の主張は、日本語の自動詞と他動詞を一般的な言語理論に当てはめようとしたものであり、大まかに言うと、自動詞と対応している他動詞なら、
(13)[x ACT ON y]CAUSE[y BECOME[y BE AT z]]
というようなLCSで記述し、他動詞と対応している自動詞なら
(14)y BECOME[y BE AT z]
というような LCSで記述することが暗黙のうちに採用されている。(13)と(14)の関係は、以下の通りである。(13)と(14)はy BECOME[y BE AT z]という節を共有する。y BECOME[y BE AT z]という節に、[x ACT ON y]という節が加わって、二節はCAUSEという関数で結びつくようになると、(13)が出てくる。
しかし、この主張は、日本語にうまく当てはまらないところがある。日本語の動詞は語尾変化を持つという特徴がある。この特徴は、形態的な特徴ともいわれる。形態という点において対応する自動詞と他動詞は、意味的に必ずしも上記の(13)と(14)のように対応していない。たとえば、
(15)
a.場合によっては、わたし独りでここで夜を明かしてもかまいません。
b.夜が明ける。
(16)
a.…記念堂広場には人々が集まって朝の時を過ごす。
b.あれから四〇年近く時が過ぎた。
(15)の私たちは夜に働きかけていないし、夜が明けることを引き起こさない。「夜が明ける」という自然現象を引き起こすことができるのは、神様しかないが、主語の「私たち」は引き起こすという意味で「夜を明かす」ことが不可能である。したがって、「主語の動作」と「対象の変化」の両者は[cause]の関係をなしていない。(16)も同様に考えることができる。
また、「私たちは空襲で家財道具を焼いた」という「状態変化主体の他動詞文」においても同じことが言える。主語の「私たち」が「家財道具」の「焼けた」という変化を引き起こさない。両者は日本語において他動的な関係をなしているにもかかわらず、[cause]の関係をなしていない。
さらに、-ar-という形態を持つ自動詞は、少なくとも一部の例において、y BECOME[y BE AT z]という自動詞のLCSに当てはまらない。具体的には、奥津(1967)の「栞が本に挟まる」という例を想起されたい。「栞が本に挟まる」という文における「挟まる」は、奥津(1967)が分析したように、「hasamという他動的行為の主体が誰かある筈なの」である。つまり、この種の自動詞は、語彙意味構造に「hasamという他動的行為」が入っており、誰かの他動的な行為が前提となっている。しかし、Levin&Rappaport Hovav(1995)によると、y BECOME[y BE AT z]で記述した自動詞は、自然変化という解釈を持たなければならない〔12〕。-ar-という形態を持つ自動詞(便宜のため、以下では「-ar-型自動詞」と呼ぶ)の、他動的な行為が前提となっているという意味特徴は、y BECOME[y BE AT z]で記述した自動詞の、自然変化という意味特徴と矛盾している。以上の点においては、日本語の少なくとも一部の-ar-型自動詞は、(14)に当てはまらない。したがって、これらの-ar-型自動詞は、形態的に対応している他動詞と、(13)と(14)のような意味的な対応をなしていない。
影山(1996)も(14)に当てはまらない自動詞の例を提示している。
(17〔13〕)
a.公園には様々な種類の木が植わっていた。
b.壁にはピカソの絵が掛かっていた。
c.(募金運動をして)目標額が集まった。
d.(海底トンネルによって)イギリスとフランスがつながった。
e.値段はもうこれ以上まからない。
f.段ボール箱に雑誌がいっぱい詰まっている。
(影山 1996:184)
影山(1996)は(17a)の「木が植わる」について、「誰かが木を植えるという使役行為を前提としている。山に自然に生えている木について、「植わっている」とはいえない」と説明している(影山1996:184-185)。また、(17)の他の例についても、「動作主が努力した結果としてその事態が生み出されることを意味している」という説明を加えている(影山 1996:184-185)。
(17)のような(14)に当てはまらない例を、影山(1996)は「脱使役化自動詞」という項目を立てて処理しょうとした。「脱使役化」について、「-ar-という形態は…「使役主を変化対象と別のものとして置いたまま統語的に表出しない」という外項抑制の働きを持つと考えられる」(影山 1996:184)、「脱使役化:自動詞化接辞-ar-は、使役主を意味構造で抑制し、統語構造に投射しないことで自動詞化を行う」(影山 1996:184)と規定している。影山(1996)によれば、「脱使役化自動詞」は、意味構造に使役主が存在する。ただ、この使役主は抑制され、統語構造に投射しない。しかし、なぜ使役主は簡単に抑制されるのかについては、影山(1996)は説明していない。「-ar-という形態」は外項抑制の働きを持つと説明しているが、なぜ「-ar-」という形態範疇のものが、意味範疇の「外項抑制」という働きを持つのかについてははっきりと説明していない。「-ar-」という形態の背後に、日本語の自動詞には、いったいどのような意味的メカニズムが存在するかという問題を、影山(1996)は解決していない。
たとえ影山(1996)に則っても、やはり問題が存在する。「-ar-という形態」は「脱使役化自動詞」の必要条件でもないし、充分条件でもない。たとえば、
(18)マンションは神田川支流ぞいに建っているんですが、…。
(19)ミルクに砂糖が入っている。
(18)(19)で示したように、意味上の脱使役化自動詞は必ずしも、-ar-という形態的な特徴をもたない。マンションは人の意識的な「建てる」という動作を前提としないと、おのずから建つことができない。(19)の砂糖も同じように考えられる。また、
(20)一条工務店のおかげで、夢の家が難なく建った。
(21)四方八方、手を尽くして、ようやく家が建った。
のように、影山(1996)が提示した副詞・道具ないし手段表現テストにも通るため、「建つ」は使役構造、あるいは、他動的な行為を土台としているとわかる。つまり、「建つ」は脱使役化自動詞の意味的特徴が備えているため、意味的な脱使役化自動詞であるにもかかわらず、形態的に「-u」語尾動詞であり、-ar-という形態を持たない。(19)の「入る」も同様に考えられる。「2年ぶりにピアスを通してみたら難なく入った」のような例があるため、影山(1996)が提示した副詞・道具ないし手段表現テストに通る。しかし、「入る」は-ar-という形態を持たない。
次に、-ar-という形態的な特徴をもつ自動詞は、意味からみると、必ずしも「脱使役化」という意味特徴を持たない。たとえば、影山(1996)があげた「集まる」の例は、「(募金運動をして)目標額が集まった」という例である。この例において、確かに動作主の存在が前提となっているが、しかし、コーパスで「集まる」を調べると、以下のような用例が出てくる。
(22)
a.数人の主婦たちが集まって、洗濯したり、井戸端会議に花を咲かせていた。
b.岩場に波がぶつかることにより、岩にいる貝やカニが水中に落ち、それをねらって、魚が集まってきている。
c.恐いと感じると、瞬時に危機を避けられるよう、心拍数や体温が上昇し、万が一の出血を最小限に抑えるよう血液が体の中心に集まるため、血圧が上昇します。
d.米大統領就任式オバマ大統領の就任演説に注目が集まっていますね〜。
(22a,b)における「集まる」は人間や動物の意志的な動作を表すものである。その意味構造に、「目標額が集まる」という事象に潜んでいる「募金運動をして」のような他動的な行為が存在しない。(22c)の「(血液が)集まる」は、人間・動物(動作主)の意志的な動作ではないが、誰かの動作主の意志的な努力が背景に存在するわけでもない。血液の移動はもしろ自然現象に近い事象ではないかと思われる。(22d)の「注目が集まる」は一見動作主が背景に存在するように見える(注目する人)が、実際、オバマはこの文において主語でもなく、その演説が注目を集めようとした結果、注目が集まるわけでもない。つまり、(22d)の「集まる」は、意味上、「植わる」と同じような「脱使役化」構造を持つと分析できない。
要するに、「集まる」は形態的に「-ar-」という接辞を持っているにもかかわらず、意味的に「脱使役化」という特徴を持たない場合が数多くある。
以上の問題点をまとめると、日本語には(14)のようなLCSに当てはまらない自動詞が多数・多量に存在する。このような自動詞は必ずしも-ar-という形態を持つわけではない。日本語固有の形態とLCSで表示する意味との関係を整理しないと、「脱使役化自動詞」という項目を立てても、この種の自動詞をうまく処理することができない。
本研究は意味の立場に立ちながら、コーパスから引き出した実例に基づいて、形態と意味との関係を整理しようとする。
1.3 本書の解決案
1.3.1 意味からの考察の必要性と[cause]という手がかり
1.1節と1.2節では、自他対応と自他交替の定義について先行研究を踏まえた上で述べ、それに関する問題を指摘した。そして、本研究は意味の立場に立ち、形態と意味との関係を整理しようとすることを明らかにした。
若干の例外があるにもかかわらず、形態的な対応は同じ語根を共有すること、統語的な対応は他動詞のヲ格が自動詞のガ格が共通することと従来の自他対応のように規定して大きく間違いはない。しかし、意味的な対応は「同一事態の側面を叙述している」という定義は明らかになっていない部分が残っている。つまり、同一事態には、いくつの側面があるのか。自動詞と他動詞はそれぞれ、どの側面を叙述しているのか。各側面は、どのような相互関係にあるのか。したがって、自動詞と他動詞はどのような相互関係にあるのかなどの問題ははっきりしていない。たとえば、「同一事態の側面」という定義は、「飲める」のような「可能動詞」を自他対応から取り除くことができない。また、同一事態の側面を叙述していなくても、自動詞と他動詞は、もし形態的に対応していれば、意味になんらかの関連があるはずである。たとえば、前述した「風が吹く-笛を吹く」や「期限が切れる-期限を切る」のようなペアがその例である。
一方、英語の先行研究は、自他交替をなしている自動詞と他動詞が[cause]の関係にあると述べる点ではほぼ一致している。たとえば、Pinker(1989)は自動詞のbreakと他動詞の breakの間の意味関係は[cause]の関係にあると分析した。LCSで表示すると、以下のようになる。
(23)
a.自動詞: | [y BECOME[ y BE AT z]/ROOT] |
b.他動詞: | [[x ACT ON y]CAUSE[y BECOME[ y BE AT z]/ROOT] |
他動詞が表す動作は自動詞が表す変化を引き起こしたという。日本語の自他も非対格動詞と他動詞との自他交替をなしているという立場の先行研究〔14〕は、暗黙のうちに自動詞事象と他動詞事象が[cause]の関係にあるという観点を採用してきた。この観点を採用すれば、上記の自他対応の立場の先行研究の穴が埋まるように見える。つまり、「同一事態の側面を叙述する」という意味的な規定は、自動詞が叙述する側面と他動詞が叙述する側面がどのような相互関係にあるのかという点をはっきりしていないが、自他交替の立場の先行研究は、それが[cause]の関係であると答えている。しかし、実例の動向からみれば、この答えは必ずしも正しくない。たとえば「夜を明かす―夜が明ける」などのような[cause]の関係をなしていない例が挙げられる。この点についてには、1.2節ですでに述べている。
本書は、以上の[cause]の関係の是否を手がかりにして、形態的に対応している自動詞と他動詞の間の意味関係を再検討する。便宜のため、以下では、自動詞事象と他動詞事象が[cause]の関係にある場合を[+cause]、そうでない場合を[-cause]と記す。
1.3.2 [-cause]の関係
前節でわかるように、自動詞が表す事象が、それに対応する他動詞事象と[cause]の関係にあるという主張は、多くの先行研究に採用されてきた。動詞の実例の動向から再検討してみたら、この主張が正しい場合もあれば、正しくない場合もある。[+cause]の場合は、すでに多数の先行研究に論じられてきたから、本書はそれについて深入りしない。本書は[-cause]の場合にフォーカスを当てて考察・分析を行う。
他動詞から見ると、いわゆる「介在性の表現〔15〕」と「状態変化主体の他動詞文〔16〕」は、各下位事象の間において、[-cause]の関係が確認される。「太郎は美容室で髪を切った」という介在性の表現の事象構造には、美容師の動作という下位事象が実際に存在する。美容師の動作という下位事象と、髪の変化という下位事象との間に、直接的な[+cause]の関係が確認される。つまり、髪の「切れる」という変化を引き起こしたのは、美容師の「切る」という動作であり、主語の「太郎」ではない。太郎は髪の変化という下位事象を直接に引き起こさない。言い換えれば、太郎は、髪の変化という下位事象と[-cause]の関係にある。「私たちは空襲で家財道具をみんな焼いてしまった」という「状態変化主体の他動詞文」の事象構造を分析してみると、空襲が家財道具の変化を引き起こしたという直接的な[+cause]の関係が想定される。したがって、「私たち」は「家財道具の変化」と[-casue]の関係にあることが自然にわかる。
以上の両構文には共通点がある。下位事象(美容師→髪;空襲→家財道具)に[+cause]が観察される。上位事象における主語は目的語そのものではなく、下位事象全体に関与する。本書において、上記の上位事象を「複雑事象」と呼び、下位事象を「単純事象〔17〕」と呼ぶ。
(24)
(25)
主語(「太郎」と「私たち」)は下位事象全体と上位事象を構成する。そして、主語と下位事象全体との関係は[-cause]の関係であることが確認できる。[-cause]の関係とはいったいどのような関係なのかについては、さらなる考察を加えないと結論を出せないが、現段階では、「介在性の表現」においては、その関係が[have]、「状態変化主体の他動詞文」においては、その関係が[lose]と分析しておきたい。詳しくは第四章を参照。そして、[cause][have][lose]の三者をまとめて、「責任的関与」としておく。「責任的関与」という関係は、前述した[+cause]をも含めることができる。言い換えれば、目的語の変化を引き起こすことが必須なのではなく、その事象に責任的関与をすればよいのであり、責任性関与さえ満たせば、日本語の他動性が成り立つのである。
(26)
本書は「責任的関与」を以下のように定義づける。
ある事象がまずある。その事象は自動詞事象であれ、他動詞事象であれ、〈変化性〉を伴う事象であればよい。そして、ある意識的主体がその変化事象に意識的に自分の身を入れようと、あるいは、その変化事象に関係を結び付けようとすると、意識的主体と事象は「責任的関与」の関係にある。意識的主体が変化の達成の過程と関わらず、変化の結果に責任をもっていれば、「責任的関与」関係が成り立つ。変化の達成の過程というのは、変化はもののそれ自身の力で変化するか、主体によって引き起こされて変化するか、主体以外のものによって引き起こされ変化するかという過程を指す。
この主張を用いて、前述した「例外」を説明することができる。
(27)
a.私たちは | 夜を | 明かした。 |
b. | 夜が | 明けた。 |
(28)
a.私たちは | 時を | 過ごした。 |
b. | 時が | 過ぎた。 |
(27)の私たちは夜に働きかけていないし、夜が明けることを引き起こさない。先行研究に広範に認められた[cause]の観点から予想すれば、このような自他交替が成立しないはずである。事実として存在している(27)(28)のような自他の対は、例外処置とされなければならない。
本書の観点からみれば、日本語の他動性は[cause]の関係に基づいていない。[cause]の関係でなくても、責任的関与の関係さえ成り立てば、他動詞が成り立つ。具体的には、「夜を明かす」ということが「夜が明ける」ことを引き起こさなくてもよい。他動詞「明かす」は、「夜があける」まで自分がいるなどの形で、意図的に話者自分を「夜が明ける」という自然的な事象に関与しようとする、関係を結び付けようとするという意味を表す。(28)の「時が過ぎる-時を過ごす」も同様に考えられる。要するに、本書の観点によれば、(27)(28)は例外とみなさなくてもよい。言い換えれば、従来の先行研究の主張によれば例外処置としなければならないものまで説明できるので、本書の主張は説明力がより高い。
自動詞の意味構造にも[-cause]の関係が観察される。自動詞は他動詞の目的語に生じた結果〔18〕の部分をプロファイルするといわれる。結果は二種類に分けられる。一つは時間的な推移に伴う自然的な結果であり、もう一つは因果関係の結果である。それについての先行研究は宮腰(2012)が挙げられる。
「結果」とは何か
A-Ⅰ(第Ⅰ案):時間的前後関係に基づく規定
…
A-Ⅱ(第Ⅱ案):因果関係に基づく規定
…
A-Ⅲ(第Ⅲ案):結果を二つにわけて規定
·「結果(result)」とは、原因によって引き起こされたコトである。
·「結果(resultative)」とは、単一事象の完結点以降のアスペクト局面である。
(宮腰 2012:2)
宮腰(2012)によると、時間的前後関係に基づいて規定したら、「結果」はコトを時間軸に沿って二つ(以上)の部分に分割し、そのうちの後(または最後)の部分である。一方、因果関係に基づいて規定したら、「結果」は原因に対する概念である。それは原因によって生み出されたもの。また、ある行為によって生じたもの。その生み出された状態である。(宮腰 2012:2-3)
本書は以上の宮腰(2012)の主張を自動詞の意味構造の分析に採用する。まず、因果関係のキーワードは「引き起こす」であるため、本書の主眼を置くところの[cause]と一致している。そのため、本書は因果関係を[+cause]と解釈する。そして、以上の宮腰の主張によれば、自動詞が表す結果は必ずしも因果関係の結果ではないと考えられる。つまり、自動詞が表す結果は、他動詞の働きかけのよって生み出された結果だけではなく、単なる時間軸上の二つの部分のうちの後の部分という意味の結果である可能性もある。たとえば、
(29)
a.太郎が | 富士山を | 見る。 |
b. | 富士山が | 見える。 |
「見る」と「見える」との間に、時間的前後関係が確認されるが、因果関係が必ずしも確認されない。「見る」という動作があっても、必然的に「見える」という結果を引き起こすわけではない。「見ても見えない」ことが多数ある。「見える」は、「見る」という動作が引き起こした結果より、単なる「見る」という動作の完結点以降のアスペクト局面を表す。
さらに、因果関係([+cause])は通常時間的に果が因に後続しているが、時間的な前後関係は必ずしも因果関係と一致しない。たとえば、
(30)
a.太郎は | 花瓶を | 割った。 |
b. | 花瓶が | 割れた。 |
という自他の間には因果関係も時間的前後関係も見られる。つまり、「割る」という事象を二つの部分にわけることができる。太郎の花瓶への働きかけの行為という部分と、花瓶が割れた状態になった変化という部分。時間軸に沿ってみると、二つ目の部分は、一つ目の部分に後続している。つまり、両者は時間的前後関係にある。また、二つ目の部分は一つ目の部分によって引き起こされる。つまり、両者は因果関係([+cause])にある。(30)に対して、前述した(29)の自他の間には因果関係がみられなく、ただ単なる時間的前後関係がみられる。つまり、各アスペクト局面間の時間的推移関係しか見られない。したがって、時間的前後関係と因果関係は以下のようにまとめることができる。
(31)
本書は、[cause]の関係ではなく、より広範的な時間的前後関係が日本語の自動性にとって重要であると主張する。佐藤(1994a)は働きかけの動作という下位事象と対象の変化という下位事象の間の関係を以下のように記述している。
(32)[AGENT:DO+ ]+[THEME:REALIZATION]
(佐藤 1994a:29)
佐藤(1994a)は両下位事象を結びつける関係を記述するとき、[cause]を使わず、[+]を使っている。佐藤(1994a)はこの[+]について詳しく説明していないが、本書は時間的前後関係という意味で、[+]という記号を引き継いで使うようにする。ただ、働きかけの動作という下位事象と対象の変化という下位事象を記述する際、佐藤(1994a)の記述法を採用しないようにする。本書にとって、佐藤(1994a)の記述法は通常のLCSの記述法と本質的に違いはない。ただ、記述用語があまりにも特別である。その特別な用語には特別な意味があれば、それを援用してもかまわないが、本書にとって、その用語にはそれなりの意味はない。そのため、下位事象を記述する際、佐藤(1994a)の記述法を採用せず、通常のLCSの記述法を採用する。本書の自動詞の意味構造に関する主張は、以下のように表示することができる。
(33)
この主張を用いて、「植える―植わる」「建てる―建つ」のような英語に見られない他動詞からの自動詞化を説明することができる。前にも触れたが、「植わる」の意味構造は、人為的な動作が前提となっている。誰かが木を植えるということがなく、山に自然に生えている木について、「植わっている」とは言えない。英語においてこのように明確に人為的な動作が前提となっている他動詞は、自動詞化が行われない「plant(vt)-✳plant(vi);build(vt)-✳build(vi)」(✳The tree planted; ✳The house built)。つまり、英語のこの場合の人為的な動作を行う動作主は脱落できない。英語と反対に、「植わる」という自動詞の存在でわかるように、日本語は人為的な動作が前提となっていても、動作主がそのまま脱落することができる。しかし、それはなぜなのか。または、日英の差異はどう生じてきたのか。
影山(1996)は各下位事象の間の[cause]の関係を認めた上、causerとしての動作主がそのまま脱落した〔19〕と主張する。そして、その原因が日本語に接辞があることであると述べている。接辞があるために、自動詞化の条件が英語より緩やかなものであっても認められる。一方、英語の自動詞化が形のないゼロ形態によって行われている。ゼロ接辞は、せいぜい「反使役化〔20〕」の力しか持てなく、「脱使役化〔21〕」の力を持たない。したがって、英語は「脱使役化」を許さない。
しかし、コーパスの実例からわかるように、-ar-は脱使役化の必要条件でもないし、充分条件でもない。これについて1.2.2節ですでに論じた。たとえ-ar-はピッタリに脱使役化という機能を果たす接辞であるという影山(1996)の主張に則っても、まだ問題がある。接辞はそもそも形態レベルのものである。ある形態はなぜ動作主を脱落させるという強い機能を果たすかということを明らかにしなければならないが、影山(1996)はそれについて触れていない。要するに、影山(1996)は形態と意味との関係を明らかにしないまま、形態を用いて意味の問題を解決しようとした。
本書は、因果関係なら、動作主はそれほど安易に脱落することができない、因果関係でないなら、各アスペクト局面の中の一つとしての動作局面が脱落できる、もしくは、動作局面はプロファイルされなくても自然であると主張する。日英の差異もそこから生じてくると考えられる。英語の交替をなしている自他動詞は、因果関係、つまり[+cause]で結びついている。causerとしての動作主は脱落できたい。そのため、英語は「脱使役化」を許せない。一方、日本語の交替をなしている自他動詞は、時間的前後関係で結びついている。動作主は必ずしもcauserとして機能しない。動作主の動作は、ただ各アスペクト局面の中の一つである。動作主の動作は、因果関係の因であるなら、必要であり、脱落はできない一方、時間的前後関係の前の局面であるなら、必要でなく、脱落しても不自然ではない。具体的には、「植わる」は「植える」という動作によって引き起こされた変化というより、「植える」という動作の完結点以降のアスペクト局面を表す。従って、動作主(木を植える人)の脱落は、causerの脱落ではなく、二つの局面のうち、前の部分がそもそもプロファイルされていないと解釈する。したがって、他動詞からの自動詞化は、影山(1996)が主張したように、[+cause]の関係が前提とした動作主の脱落や動作主の対象への同認などが行わなくてもよい。働きかけの動作の完結点以降の局面があれば、自動詞化は成り立つ。「植わる」も「建つ」も形態と関係なく、働きかけの動作の完結点以降のアスペクト局面を表す。要するに、この主張は、形態的に-ar-という接辞が付いている「植わる」のような自動詞から形態的に-ar-という接辞が付いていない「建つ」のような自動詞まで説明できるため、従来の[cause]の主張より説明力が高い。