他動詞の意味的構造の全体像
表1で示したように、「介在性の表現」と「状態変化主体の他動詞文」はともに客体の「変化性〔1〕」という素性を伴う。それ以外の〈意志性〉や〈働きかけ性〉などの素性を伴わなくても、「介在性の表現」と「状態変化主体の他動詞文」は問題なく成立するが、〈変化性〉という素性を伴わなければ、両文は成立しなくなる。ここで少なくとも〈変化性〉という素性が「介在性の表現」と「状態変化主体の他動詞文」の成立に大きくかかわっていると言えるだろう。
角田太作は「他動性の研究の概略」(2007)で、「意図性〔2〕」と「被動作性〔3〕」について、以下のように述べている。
他動詞文と呼ばれる文の格枠組みの実現に関しては、他動性の意味的特徴の中で、「I被動作性」が最も重要であり、「被動作性」と「E意図性」などが食い違った場合には「被動作性」が優先すると主張した。
(角田 2007:5)
角田の主張は、他動性の意味的素性の中で、最も重要な素性は〈変化性〉であると解釈されてもよい。角田の主張についてさらに検討の余地があると考えられるが、〈変化性〉の重要性が示唆される。
本書は、〈変化性〉という素性が[-cause]の関係とって非常に重要な素性であると主張する。客体の変化事象があれば、この変化事象は自立なのか、主体によって引き起こされるのか、統語的に出てこない被使役者によって引き起こされる(「介在性の表現」)のか、それともある原因によって引き起こされる(「状態変化主体の他動詞文」)のかなどは重要ではない。そして、主体はこの変化になんらかの関係で結び付けられたら、他動性が成り立つ。[+cause]の関係も以上に述べた「なんらかの関係」の中の一種であると考えられる。言い換えれば、主体は変化に「引き起こし」という形で結びつけても、それ以外の関係で結びつけても他動性の成立を妨げない。つまり、主体が変化を引き起こしてもよいし、引き起こさなくてもよい。主体が変化を引き起こす場合、「割る」のような通常の他動詞の[+cause]の関係がみられる。主体が変化を引き起こさない場合、主体が変化になんらかの関係(たとえば[have]や[lose]などの関係)で結びついたら、他動性は依然として成立する。この場合、「通常の他動性からはみ出してしまう」[-cause]の関係がみられる。以上で述べた「なんらかの関係」について、さらに考察の余地があると考えられるが、現段階の考察で、それを「責任的関与」関係とまとめる。「責任的関与」を以下のように定義する。
ある事象がまずある。その事象は自動詞事象であれ、他動詞事象であれ、〈変化性〉を伴う事象であればよい。そして、ある意識的主体がその変化事象に意識的に自分の身を入れようと、あるいは、その変化事象に関係を結び付けようとすると、意識的主体と事象は「責任的関与」の関係にある。意識的主体が変化の達成の過程と関わらず、変化の結果に責任をもっていれば、「責任的関与」関係が成り立つ。変化の達成の過程というのは、変化はもののそれ自身の力で変化するか、主体によって引き起こされて変化するか、主体以外のものによって引き起こされ変化するかという過程を指す。
「責任的関与」は以下のようにまとめることができる。
(13)
さらに、主体が客体に向かう、あるいは及ぶが、客体が変化しないという事象を表す他動詞が存在する。例えば、「待つ(「太郎が次郎を待つ」)や「読む」(「太郎が本を読む」)のような他動詞が挙げられる。このような他動詞の事象構造には主体の動作という一つのみの事象がある。客体の変化事象がない。一つのみの事象は単一事象(simple event)である。単一事象他動詞の主語は行為事象に責任を持つため、責任的関与に収められる。単一事象を合わせて、他動詞の全体像は以下のようにまとめることができる。
(14)
(14)に素性分析を合わせてまとめると、以下の表2の通りになる。
表2
まず、事象構造に事象が一つあるというのは、単なる行為事象、ないしは、単なる変化事象のことを指す〔4〕。事象構造に事象が二つあるというのは、通常は行為事象と変化事象という二つの事象が同時に存在することを指す。時には、責任者の関与事象と変化事象という二つの事象が存在する場合もある。事象構造に事象が三つあるというのは、責任者の関与事象、変化事象、直接的に変化をもたらす事象という三つの事象が存在することを指す。
また、日本語の他動性に関しては、意志性より、責任的関与性が根本的であると考えられる。「思わず皿を落とした」や「私たちは空襲で家財道具を焼いた」などの例における主体は〈意志性〉を持たず、〈責任的関与性〉を持つ。
さらに、動詞は用法によって、表2のどの行に入れられるかが変わる。たとえば、表2で挙げた9の「切る」は「ラオスの床屋で髪を切った」という文の事象構造に「髪の変化事象」、「床屋の直接変化をもたらす事象」、「話者の関与事象」の三つの事象があり、「介在性の表現」の用法である。この用法の「切る」は9に入る。しかし、同じ「切る」でも、「太郎は封筒の端を切った」のような用法は「太郎の行為事象」と「封筒の端の変化事象」の二つの事象があり、また、5の「割る」と同じ素性分布を示すので、5に入るべきである。また、10の「焼く」は「状態変化主体の他動詞文」の用法であり、その事象構造に三つの事象があるので、10に入る。しかし、「ママは魚を焼く」のよう用法は5に入る。
1の「歩く」は形式的にヲ格を取るにもかかわらず、自動詞である。場所のヲ格は内項にならないためである。意味素性からみると、〈意志性〉を除くと、「歩く」は、他動性の意味特徴としての素性、たとえば〈働きかけ性〉や〈変化性〉などを持たず、事象構造としは行為事象のみの単一事象である。
2の「思う」の用法のほとんどは、内容を表すト格を伴うものであるにもかかわらず、「思う」はヲ格を取る他動詞でもある。このヲ格を伴う用法は、人が意図的に思考するもので、意図性を持つと分析できる。しかし、「光ったと思ったら」「寒いと思って」などの用法は、素性から見ると、他動詞の意味素性をほとんど持っていない。「思う」は他動詞の中で、自動詞に近いものであると考えられる。「他動詞文と自動詞文は峻別できない。連続体をなす」と主張する先行研究〔5〕によれば、「思う」は自他の真ん中にあるニュートラルなものではないかと思われる。
3の「待つ」もヲ格を取る他動詞である。他に「辞書を持つ」や「本を読む」などの例があげられる。意味素性からみると、〈意志性〉を除くと、他動性の意味特徴としての素性、たとえば〈働きかけ性〉や〈変化性〉などを持たない。事象構造からみれば、「人を待つ」ことは人の変化を引き起こさないため、事象構造には事象が一つしかない。つまり、「待つ」は単一事象を表す他動詞である。以上の素性分析と事象構造分析からみれば、「持つ」タイプも自動詞に近いと考えられる。
この結果は本居春庭(1828)と一致しているところがある。本居春庭(1828)は第一段の自動詞を「おのつから然る」と「みつから然する」とに分けている。「みつから然する」というグループのメンバーには、現代日本語文法でいう自動詞のみならず、他動詞も含めている。たとえば、本居春庭は「多行より佐行にうつりて自他のわかるる例」のところで、多行四段活の例として、「うつ、かつ、たつ、まつ、もつ」という動詞を挙げ、これらを「みつから然するをいふ詞」であるとしている。「うつ(打つ)」「まつ(待つ)」「もつ(持つ)」は現代日本語文法では、他動詞と分類されるが、本居春庭(1828)に「みつから然する」という自動詞分類に入れられている。
「待つ」や「持つ」のような動詞は、ヲ格目的語を取るにもかかわらず、目的語が表す客体の変化を引き起こさない。そのため、話者は動作主体のみに関心を持つ。春庭は、このようなところから、目的語をとっても「みつから然する」自動詞タイプであると認定したのだと考えられる。
現代日本語文法の自他の分類は、大まかに言って、項構造に基づいているとされる。一項動詞なら自動詞、二項動詞なら他動詞という分類基準が採用されている。「待つ」は主体と客体という二つの項を取る、また、直接受身になれるため、春庭の主張のように自動詞に分類されるわけにはいかない。しかし、素性分析と事象構造からみると、「待つ」は他動詞の中で、自動詞により近いものであることを示すことができる。
4の「見る」は、素性分析と事象構造分析から見れば、3の「待つ」と違いはない。ただ、「見る」は自他対応をなしている。「見る」に対応して、自動詞「見える」が存在する。ここで注意されたいのは、「見る」は客体の変化を引き起こさい。つまり、〈-変化性〉である。「見る」という動作は必然的に「見える」という結果を引き起こさない。見ても見えない場合が多数ある。「見る」と「見える」は因果関係をなさない。つまり、[-cause]の関係にある。このような[-cause]の関係については、第七章から自動詞を中心に詳しく後述する。
5の「割る」は〈+意志性〉〈+働きかけ性〉〈+変化性〉という素性を持ち、典型的な他動詞と言える。事象構造からみれば、主体の働きかけの動作という下位事象と、客体の変化という下位事象がある。二つの下位事象は[+cause]の関係にある。一つのcausal chainに収められるため、事象全体は単純事象である。
6の「夜を明かす」のタイプには、「仕事を終える」「時を過ごす」などの例が挙げられる。
(15)ときには弁当とお茶を持参して星空の下で夜を明かすなんてことも珍しくない。
(16)仕事を終えてスターバックスに向かうときには雪が降ってきました。
(17)知り合った男爵、博士によって楽しい時を過ごす。
(15)の素性分析を行うと、以下のようになる。文に現れていないが、主体の「私」は意図的に「夜を明かす」という行為をする。つまり、(15)は〈+意志性〉である。「私」は「夜」に働きかけていない。「私」から「夜」への力の伝達・移動はない。つまり、(15)は〈-働きかけ性〉である。「夜が明ける」という自立的な変化がある。「私が夜を明かす」という他動的な事象があってもなくても、「夜」は自然的に「明ける」。つまり、(15)は〈+変化性〉である。
また、事象構造からみると、主体の行為事象と客体の「夜があける」の変化事象があるから、事象構造には二つの下位事象があり、事象全体は単一事象ではない。「私の行為」は「夜の変化」を引き起こさないため、二つの下位事象は一つのcausal chainに収められない。両者は[-cause]の関係にある。
いままで見てきた「介在性の表現」と「状態変化主体の他動詞文」という現象においては、他動詞が複雑事象を表す際、その下位的な単純事象はすべて[+cause]の関係が含まれている複合事象である。この点においては、「夜を明かす」は以上の両現象と異なる。「夜を明かす」の下位にある「夜が明ける」という単純事象は複合事象ではなく、単一事象である。
しかし、複雑事象という観点からみれば、「夜を明かす」という現象は上記の両現象と共通している。つまり、「夜が明ける」という自動詞的な〈+変化性〉の単純事象がまずある。そして、主体の私は、「夜が明ける」までずっと目が覚めた状態でいる。「私」が「夜が明ける」ことに、自分を結び付けようとする。つまり、「私」が「夜が明ける」という事象に「keep myself up」という形で責任的関与している。「私」が「夜」と「実体対実体」の関係を成さずに、「私」が「夜が明ける」と「実体対事象」の関係をなしている。「私」という実体と「夜が明ける」と事象の間の関係は[-cause]の関係であると考えられる。
(18)複雑事象を表す他動詞の意味的構造
要するに、複雑事象を表すという点において、「夜を明かす」文は「介在性の表現」や「状態変化主体の他動詞文」と共通している。主体と下位的な単純事象との関係は責任的関与の関係である。ただ、下位的な単純事象の事象構造というところでは、「夜を明かす」文、上記の両者と異なる。「介在性の表現」や「状態変化主体の他動詞文」の下位的な単純事象は他動的な複合事象である一方、「夜を明かす」文の下位的な単純事象は自動的な単一事象である。
7の「落とす」のタイプに、以下のような例も挙げられる。
(19)ジョンは、思わず窓に手をついて、窓をこわしてしまった。
(天野 1987:153)
(20)岡村はぼんやりして煙草の灰をこぼしてしまった。
(天野 1987:153)
(21)母は買った品物をうっかり店に置いてきてしまった。
(天野 1987:153)
また、「落とす」に関しては、以下の中国人の自他動詞誤用の実例が興味深い〔6〕。ある中国人はレストランでアルバイトをしていた時、手が滑ってお皿をパッと落としてしまった。中国人はパッと落としたという場合、「哎呀,掉(落ちる)了!」という発話が一番自然である。その人は中国語の発想のままで「あら、落ちた!」という日本語を口に出し、これを見た店長に、「落ちたじゃなくて、あなたが落としたんでしょ」といわれたという。「わざとじゃなくて、不注意なのに」と中国人は思いながら、なぜ店長が「落ちる」という自動詞を「落とす」という他動詞に言い直したのだろうか。
他動詞「落とす」を使うなら、「わざと」という〈意志性〉が思いつくのは、当然のことだろう。〈意志性〉は、他動性の中でもっとも重要な意味素性の一つである。「ご飯を食べる」「本を読む」などの普通の他動詞は、常に〈意志性〉を伴う。しかし、上記の例では、店長がその中国人の行動をずっと見ているから、「わざとではない」ことはわかるはずである。したがって、店長は、〈意志性〉という意味素性を強調して他動詞を選択するわけではない。
本書は、店長が〈意志性〉を強調するために、誤用者の「落ちる」を「落とす」に直したわけではなく、〈責任的関与〉を強調するのであると考える。まず、「お皿が落ちる」という〈+変化性〉の単純事象がある。この事象を言語化して表現する際、「あら、落ちた」のように、自動詞を選択して表現するなら、「お皿が自ら落ちた」「お皿が自然に落ちた」の意味が出てくる。しかし、アルバイターとしての誤用者は、「落とさないように保持すべき」「責任がある」などのように、「お皿が落ちる」という変化に関与している。この責任的関与の関係を表現するなら、店長の「落とす」という他動詞を選択して表現しなければならない。「あら、落ちた」という自動詞文を使うなら、「変化」が自然生起のように表現され、店長が考えた誤用者の「変化」への責任的関与がキャンセルされる。図で示すと、以下の通りになる。(22)の他動詞文は「責任的関与」を強調するが、(23)の自動詞文は、自然生起な単純事象だけが強調され、誤用者とこの事象との間の責任的関与の関係が無視されるようになる。誤用者は、(23)の〈 〉付きの部分を表さず、変化事象だけを表すだけであったので、店長から、責任的関与をはっきりさせる「落とす」という他動詞が提示されたのである。
(22)あなたが落としたんでしょ。
(23)お皿が落ちた。
8の「失う」は自他対応をなしていない。たとえば、「4000円を失う」は、意志的に4000円を失うわけでもないし、4000円に働きかけて、「4000円を失う」という変化を引き起こすわけでもない。〈-意志性〉〈-働きかけ性〉が判断される。ただ、〈4000円がなくなる〉という〈+変化性〉が判断される。〈-意志性〉〈-働きかけ性〉〈+変化性〉という素性分布は、下のタイプ10と同様である。
9の「切る」タイプと10の「焼く」タイプは複雑事象を表すものである。タイプ9については、第四章ですでに分析した。タイプ9は〈+意志性〉〈△働きかけ性〉〈+変化性〉という素性をもつ。タイプ10については、第五章ですでに分析した。タイプ10は〈-意志性〉〈-働きかけ性〉〈+変化性〉という素性を持つ。