1.現象
第三章の4節で動詞の実例の動向を観察した際に、「前田さんは、幼いころ、父を病気でなくしていた」「3日前に財布を落としてしまいました」のような用例が出てきた。
このような例は、先行研究では「状態変化主体の他動詞文」として取り扱われている。本節では、本節では、まず、天野(1987)を概観することによって問題となる現象を確認するとともに,天野の解釈の問題点を指摘する。ついで,さらに現象の観察を加えて,causal chainの観点から分析を試みる。
1.1 先行研究
1.1.1 天野(1987)の概観
「状態変化主体の他動詞文」は、天野(1987)によって指摘されている。天野(1987)によると、「状態変化主体の他動詞文」は、従来の「他動性」論の枠からはみ出してしまう現象であるとされている。「状態変化主体の他動詞文」の表す事象において、主体から客体への働きかけていないし、客体の変化を引き起こさない。文主語の実体は事象の引き起こし手ではないという点で通常の他動詞文と異なる。
(1)私たちは、空襲で家財道具をみんな焼いてしまった。
(天野 1987:152〔1〕)
(2)勇二は教師に殴られて前歯を折った。
(天野 1987:152)
(3)気の毒にも、田中さんは昨日の台風で屋根を飛ばしたそうだ。
(天野 1987:152)
(1)の主語「私たち」、(2)の主語「勇二」、(3)の主語「田中さん」の意味役割は何かというと、事象の引き起こし手ではない。(1)では〈家財道具が焼けた〉という出来事を引き起こしたのは〈空襲〉であり、〈私たち〉ではない。「私たち」は〈焼く〉という動作を直接的に行うのでもないし、原因として間接的に出来事を引き起こすのでもない。天野(1987)は、〈空襲〉が原因として働いているため、〈私たち〉という「主体」〔2〕を欠いても、〈家財道具が焼けた〉という出来事が成立しうるとしている。天野(1991)は、〈家財道具が焼けた〉が〈私たち〉という主体と独立して成立する事象であると述べている。
〈私たち〉が、〈焼く〉という動作、あるいは〈家財道具が焼けた〉という事象の引き起こし手ではない。また、〈私たち〉から〈家財道具〉への働きかけもないため、〈私たち〉が主語の位置に現れるのは、不自然である。そのため、天野(1987)はこの現象を「従来の他動性の枠からはみ出してしまう」現象だと位置付けている。
天野(1987)は以下の(4)-(6)のような通常の経験者と上記の(1)-(3)のような他動詞文における経験者を、経験者aと経験者bに分類して、(7)のように示している。
(4)ジョンは、思わず窓に手をついて、窓をこわしてしまった。
(天野 1987:152)
(5)母は買った品物をうっかり店に置いてきてしまった。
(天野 1987:152)
(6)金さんはお皿を不注意で落としてしまった。
(7)経験者の二分類
(天野 1987:153)
そして、引き起こし手であるという点においては、経験者aと動作主や原因とは同じであり、経験者bはそれらと異なる。以下のような対立が成り立っている。
(8)主体の下位分類
(天野 1987:153)
天野(1987)は経験者bが主体になる他動詞文を「状態変化主体の他動詞文」と呼び、その構文の特徴を記述し、「状態変化主体の他動詞文」となるために必要な条件も述べている。さらに、なぜそうした条件の下では、「状態変化主体の他動詞文」という他動詞文しかならぬ意味を表すことができるのかについて述べている。まず二つの条件は以下のとおりである。
(9)「状態変化主体の他動詞文」の成り立つ条件
条件1:状態変化主体の他動詞文をつくる他動詞は、主体の動きと客体の変化の二つの意味を含む他動詞である。
条件2:状態変化主体の他動詞文のガ格名詞とヲ格名詞は、全体部分の関係にある。
(天野 1987:155-158)
なぜ上の二つの条件が必要かについて、天野(1987)は以下のように述べている。
…条件1について…(動き他動詞と対比的に)動き変化他動詞は主体の動きの他に客体の変化の意味も持っている。この場合、主体の動きの意味が希薄になったとしても、客体の変化の意味が跡に残る。したがって、主体の動きの側面は、動き他動詞の表すそれと同じように個々の動詞の持つ実質的な動きの意味である必要がない。つまり、主体の動きの意味が個々の動詞の持つ実質的なものである場合の他に、その実質性を失ってどの他動詞にも共通するような希薄なものであることも可能なのである。そして、こうした動き変化他動詞が持つ複数の意味の側面に対応して、主体の意味も多様なのである。主体の動きが実質的なものである場合には、主体はその動きを行う直接の仕手である。…これに対し、主体の動きの側面が希薄でただ〈何かの事態を引き起こす〉というような、動詞ごとの違いが捨て去られた意味の場合には、その主体は実際の動き手ではなく〈何かの事態を引き起こす〉者、つまり、間接的な原因を意味することになる。これが原因主体他動詞文と呼ばれるものである。
このように、動き変化他動詞が述語動詞である場合には、主体として実際の動き手(動作主・経験者a)以外のものがなることも出来る。主体として動き手以外のものも取り得るというこの選択の幅があるからこそ状態変化主体の他動詞文を作ることも出来るのであろう。状態変化主体の他動詞文は、主体の実質的な動きの意味がなく、又、間接的に〈何かを引き起こす〉という意味さえなく、その主体の動きの側面に相当する意味を捜すならば、〈客体に起こった変化を所有する〉、〈ある事態を所有する〉というきわめて動作性の低い意味になるであろう。主体の動きと客体の変化との二重的な意味を持つ動き変化他動詞を述語成分に持つ文は、主体として、このような、ある事態を所有する者、即ち状態変化の主体も取ることが出来るのである。
…
条件2について、前述した〈所有する〉という意味が成り立つためには、主体が所有者であり、客体についての変化が主体の所有物であることが必要なのである。
(天野1987:159-160)
1.1.2 天野(1987)の問題点
1.1.2.1 デ格の重要性
本書は、以上の二つの条件は妥当であると認める。しかし、児玉(1989)が指摘したように、以上の二つの条件以外に、「デ格の重要性」も考えなければならない。児玉(1989)は以下の例文をあげ、「ガ格名詞がウゴキの引起こし手でなくなるためには、主体とは別に直接的な事態の引起こし手が必要なのである」と述べている(児玉 1989:71-72)。
(10)伯母は丹精こめた菊の花を枯らした。
(児玉 1989:71)
(11)伯母は丹精こめた菊の花を霜で枯らした。
(児玉 1989:72)
(10)は意図的に水をあげずに、菊の花を枯らしたという解釈もでき、非意図的に菊の花に水をあげ忘れて枯らしてしまったという解釈もできるが、いずれにせよ、主体の「伯母」は事態の「引起こし手」であると解釈される。意図的の場合では、主体が天野(1987)でいう「動作主」にあたり、非意図的の場合では、主体が天野(1987)でいう「経験者a」にあたる。一方、(11)のように「霜で」を付けると、主体の「伯母」が「経験者b」、つまり、状態変化主体と解釈されるようになる。デ格の性質についてさらなる考察の余地があると考えられるが、「状態変化主体の他動詞文」の成立に関して、デ格が大きく関わっていることが示唆される。この「デ格の重要性」については、天野(1987)は言及しなかったが、後の天野(2002)に受け入れられることになる。
1.1.2.2 二つの条件の必要性についての説明
前節では、二つの条件以外にも、他の条件が考えられるという問題を指摘したが、天野(1987)の二つの条件の必要性についても、問題点があると考えられる。
なぜ二つの条件が必要かについては、天野(1987)は「動き変化他動詞は多義であるため、対応する主体も多様なのである。したがって、主体として動き手以外のものも取り得るというこの選択の幅があるからこそ、「客体に起こった変化を所有する」ものさえも他動詞文の主体として取り得る」と指摘している。
たしかに、天野(1987)が指摘したように、動き変化他動詞は「(主体の)動き」と「(客体の)変化」という両側面がある。「(客体の)変化」の側面がプロファイル〔3〕されるとき、「(主体の)動き」の側面が希薄化する可能性もあるし、「(主体の)動き」の側面がプロファイルされるとき、「(客体の)変化」の側面が希薄化する可能性もある。しかし、動き変化他動詞は「動き」と「変化」以外に「所有」という側面があることが証明しにくい。そのため、「所有者」まで主体として許容することは考え難い。「選択の幅があるから」とはいえ、すべてのものが主体として許容されるわけにはいかない。なぜ他の要素ではなく、「所有者」が許容されるかということも十分な理由づけがない。天野の「選択の幅がある」という解釈は根拠性が低い。
田川拓海の『現代日本語における動作主の意味論と統語論』(2004)は、天野(1987)の問題点を指摘した際、本書とほとんど同じ観点を述べている。以下は田川(2004)からの引用である。
天野は主体の動作性が極限まで低くなった時に、〈客体に起こった変化を所有する〉、〈ある事態を所有する〉という意味が生まれ、状態変化主体の解釈になると述べている。すなわち、次のようなスケールを想定していると考えられる。
(14)動作性のスケール
…
しかし、果たして動作性をどんどん低くしていけば状態変化主体という解釈が得られるのであろうか。確かに動作性のスケールという観点からは上のような連続性が見られるかもしれない。しかし、動作主から原因までは差はあれどある事象の引き起こし手である。一方、状態変化主体というのは引き起こし手としての意味はない。それらが果たして上のスケールのように滑らかに連続していると考えられるのであろうか。天野の説明はこの点に関する意味論的な保証を補わなければ成立しないであろう。
(田川 2004:66)
田川(2004)が指摘した天野(1987)の問題点を本書のcausal chainの観点から解釈すれば、以下のようになる。第三章で確認したように、「動作主」でも、「経験者a」でも、「原因」でも、(働きかけの)力を発するものであり、causal chain上のinitiatorになることが可能である。しかし、「状態変化主体の他動詞文」においては、状態変化の主体、つまり経験者bから力を発することもないし、力の伝達・移動もまったくない。たとえば、「私たちは空襲で家財道具を焼いてしまった」という事象では、「私たち」は力を発さない。また、事象において力の伝達・移動があるものの、その力は「私たち」から「家財道具」へという方向で伝達・移動していない。「空襲」から「家財道具」へという方向の伝達・移動である。つまり、「私たち」という状態変化主体はcausal chain上のinitiatorになる可能性はない。要するに、力を発するものとして、causal chain上のinitiatorになれるか否かという点において、「経験者b」は「動作主」、「経験者a」、「原因」と性質が違うから、連続性が見られない。「選択の幅がある」とはいえ、initiatorと質的に同じものを統語的な主語に投射してよいが、質的に違うものまでが統語的な主語に投射できることは、十分な根拠をあげないと説明力がないが、天野(1987)はその根拠について触れなかった。
鈴木容子は「日本語の他動詞文におけるデ格と主語の意味役割」(2006)において、「天野(1987)は、同じような他動詞文を集め、その成立条件を考察した後に、その他の他動詞文との共通点をさぐる方法を採っている」と指摘している。本書は、そもそも「通常の他動性からはみ出してしまう」現象なのに、それなりの特徴を無視し、通常の他動詞との共通点をさぐるという天野の方法は妥当ではないと思われる。
また、天野(1987)は「状態変化主体の他動詞文」が従来の他動性モデルと連続したものとし、従来の他動性の枠の中に入れようとしている。天野(1987)は他動性の再構築を図るものではない。
1.2 さらなる記述
デ格に関しては、仁田(1993)は以下のように指摘している。
意志的な事象を形成しうる動詞に対しては、[Nデ]は、[手段—道具]的に解釈される。「僕はうっかり金槌で窓ガラスを割ってしまった」のように、無意図的に行ってしまった動きにも、[手段—道具]の[Nデ]が共起することがないわけではない。
(仁田 1993:10)
非意図的な事象を表す文にあっては、[Nデ]は、原因的に解釈される傾向にある。
(仁田 1993:10)
仁田の指摘と表裏一体の関係にあるのは、原因デ格を伴う文が、非意図的な事象を表す文と解釈されやすいということである。つまり、文に原因デ格があると、主語の意志性が弱まるという。
鈴木(2006)は、「それは、原因というのは引起こし手だからである。一文の中に引起こし手は一人(一つ)しか存在できない。その制約により、〈原因〉のデ格を表示すると主語に〈動作主〉という意味役割を付与することができず、〈経験者〉という意味役割になり、その結果「非意図的である」という解釈が生じるのだろう」と述べている。
以上に述べた〈意志性〉を持たない主体は、動作主ではない。また、その主体は客体へ働きかけないし、客体の変化を引き起こさない。「伯母は丹精こめた菊の花を霜で枯らした」という文における「伯母」は、菊の花に、働きかけも変化の引き起こしも、何もしていない。ただ「菊の花は枯れた」という事象は、「伯母」の身に降りかかってきたのである。要するに、「状態変化主体の他動詞文」において、状態変化主体は〈意志性〉もないし、〈働きかけ性〉もない。客体に〈変化〉があるものの、その変化は状態変化主体から引き起こされるわけではない。
事象構造分析の観点から説明すると、以下のようになる。事象構造における事象の「引起こし手」が、統語構造では、原因デ格として現れている。言い換えれば、デ格名詞が表す実体が事象の「引き起こし手」である。「引き起こし手」がすでに事象に存在するため、ガ格名詞は、事象の「引き起こし手」になる可能性がなくなる。言い換えれば、「状態変化主体の他動詞文」が表す事象における引き起こし手は、主体ではなく、原因デ格名詞であるという。