本書の枠組みからの検討

3.本書の枠組みからの検討

以下では、「-単一事象」自動詞の二つの下位事象について、素性分析を行う。まず、前節で触れた「見える」について分析する。「見える」は「-単一事象」自動詞であり、その事象構造に「見る」という動作事象と「見える」という結果事象があると分析する。「見る」という動作は背景にある。「見える」という結果はプロファイルされる。

表1

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「見る」という動作事象は「見たい」「見ろ」などの〈意志性〉テストに通るため、〈+意志性〉であると判断できる。また、「富士山を見る」ことは、富士山に働きかけていないため、〈-働きかけ性〉であると判断できる。さらに、「見る」という動作は、対象の変化を引き起こさないため、結果も残さない。〈-変化性〉という素性を持つと判断できる。「曇りだから富士山がみても見えない」という文は「見る」の〈-変化性〉を裏付ける。

「見える」は、〈-意志性〉〈-働きかけ性〉である。また、「見えない状態から見える状態になる」という「変化」があるから、〈+変化性〉であると判断できる。自他対応をなしているので、「見る」と「見える」は〈変化性〉というところで、同じように「○」を示すと期待されるが、両者は実際に一致していない。また、事象構造の観点からみれば、「見る」の事象構造に事象が一つしかないのに対して、「見える」の事象構造に事象が二つある。さらに、「見る」は動作動詞であり、対象の変化を引き起こさないのが普通である。しかし、対象の方からみると、動作に引き起こされるという形ではなく、動作に伴って、対象に「変化」が出てくる場合がある。このような「変化」は、動作の一種の結果と見なすことができる。

宮腰(2012)は結果は必ずしも因果関係の結果ではないと主張している。


「結果」とは何か

A-Ⅰ(第Ⅰ案):時間的前後関係に基づく規定

A-Ⅱ(第Ⅱ案):因果関係に基づく規定

A-Ⅲ(第Ⅲ案):結果を二つにわけて規定

·「結果(result)」とは、原因によって引き起こされたコトである。

·「結果(resultative)」とは、単一事象の完結点以降のアスペクト局面である。

(宮腰 2012:2)


宮腰(2012)によると、時間的前後関係に基づいて規定したら、「結果」はコトを時間軸に沿って二つ(以上)の部分に分割し、そのうちの後(または最後)の部分である。一方、因果関係に基づいて規定したら、「結果」は原因に対する概念である。それは原因によって生み出されたもの。また、ある行為によって生じたもの。その生み出された状態である。(宮腰 2012:2-3)

要するに、「見る」と「見える」の間の関係は何の関係なのかというと、因果関係ではない、つまり、[-cause]の関係であると確認される。さらに言えば、自動詞から見ても、日本語の自他のペアが[-cause]の関係をなすことがあると言える。

さらに、筆者は日本語の自動詞に、どのような中国語が対応しているのかを調べ、日中対訳コーパスでは、日本語の自動詞は、中国語と以下のような対応を示しているのがわかった。


(27)

a.糸が切れた。

b.线断了。

(日中対訳コーパス)

(28)

a.この肉は苦もなく切れた。

b.这个肉毫不费力就切断了。

(日中対訳コーパス)

(29)

a.木が倒れた。

b.树倒了。

(日中対訳コーパス)

(30)

a.ベルリンの壁が倒れて20年。

b.柏林墙推倒二十年。

(日中対訳コーパス)


(27)、(29)で示したように、動詞は「+単一(変化)事象」を表す場合、日本語は自動詞の「切れる」、「倒れる」を使い、中国語では、「断」、「倒」という非対格動詞がそれに対応する。一方、(28)、(30)で示したように、動詞は「単一事象」と解釈できず、必ず外在的力(動作主か、引き起こし手かによって発された働きかけの力)が潜んでいる事象(「-単一事象」)を表す場合、日本語は、(27)、(29)と同じく、自動詞の「切れる」、「倒れる」を使う一方、中国語では「切断」「推倒」というVV(verb compound/動補構造)をそれに対応して使っている。(27)、(29)における非対格動詞「断」、「倒」は、(28)、(30)においてはVVの中のV2として現れている。VVの中のV1は「切」(切る)、「推」(押す)は、他動的な行為を表す動詞である。外在的力が必ず存在する場合(「-単一事象」)、「V1+V2」を用いる。一方、自立変化という外在的力が存在しない場合(「+単一事象」)、中国語は「V2」を用いる。

「切れる」は(27)において「+単一事象」を表し、(28)において動作主・引き起こし手が背景に存在する事象を表す。「倒れる」も同様である。「切れる」と「倒れる」はいずれも二つの解釈を持つ動詞である。一方、二つの意味を持たず、「-単一事象」専用自動詞、言い換えれば、必ず動作主・引き起こし手の存在が前提となっている事象を表す自動詞が日本語に存在する。このような自動詞は、中国語に何が対応しているかを調べたら、以下の結果が出ている。


(31)

a.880万円でマイホームが建つ。

b.花880万日元,我的房子就盖好了。

(日中対訳コーパス)

(32)

a.サンゴが植わったょ!

b.珊瑚种上了。

(日中対訳コーパス)


自動詞「建つ、植わる」に対応する中国語は「他動詞の“盖”(建てる)+結果を表す“好”(できあがる)」、「他動詞の“种”(植える)+結果を表す“上”(しあがる)」というVVである。「好」(~あがる)「上」(~あがる)は他動詞「盖、种」の完結点以降のアスペクト局面の意味しか持たない。

また、(28b)、(30b)におけるV2の「断」、「倒」は、「好」、「上」ではないにもかかわらず、「好」「上」の「アスペクトの完了」の意味を含んでいると考えられる。つまり、「断」は、「切れる」という方式で「~し終わる、~しあがる」、「倒」は「倒れる」という方式で「し終わる、~しあがる」と解釈できる。言い換えれば、中国語のVVにおけるV2は「対象におけるV1の完成・完了の局面を表す」と解釈できる。

日本語の「建つ、植わる」についても同じように分析してもよいのではないかと思われる。つまり、「建つ」は「建ち」という方式で「建てる」という動作完了した後、建築物などの対象の「しあがる」という局面を表す。「植わる」は、「植わり」という方式で「木」などの対象の「しあがる」という局面を表す。言い換えれば、「建つ、植わる」のような自動詞は、語彙的に、event /argument structureにおいて「脱使役化」という特徴より、aspect structureにおいて「~しあがる」という要素が含まれるのだと解釈される。

以上の事象構造分析、素性分析、さらに中国語との対照分析に基づいて、日本語の「-単一事象」自動詞の意味構造について、以下の仮説を立てる。


(33)仮説

Ⅰ 「-単一事象」の二つの事象(行為事象と変化事象)は、[-cause]の関係にある。具体的には、行為事象は、変化事象と因果関係をなさず、時間的前後関係をなす。言い換えれば、一つのsemantic frameの中に、行為事象と変化事象は時間順で並んでいる。そのLCSを次のように示す。

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Ⅱ 「-単一事象」自動詞は、行為によって引き起こされる結果のではなく、行為の完結点以降のアスペクト的な結果を表す。


(33)で立てたLCSの仮説は通常のLCSと異なるので、それについて説明を加えたい。(33)で述べたLCSは、佐藤(1994a)の「+」という記号を採用している。佐藤(1994a)は行為事象と変化事象の間の関係を以下のように記述している。


(34)[AGENT: DO+   ]+[THEME:REALIZATION]

(佐藤 1994a:29)


佐藤(1994a)は両下位事象を結びつける関係を記述するとき、「CAUSE」を使わず、「+」を使っている。佐藤(1994a)はこの「+」について詳しく説明していないが、本書は時間的前後関係という意味で、「+」という記号を採用する。ただし、行為事象と変化事象そのものを記述する際、佐藤(1994a)の記述法を採用しなかった。本書にとって、[AGENT: DO+  ]で表した行為事象と[x ACT ON y]で表した行為事象は本質的に違いはない。変化事象についても同様に考えられる。ただ、佐藤(1994a)の記述用語があまりにも特別である。その特別な用語には特別な意味があれば、それを援用してもかまわないが、本書にとって、その用語にはそれなりの意味はない。そのため、下位事象を記述する際、佐藤(1994a)の記述法を採用せず、通常のLCSの記述法を採用した。

この仮説では、なぜ日本語には動作主の脱落が許されるのかを解釈することができる。因果関係の因としての動作主は、普通脱落できない。しかし、主体の動作事象と対象の変化事象は因果関係をなさず、時間的な前後関係にあるとしたら、各事象は同じ動詞のsemantic frameに並んでいるだけで、その間を切り離しても構わない。aspectual structureでの終止点での「~しあがる」という局面は、独立している局面であり、動作主(volitional agent)に依存しない。したがって、動作主は脱落しても構わない。完結点という局面に着目するなら、動作主からの働きかけの力や、また開始点から完結点までの移行局面などは一切切り離されると考える。言い換えれば、動作主の脱落は、項削減のためではなく、アスペクト上の完結点がプロファイルされるためであると主張する。

以上の仮説を第八章で検証する。

また、この仮説が検証によって成り立つと証明されたら、日本語の自動詞は以下のように分類できる。

(35)

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以上の分類は、事象構造に基づく分類である。動詞はそのものによって分類されるわけではなく、用法によって、上記の分類に入れられる。

たとえば、「入る」は「太郎が寿司屋にはいる」、「水が地下駅に入る」「ミルクに砂糖が入っている」というそれぞれの用法がある。「太郎が寿司屋に入る」という用法は行為事象であり、「水が地下駅に入る」は変化事象である。それに対して、「ミルクに砂糖が入っている」という用法は、誰かがミルクに砂糖を入れるということが前提となっている。つまり、この用法の「入る」は「-単一事象」である。「??体に心臓が入っている」のようなそもそもあるものは「入っている」と言えないことは、「-単一事象」の裏付けになる。「-単一事象」の「入る」は結果事象という分類に入れられる。

注释

〔1〕以下本文においては、便宜のため、L&RH(1995)と略する。