形態中心の日本語の自他に関する研究

2.形態中心の日本語の自他に関する研究

2.1 本居春庭(1828)

本居春庭は『詞通路』(1828)において、動詞の形態に基づいて「自他の詞」を六つの種類に分かれるとし、それを六段の表で示した。第一段「おのつから然る、みつから然する〔1〕」、第二段「物を然する」、第三段「他に然する」、第四段「他に然さする」、第五段「おのつから然せらる々」、第六段「他に然せらる々」という意義規定がなされている。

本居春庭の時代にまだ自と他が(六種の中から)卓立して対応するという意識がなかったと考えられる。むしろ、自動詞・他動詞の概念は、使役や受身など、現在では「態」と呼ばれる概念とはっきり区別していない時代であった。現代で言う動詞と動詞の態とを区別する見方は、西洋流の文法によってもたらされたものであり、春庭がこの区別をしていないのは当然とも言える。

本書にとって、本居春庭は、以下の点において意味がある。

まず、形態によって分類するとはいえ、第一段には、「おのつから然る」と「みつから然する」という二種類がはいっている。この二種類は形態的な区別はないため、形態という大きな分類の下に、意味的な下位分類であると考えられる。自動詞を意味的に「おのつから然る」と「みつから然する」とに分けることは、有意義であると思われる。本居春庭の「おのつから然る」と「みつから然する」という区別は、無情物(物)と有情物(人・他)の日本語固有の概念区別から導かれたと思われるが、この区別は現代でいう「非対格動詞仮説」と共通したところがある。「非対格動詞仮説」は、自動詞を非能格動詞と非対格動詞に分けようとする仮説である。動詞の意味的特徴から見ると、非能格動詞は、たいてい、「みずから行動する」という意味を表す自動詞であり、非対格動詞は、たいてい、「おのずからそうなる」という意味を表す自動詞である。後にも述べるように、非能格動詞は、本居春庭でいう「みつから然る」と中身が違うところがあるが、大きく捉えれば、両者は一致する。また、非対格動詞は、「おのつから然する」と意味的に非常に近いと言える。本居春庭のこの二分類は、「非対格動詞仮説」より百年以上先行しているが、残念ながら、その後継者が少ない。

ただし、「みつから然する」というグループのメンバーを詳しく見ると、現代日本語文法でいう自動詞のみならず、他動詞も含めていることがわかる。この点は大変興味深い。たとえば、本居春庭は「多行より佐行にうつりて自他のわかるる例」のところで、多行四段活の例として、「うつ、かつ、たつ、まつ、もつ」という動詞を挙げ、それらを「みつから然するをいふ詞」としている。「うつ(打つ)」「まつ(待つ)」「もつ(持つ)」はヲ格名詞をとるため、現代日本語文法では、他動詞と分類されるが、本居春庭はそれらを「みつから然する」という分類に入れている。同じ「みつから然する」のところに、現代日本語文法でいう自動詞である「かつ(勝つ)」「たつ(立つ)」を挙げている。「待つ」や「持つ」のような動詞は、ヲ格目的語を取るにもかかわらず、目的語が表す客体の変化を引き起こさなければ、動作主体だけに関心があり、結局、目的語を取っても、取らなくても同じようにとらえられ、自動詞とされる。

言い換えれば、動詞の自他を区分する際、本居春庭は、動詞が目的語そのものを取るか否かという点より、目的語が表す客体の変化を引き起こすか否かという点を重視する。つまり、本居春庭の時代の素朴的な「他動性」は、客体そのもの(ヲ格名詞)ではなく、客体の変化と大きく関連している。後節で述べるように、統語的なヲ格目的語の有無という自他の区別の仕方は、大槻の時代からだんだん受け入れられてきたが、大槻以前のおいて、すでにヲ格目的語を取るか否かということより、もっと重要な性質が観察されている。

次章から詳しく述べるが、本書は、事象構造分析を基本とする。他動詞はすべて目的語を取るにもかかわらず、目的語が表す客体に変化が生じる場合だけ、他動詞は、主体の動作事象と客体の変化事象という二つの下位事象を持つと考える。例えば、「将来を考える」のような他動詞文に、「将来を」というヲ格目的語が現れているが、主体は「客体」の「将来」に働きかけの力も加えないし、「将来」に変化も生じないため、「将来」は客体と認めるものの、客体の下位事象を構成しない。この点では、本書は、その後の研究と比べ、他動性に関して、春庭説がより有効であると考える。

次に、第二段と第三段の区別も有意義である。本居春庭は、同じ「然する」という(他)動詞を、目的語によって、「物を然する」と「他に然する」に分けている。本居春庭の後の時代になると、他動詞の目的語はものであるか、人であるかは、本居春庭ほどはっきり区別しなくなり、また、目的語マーカーがヲであると固定して考える研究者が多い。「犬が太郎に噛み付く」のニ格は目的語マーカーであるか否かについては、定論がない。

また、本居春庭の第五段は興味深い。「おのつから」なのに、第一段の「然る」と違い、「然せらる々」となる。普通「然せらる々」は受身と考えられるが、しかし、その主体は、第六段の「他に然せらる々」の受身と異なり、何かの外的力を受けたあと、おのつから動く・変化すると表現されている。これは、日本語の主動と受動というヴォイス間の曖昧さの反映であろう。この曖昧さは現代日本語にも残っている。奥津(1967)は自動化転形のところで、以下のことを述べている。


自動詞が含むhasam-という他動的行為の主体が誰かある筈なのだが、この場合は文の表面には現れなくなり、いわば、(29.1〔2〕)の文が「非人格化」するという効果を持つ。つまり、他動的行為の目的物であったものが主格をとって、あたかもおのずから然なった如く事態が表現されるのである。

(奥津 1967:66)


「他動的行為の主体が誰かある筈なのだが」、その事態が受動態として表現されなく、「あたかもおのずから然なった如く」表現される。つまり、受動態であるはずの事態が、「あたかも」主動態のように表現される。

影山(1996)は「脱使役化」自動詞の意味上の使役主に関して、以下のことを述べている。


…対象物が自らその状態になるはずがない…対象物とは別の使役主が存在するはずである。ただし、その使役主の存在は意味的に推定されるだけで、統語的には証明できない。

(影山 1996:185-186)


つまり、意味上の使役主は意味的に推定されることは、事態が意味上では受動態であることを意味するが、それにもかかわらず、統語上では、事態が主動態として表現される。したがって、使役主の存在は統語的に証明できない。

奥津(1967)と影山(1996)は、意味上の受動的な事態が、なぜ統語上に主動態として表現されるか、そのギャップはどこから生じるかなどを問題としたが、本居春庭(1828)は事実を記述するという立場から、このような事態の表現の仕方を動詞の六分類の中の一分類として認めている。

2.2 大槻文彦(1897)

大槻の『広日本文典』(1897)は現代日本語文法の基盤を作ったと言えるほど影響力のある文典である。『広日本文典』(1897)における自他論は、使役と受身は動詞から切り離した方が混乱しないという点において大きな意義がある。また、大槻(1897)は使役と受身を助動詞の問題とし、動詞の問題とは別扱いにしている。つまり、本居春庭で区別しなかった動詞と「態」を区別するようにしている。以上は大槻の功であるが、大槻は動詞の自他の研究という分野で罪もある。大槻は和洋折衷といえども、動詞の自他に関しては、洋の「自・他」という二分を取り入れ、現代的な動詞の枠組みの基としている。しかし、その関係で、本居春庭の自他の六分法は後継者がない。六分法から使役や受身など、混乱をきたすものを切り離し、より明確にシステムを整理する必要があるのは当然であるが、本居春庭の動詞の六分法の、他動性についての認識は、現代の他動性認識に負けない価値があることが大槻および大槻以来の研究者に重視されなかった。

また、2.1節でも述べたように、自動詞を「おのつから然る」と「みつから然する」にわけるという本居春庭(1828)の意味に基づいた二分法は、現代の非対格動詞と非能格動詞に近い分類である。本居春庭のこのような貴重な自動詞分類は、大槻(1828)に採用されていない。大槻のあまりにも大きな影響で、本居春庭の自動詞二分類はほとんど研究者に引き継がれていない。大槻(1828)から「非対格性仮説」が生まれるまで、自動詞をさらに二分することは提唱されなかった。大槻の文法は和洋折衷といわれ、和を伝承する責任があるにもかかわらず、自他論に関しては、和への重視が足りなく、洋を受け入れすぎる恐れがある。

2.3 松下大三郎(1923-1924)

本居春庭の後、松下大三郎の「動詞の自他被使動」(『国学院雑誌』1923-1924)の前の段階では、動詞は自他に二分し、他動詞はヲ格をとるという自他意識がだんだん落ち着いていた。ただ、大槻(1828)によって確立された自他の二分法は西洋流の文法によってもたらされたものであり、日本語の言語事実にうまく当てはまらないところがある。それに伴い、自他、特に他動詞に関する論争があった。松下(1923-1924)がその論争について以下のようにまとめている。


「動詞の自他動に関し我が国現時の学者の意見は三派に分かれてゐる。一は実質派、二は外形派、三は懐疑派である。一の実質派は意義の実質によって自他動を区別しようとするもので例へば「人が酒を飲む」の「飲む」の様なものは他物を処置するのであるから他動だが「鳥が空を飛ぶ」「人が道を行く」の「飛ぶ」「行く」の様なのは「空」や「道」を処置しないから他動ではないという様な類である。二の外形派は意義の実質に拘らず、文字に現れた外形によって自他動を弁ずるもので、例へば「空を飛ぶ」の「飛ぶ」も「何々を」という客語を受けて居るから、意義の実質はどうでも、動詞は「酒を飲む」と同様他動詞であると論ずる。三の懐疑派は自他動の区別を疑ふもので動詞に自動他動などという厳正な区別はないといふのである。」

(松下 1923-1924:13〔3〕


松下(1923-1924)は、実質派が主張した「意義の実質によって自他動を分けようとするのは」「動詞の自他動ではなくて事件の自他動である」(松下 1923-1924:13)と鋭く指摘した。本書の枠組みから言い換えれば、日本語の自他は、「事件」(事象構造)をうまく反映できない。事象構造と自他動詞の間に、重なるところもあるし、ずれているところもある。ヲ格の問題もそうであるし、本書で扱う現象もそうである。

松下(1923-1924)はこのずれを処理するため、まず自他動詞を「対称的自他動」と「単独的自他動」に分けて整理した。この区別は、後の有対自動詞、無対自動詞と、有対他動詞、無対他動詞の先駆であると思われる。

その後、意志性に基づいて、「意志的他動」と「自然的他動」に分け、また、エネルギーの観点(本書の枠組みからみれば「働きかけの力」の観点)に基づいて、「形式的他動」(形式上ヲ格を取る)と「実質的他動」(対象へ働きかける)に分けている(松下 1923-1924:23-25)。

さらに、松下(1923-1924)は、単念・複念の概念区分に基づいて、完全他動と使役他動、被動性自動詞と直接自動という語彙部門の動詞と、統語部門の使役・被動(受身)を分けようとしている。

日本語の形式(統語)と実質(意味)にギャップがある。たとえば、「空を飛ぶ」という文は、形式上ヲ格を取るにもかかわらず、実質上動作がヲ格名詞「空」に働きかけない。ヲ格名詞「空」を目的語と認めるか否かの問題は、形式と実質の間のギャップから生じる問題である。そのギャップを明らかに指摘し、形式と実質のそれぞれの基準を立て、自他のシステムを整理したのは松下(1923-1924)の意義である。

2.4 佐久間鼎(1936)・西尾寅彌(1954)

1930年代以降、日本語の自他動詞の研究は、また一度形態に注目が集まっている。ただ、簡単に形態の対立を整理し、二列に並べることにとどまらず、各形態間の派生関係をも問われた。佐久間鼎の『現代日本語の表現と語法』(1936)は、語末に現れる音形に注目し、次のように整理している。

alt

(佐久間 1983:137〔4〕


「〈アル〉が特に自動詞的で、〈アス〉が特に他動詞的なのに対して、〈ウ〉と〈エル〉とは対立の模様でどっちにもなる」と述べている。佐久間は自他対応の形態の分布を静態的に記述するだけではなく、派生という動態的な面からも取り上げている。

西尾寅弥の「動詞の派生について-自他対立の型による-」(1954)はさらに詳しく、〈-eru〉-〈-aru〉型による自動詞の派生を中心に、動態的な観点から自動詞と他動詞の関係を論じている。具体的には、「受かる」という自動詞は、「受ける」という他動詞から派生されたと主張している。以下は西尾(1954)からの引用である。


…国語の動詞には

あげる-あがる かける-かかる かえる-かわる
かさねる-かさなる とめる-とまる まげる-まがる


などの如く、


〈-eru〉(他・下一)-〈-aru〉(自・ラ四)

(〈 〉内の―は自他共通の部分を示す)


という形の自動詞・他動詞の対立の例が数多く存在する。…そして、「受かる」はこのよな多数の自他対立への類推Analogyによって「受ける」から派生したものと考えられる。…これに似た例が他にもある。たとえば、


つとめる(勤) つとまる
まける(負) まかる
いいつける(言付) いいつかる

(西尾 1954:42-43)


佐久間(1936)、西尾(1954)多くの動詞の中から自他対応のあるものを拾い出し、それを二列に並べることにとどまらず、自動詞の語幹に、ある形態素を加えることによって、他動詞が作られる、いわゆる派生という動態的な考え方から自他動詞を考察・分析している。

2.5 奥津敬一郎(1967)

奥津敬一郎の「自動化・他動化および両極化転形―自・他動詞の対応―」(1967)は、まず、自他対応の認定基準を規定している。前述した松下(1923-1924)は、有対と無対の自他動詞を明らかにしたが、奥津は有対であることは対応とイコールではないことを明らかにした。有対の自他動詞の中で、以下のような対応を示すものだけが自他対応と認められる。


(1)

N1 ga N2 o[+V, +Transitive, X,Y]

N2 ga[+V, -Transitive,X’,Y’]

(奥津 1967:61〔5〕


松下(1923-1924)より進んでおり、奥津(1967)の(1)の規定はその時代において有意義である。しかし、その規定によって除外されたものをどう処理すればいいのかについては、奥津(1967)は言及しなていない。また、こう規定したら、動詞は文における動詞の具体的な用法に限られるようになったが、レキシコンの動詞をどう処理すべきかのことも、無視されている。

次に、奥津(1967)は動態論(派生)の立場に立って、日本語動詞の自他対応には、以下の三つの派生方向があると主張している。


(2)

ⅰ自動詞から他動詞への転化=他動化

ⅱ他動詞から自動詞への転化=自動化

ⅲある共通要素から自動詞および他動詞への転化=両極化

(奥津 1967:63)


奥津(1967)の自動化、他動化、両極化は、西尾(1954)よりさらに一歩進んで、形態的な派生だけではなく、意味的な派生も意味している。たとえば、奥津(1967)は「乾く―乾かす」という自他のペアは意味的にも派生関係にあると主張している。以下は奥津(1967)からの引用である。


「乾カス」の場合、kawak-までは主語たる「私」の行為ではなく、目的語たる「着物」の上に生じた変化であり、「私」が関わるのは「着物」に対してこの変化を生ぜしめたということであって、直接には-as-に関係するのである。つまり、「着物」は一方ではkawak-の主語として働き、他方では-as-の目的語として働いている。…そこでこの特色をより適切に表現するためには、次の様な「入れ子転形」(embeding)を使うのがよい。


(27.1)私ハ 着物ヲ (着物がkawak-)-as-ita⇒
(27.2)私ハ 着物ヲ kawakas-ita


…つまり、これは単なる対応ではなく、他動詞と見える「乾カス」の中には自動詞の「乾ク」が含まれており、他動の-as-がつくことによって他動化する様にみえるが、実は自動詞を含む文と、-as-を含む他動詞文との複合体であって…

(奥津 1967:64-65)


自動詞と他動詞の間の意味関係は、「他動詞と見える「乾カス」の中には自動詞の「乾ク」が含まれており」、他動詞「乾かす」は自動詞「乾く」から派生されていると奥津(1967)が主張している。また、他動化と逆方向にあるのは、自動化である。たとえば、「はさまる」という自動詞には、他動詞「はさむ」が含まれている。自動詞「はさまる」は他動詞「はさむ」から派生される。その自動化辞は-ar-である。

奥津(1967)が指摘した他動化辞-as-と自動化辞-ar-は、佐久間(1936)が指摘した「〈アル〉が特に自動詞的で、〈アス〉が特に他動詞的」であるということと一致している。その後の影山太郎の『動詞意味論』(1996)もこの二つの接辞に焦点をあてて、自他動詞の派生関係を論じている。佐久間―奥津―影山は、理論や枠組みが違うものの、形態を中心に、意味を形態に結びつけようとする点では、同じである。前述したように、日本語の自他動詞の形態は意味を完全に反映できなく、反映する部分とずれている部分がそれぞれある。したがって、形態を中心にアプローチすると、意味の一部だけを取り扱うことができるが、意味を全体的に把握することができない。たとえば、奥津(1967)は「はさまる」は「はさむ」から派生され、「入れ子転形」の形で他動詞「はさむ」を含んでいると述べたが、、「この付近の地層は風化した泥岩層ですが、所々に白っぽい色をした薄い地層が挟まります。これは火山灰がかたまった凝灰岩です」「ライン川周辺の領土(ラインラント・ヴェストファーレン)とベルリンを中心とする国の中央部の間にハノーファーなど他国が挟まっていた」のような文に出てくる「挟まる」は、自然現象をあらわすため、他動的行為の「はさむ」の結果とは解釈しにくい。したがって、派生自動詞は他動詞を含む説、さらに-ar-は自動化辞という説も疑わしくなってくる。

本書は、文に出てくる動詞、あるいは、動詞の具体的な用法を越えて、レキシコンの中の動詞そのものを詳しく分析・記述する必要があると考えられる。言い換えれば、(意味構造の)中に他動詞が含まれている「挟まる」(本に栞が挟まる)とそうでない「挟まる」(所々に地層が挟まる)を統一的に説明できる説を立てる必要があると主張する。

2.6 早津恵美子(1989)・佐藤琢三(1994a)

前述した松下(1923-1924)は「対称的自他動」と「単独的自他動」を区別しようという提案で、自他動詞の有対と無対の区別を初歩的に提示している。自他動詞の有対と無対についてさらに詳しく記述したのは早津恵美子の「有対他動詞と無対他動詞の違いについて-意味的な特徴を中心に-」(1989)である。早津(1989)は、


「壊す、伸ばす、かける、はずす、埋める、回す、決める」などは、各々「壊れる、伸びる、かかる、外れる、埋まる、回る、決まる」に対応する有対他動詞であり、「置く、悲しむ、話す、考える、占める」などは無対他動詞である。

(早津 1989:179〔6〕


と述べている。そして、有対他動詞と無対他動詞の違いについては、以下のように指摘している。


(3)

[A]有対他動詞には、働きかけの結果の状態に注目する動詞が多い。

[B]無対他動詞には、働きかけの過程の様態に注目する動詞が多い。

(早津 1989:179)


さらに、構文上では、「反復可能性」、「副詞的な補語の種類」、「複合動詞の前項要素と後項要素」、「動作主名詞の派生」などの手段を用いて、(5)の主張を裏付けている。以上のような「結果注目」か「過程注目」かの考えは、奥田の一連のアスペクト研究の成果を踏まえたと思われる。言い換えれば、早津(1989)は自他動詞の研究をアスペクト研究と結びつけようとしたものである。

自動詞と他動詞は、普通は項構造(argument/themantic structure)・事象構造(event structure)と関連するもので、項構造・事象構造はアスペクト構造とは動詞の別々の構造である。動詞の項構造とは、簡単に言えば、動詞は一項をとるか、二項を取るかのことである(たまに、三項を取る動詞もある)。一項動詞は普通自動詞であり、二項動詞は他動詞である。一方、動詞のアスペクト構造は、時間と関連するものであり、項の数と直接関係ないはずである。しかし、日本語の他動詞は、有対であるか、無対であるか、言い換えれば、交替をするかしないかは、早津が指摘したように、結果に注目するか過程に注目するかという点で違うので、日本語の自他動詞を研究する際、単なる項構造では扱いきれず、アスペクト構造を同時に見なければならないと思われる。項構造とアスペクト構造を結び付けて自他を考察するのが、早津(1989)の意義である。

早津(1989)に問題点がある。まず、「多い」「少ない」という記述自体が、傾向性を示すにとどまっている。また、早津(1989)自身は、この傾向性の発見によって、動詞の自他対応に関して何が明らかになったかという原理的説明が十分ではない。

佐藤琢三の「動詞の自他対応と様態指定」(1994a)は早津(1989)の問題点を補い、さらなる記述をしている。佐藤(1994a)は「動作過程の様態指定(動作様態の透明性と動作様態の特定性)」と「結果の事態の実現」という二つの特徴づけを用いて、対応の原理に基づいた意味構造の定式化を行っている。具体的には、相対(有対)他動詞は、動作過程の様態を指定してはいけない。また、相対(有対)他動詞は「結果の事態の実現」を含んでいるという特徴がある。一方、絶対(無対)他動詞は動作過程の様態に関しても、結果の事態の実現に関しても、一定の特徴を有しているとはいいがたいと主張している。

佐藤(1994a)には問題点がある。「動作過程の様態指定」と「結果の事態の実現」を判定する強いテストを提示していない。たとえば、佐藤(1994a)は、有対他動詞「つける」は、「太郎がハケをペンキにひたして、壁に着色した場合」でも、「太郎が壁にペンキをつけた」と言えるし、「太郎がバケツ入りのペンキを壁に投げかけて着色した場合」でも、「太郎が壁にペンキをつけた」と言えると述べている。動作者「太郎」がどの様なやり方で動作しても、意図した結果を実現していれば問題はない。それに対して、無対他動詞「塗る」は「太郎がハケをペンキにひたして、壁に着色した場合」では、「太郎が壁にペンキを塗った」とは言える一方、「太郎がバケツ入りのペンキを壁に投げかけて着色した場合」では、「太郎が壁にペンキを塗った」とは言えない。有対の「つける」は動作主の動きのあり方・様態を指定していないのに対して、無対の「塗る」は動作主の動きのあり方・様態を指定している。しかし、この結論は一般化できるのか。たとえば、「切る」も有対他動詞である。「切る」を「動作過程の様態を指定しない」、つまり、「動作過程の透明性」で特徴づけることができるのか。『スーパー大辞林』は、「切る」について、「刃物などを使って、一続きのものを分離させる」と解釈している。他の辞書を引くと、ほとんど「刃物を使って」という解釈がついている。「刃物を使って」ということは、「切る」の動作主の動きの様態指定と認められないのか。「切る」は動作主の動きの様態を指定していないと主張するなら、それと「塗る」のような様態を指定している動詞との明確な線引きをしなければならない。つまり、判別テストが必要である。しかし、佐藤(1994a)はテストを提示していない。

問題点があるにもかかわらず、早津(1989)と佐藤(1994a)は、自他対応を「一項」、「二項」という項構造の観点だけではなく、「過程」と「結果」というアスペクトの観点から扱うという点において、本書にとって非常に有意義である。