1.はじめに

1.はじめに

第1章で述べたように、本書は事象構造の観点から日本語の自他動詞を再整理することを目的とする。第四章から第六章までは、他動詞を中心に考察・分析したが、本章から自動詞を中心に論を進める。

第六章の4.2節で示した「建つ、植わる」のような自動詞は、日本語の枠内からみれば、特と問題とならないのかもしれないが、英語や中国語と対照してみたら、その特殊性がわかってくる。簡単に言えば、日本語には「建つ-建てる」「植わる-植える」のような自他のペアがあるのに対して、英語には「✳build-build」「✳plantplant」のような自他のペアがない。中国語には、他動詞の「盖(建てる)」「种(植える)」に対応するのは、「盖好(建て-出来上がる)」「种好(植え-出来上がる)」のようなVV(verb compound/動補構造)である。「建つ」「植わる」に相当する純粋な自動詞は存在しない。

英語のbreak、sinkなどの動詞は自他交替をなす。


(1)

a.John broke the window.

b.The window broke.

(2)

a.The sailor sank the ship.

b.The ship sank.


一方、前に述べたように、build,plantなどの動詞は自他交替を成さない。


(3)

a.Sam built a house.

✳b.A house built

(4)

a.Mary planted a tree.

✳b.A tree planted.


「break,sink」のような交替をなす動詞と「build,plant」のような交替をなさない動詞はどう違うのか。言い換えれば、英語の自他交替をなす動詞の意味にはどのような制約があるのか。

Levin&Rappaport Hovavの『Unaccusativity: At the Syntax-Lexical Semantics Interface』〔1〕(1995)によると、交替をなす自動詞が「internally caused」という意味特徴を持たなければならないとされている。L&RH(1995)を引用すれば、以下のようになる。


(5)The internally caused eventualities such as break can come about independently in the sense that it can occur without an external agent.

(Levin & Rappaport Hovav 1995:104)


そして、L&RH(1995)はcutが自他交替をなさないかについて以下のように説明している。


…this specification, in turn, implies existence of a volition agent. The very meaning of the verb cut implies the existence of a sharp instrument that must be used by a volitional agent to bring about the change of state described by the verb.

(Levin & Rappaport Hovav 1995:103)


外在的なvolitional agentに頼らなければならない変化事象の事象構造に、volitional agentが脱落できない。したがって、cutのような他動詞からの自動詞化は許されない。したがって、cutのような他動詞に、対応する自動詞が存在しない。

同様に、a houseが外的な力に頼らなければ、自らbuildすることができないため、internally causedと解釈できない。したがって、他動詞buildから、自動詞が派生されない。buildは自他交替をなさない。要するに、交替をなす自動詞の意味的制約は、「come out independently in the sense that it can occur without an external agent」という制約である。本書の観点からL&RH(1995)の主張を解釈すると、該当する変化事象は単一事象である。そして、外在的なagentによって引き起こされなければならない事象は、事象構造に「外在的なagentの行為事象」と「変化事象」という二つの事象があるから、単一事象ではないと考えられる。したがって、上記の意味制約は「自動詞が単一事象を表さなければならない」という「+単一事象」制約と解釈される。

英語の自動詞は「+単一事象」という点によって、自動詞が存在するか否かが決まる。break、sinkなどは、「単一事象」になれるため、自動詞として存在する一方、「plant, build, cut」などは、どうしても「単一事象」にならないため、自動詞としては存在しない。

中国語の動詞も「±単一事象」という点によって区別される。「+単一事象」なら、「破、碎」のように、純粋な自動詞で現れ、「-単一事象」なら、「盖好、种好」のように、「他動詞+結果」というVV(verb compound/動補構造)で現れる。

英語や中国語と違って、日本語の自動詞は「±単一事象」と関係なく、他動詞と自他対応をなす。言い換えれば、日本語の自他対応に関して、「自動詞が単一事象を表さなければならない」という意味的制約が無効になる。たとえば、


(6)公園にはさまざまな種類の木が植わっていた。

(影山 1996:184)

(7)駅前に細いビルが建っている。


影山は(6)について「たとえば自動詞の「木が植わる」は、誰かが木を植えるという使役行為を前提としている。山に自然に生えている木について、「植わっている」とは言えない」と説明している(影山 1996:184-185)。本書の事象構造の観点から言い換えれば、「木が植わる」の事象構造には二つの事象がある。「誰かの使役行為」という事象と「木の変化」という事象である。「木が植わる」は「-単一事象」である。「-単一事象」であるにもかかわらず、他動詞「植える」に対応して、「植わる」という自動詞が存在する。「建つ」も同様に考えられる。要するに、日本語には、「+単一事象」という意味的制約を守らない自動詞が存在する。

なぜ日本語の自動詞には「+単一事象」という意味的制約を守らないものが存在するのか。「-単一事象」自動詞はどのようなものがあるのか。本章はこれらの問題を解決することを目指している。まず、影山(1996)の先行研究を概観する。影山(1996)が提案した「脱使役化」説へ批判しながら、本書の主張を提示する。