先行研究および再分析
2.1 影山(1996)の「脱使役化」
前節で述べたように、日本語の自動詞は、「+単一事象」という意味的制約を守るものと守らないものがそれぞれある。影山(1996)は、この現象を、自動詞の二分類という方法で扱った。制約を守るものを、-e-自動詞と呼び、反使役化(他動詞から自動詞への派生)に当てはめ、制約を守らないものを、-ar-自動詞と呼び、脱使役化という新しいカテゴリーを設立して処理している。そして、脱使役化自動詞の意味構造には、使役的行為が存在しながらも、使役主がそのまま意味構造で脱落したと主張している。
以下では、まず、影山(1996)の「反使役化」と「脱使役化」に相関する部分を概観し、そして、その後、影山の問題点を指摘する。
影山(1996)は、まず、形態的な基準を採用し、「他動詞から自動詞への転換」と「自動詞から他動詞への転換」と大いに二分する。この分類は、おそらく、形態基準を採用した奥津(1967)の〈自動化〉〈他動化〉〈両極化〉という説に影響を受けていると考えられる。この点において、影山は形態的派生とlexicon内の語彙派生を混同しているという恐れがあるが、これについて後節で詳しく述べる。
他動詞を基本として、そこから自動詞が派生されるという部分で、影山は、〈自動詞化〉に係わる接尾辞を抽出し、-e-と-ar-とに大別している。ここまでは、影山はまだ形態基準を採用している。そして、その後、〈自動詞化〉も、-e-という接辞による反使役化と、-ar-という接辞による脱使役化という二種類に分けられると主張している。
(8)
・ 反使役化:自動詞化接辞-e-は、使役主を変化対象と同定することで、自動詞化を行う。
・ 脱使役化:自動詞化接辞-ar-は、使役主を意味構造で抑制し統語構造に投射しないことで自動詞化を行う。
(影山 1996:184)
(8)の規定によって、形態を意味に結び付けようとしている。前にも述べたが、日本語には、L&RH(1995)が述べた制約を守るものもあれば、守らないものもある。影山(1996)は、L&RH(1995)の制約を守る日本語の自動詞を、「反使役化」自動詞というカテゴリーに当てはめた上、「反使役化」自動詞を、形態的な下位分類の-e-自動詞と同定している。
また、影山(1996)は、L&RH(1995)の制約を守らないものを、「脱使役化」という新しいカテゴリーを設立して処理しようとしていた上、「脱使役化」自動詞を、形態的な下位分類の-ar-と同定している。本書で「-単一事象」自動詞は、意味構造からみると、「脱使役化」自動詞と同様である。影山(1996)によると、「脱使役化」自動詞は、形態的に-ar-という特徴があり、意味的に動作主の存在が前提となっているとされている。
(9)
a.公園にはさまざまな種類の木が植わっていた。
b.壁にピカソの絵がかかっていた。
c.(募金運動をして)目標額が集まった。
d.(海底トンネルによって)イギリスとフランスがつながった。
e.値段はもうこれ以上まからない。
f.段ボール箱に雑誌がいっぱい詰まっている。
(影山 1996:184)
以上の例はいずれも動作主が努力した結果として、その事態が生み出されることを意味している。したがって、「難なく」や「どうしても」という副詞がつくことができる。
(10)
a.(募金集めて)難なく目標額が集まった。
b.(力をあわせて押すと)鉄の扉は難なく閉まった。
(影山 1996:185)
(11)
a.どうしても、この木はうまく植わらない。
b.どうしても、目標額が集まらない。
(影山 1996:185)
それと対照的に、使役関係を含まない完全な非対格動詞は、「難なく」などの副詞と相容ない。
(12)
*a.難なく交通事故が起こった。
*b.地震で難なく地面がゆれた。
(影山 1996:185)
また、-ar-自動詞は、道具ないし手段表現と共起する。
(13)
a.クレーンを使って、ようやくその大きな木が植わった。
b.四方八方、手を尽くして、ようやく目標額が集まった。
(影山 1996:185)
また、影山(1996)は、脱使役化自動詞は、「動作主なしに」という意味の「勝手に」と共起できないと述べている。
(14)
*a.勝手に、箱に本が詰まった。
*b.勝手に、庭に木が植わった。
*c.ピカソの絵が勝手に壁にかかった。
(影山 1996:189)
それに対して、反使役化自動詞は「勝手に」と共起できる。
(15)
a.取っ手が勝手に外れた。
b.紙が勝手に破れた。
c.ページが勝手にめくれた。
(影山 1996:189)
-ar-自動詞が他動詞(つまり使役構造)を土台としていることを中心に影山は主張しているが、意味上の動作主は統語的にどうなるだろうかというと、「その使役主の存在は意味的に推定されるだけで、統語構造には証明できない」と影山(1996)は答えている。つまり、意味上の動作主は意味構造に存在する。しかし、同じ意味構造でそのまま抑制されている。したがって、統語構造に投射しない。
影山(1996)は、-ar-自動詞の語彙概念構造を、以下のように示している。
(16)
x CONTROL[y BECOME[y BE AT z]]
∣
Ø
(影山 1996:188)
xが語彙概念構造でそのまま落ちたという。また、語彙概念構造から統語構造への投射を、以下のように示している。
(17)
(影山 1996:188)
xが意味構造でそのまま脱落したので、統語構造に投射しない。統語構造に投射するのは、yだけである。
2.2 先行研究の再分析
影山(1996)は、日本語の自動詞には、特殊な語彙概念構造をもつもの、つまり、いわゆる脱使役化自動詞が存在すると提案している。この提案は重要な意味をもちながら、欠点も大きいと思われる。
問題一:L&RH(1995)によると、volitional agentによってもたらさなければならない変化事象は、volitional agentにつよく依存しているため、volitional agentが脱落できないと規定している。日本語においては、まったく同じ状況で、volitional agentがそのまま脱落できると影山(1996)が主張している。なぜそれができるのかというと、日本語には-ar-接辞が存在するからであると影山(1996)が答えている。しかし、変化能力を持っていないもの、言い換えれば、それ自身で変化する可能性のないものが変化するという事象において、その変化がvolitional agentに強く依存するということは、簡単に否定できないことである。特殊な接辞があるがゆえ、その依存がなくなるわけにはいかないと思われる。したがって、-ar-接辞が動作主を抑制するという意味的機能があると影山が主張しているが、その主張について、さらに検討の余地があると考えられる。
問題二:また、影山(1996)は、-ar-接辞が動作主を抑制するという機能を果たすと同時に、「脱使役化」自動詞の形態的特徴でもあると主張している。しかし、実際に調べたら、-ar-接辞は「脱使役化」の必要条件でもないし、十分条件でもない。たとえば、
(18)マンションは神田川支流ぞいに建っているんですが、…。
(19)ミルクに砂糖が入っている。
(18)(19)は、意味上の脱使役化動詞は必ずしも、-ar-という形態的な特徴をもたないということを示す。マンションは人の意識的な「建てる」という動作を前提としないと、おのずから建つことができない。木などのような、自然にある場所に生えているものについては、「建っている」とは言えない。また、
(20)一条工務店のおかげで、夢の家が難なく建った。
(21)四方八方、手を尽くして、ようやく家が建った。
のように、影山(1996)の副詞・道具ないし手段表現テストにも通るため、「建つ」は使役構造、あるいは、外在的な動作主の働きかけを土台としていると確認できる。要するに、「建つ」は脱使役化自動詞の意味的特徴が備えているため、意味的には脱使役化自動詞であると判断できる。しかし、形態的には「-u」語尾動詞であり、-ar-という形態を持たない。(19)の「入る」も同様に考えることができる。意味的に脱使役化自動詞の意味的特徴が備えているが、形態的に-ar-という形態を持たない。
次に、-ar-という形態特徴をもつ自動詞は、必ずしも「脱使役化」という意味特徴を持たない。たとえば、影山(1996)の脱使役化自動詞「集まる」の例は、「(募金運動をして)目標額が集まった」という例である。この例において、動作主の存在が前提となっているが、しかし、コーパスで「集まる」を調べると、以下のような用例が出てくる。
(22)
a.数人の主婦たちが集まって、洗濯したり、井戸端会議に花を咲かせていた。
b.岩場に波がぶつかることにより、岩にいる貝やカニが水中に落ち、それをねらって、魚が集まってきている。
c.恐いと感じると、瞬時に危機を避けられるよう、心拍数や体温が上昇し、万が一の出血を最小限に抑えるよう血液が体の中心に集まるため、血圧が上昇します。
d.米大統領就任式オバマ大統領の就任演説に注目が集まっていますね〜。
(22a,b)における「集まる」は人間や動物の意志的な動作を表し、非能格動詞であり、その意味構造に、「目標額が集まる」という事象に潜んでいる「募金者」とのような別の事象の引き起こし手(動作主)が存在しないと判断できる。(22c)の「(血液が)集まる」は、人間・動物(動作主)の意志的な動作ではないが、誰かの動作主の意志的な努力が背景に存在するわけでもない。血液の移動はもしろ自然現象に近い事象ではないかと思われる。(22d)の「注目が集まる」は一見動作主が背景に存在するように見える(注目する人)が、実際、オバマはこの文において主語でもなく、その演説が注目を集めようとした結果、注目が集まるわけでもない。つまり、(22d)の「集まる」は、意味上、「建つ」と同じような「脱使役化」構造を持つと分析できないだろう。
また、「詰まる」をコーパスで調べると、「集まる」と同じ傾向が見られる。確かに影山(1996)が挙げた「段ボール箱に雑誌が詰まっている」という例においては、動作主の存在が確認できる。誰かの動作主が雑誌を詰めないと、雑誌がそれ自身の力で段ボール箱に入ることもできないし、詰まるようになることもできない。しかし、「詰まる」のコーパス用例の多数は「鼻が詰まる」や「水道が詰まる」のようなものである。「鼻が詰まる」や「水道が詰まる」という事象は、動作主や他動的な行為の存在が前提となっていない事象である。
さらに、「動作主なし」の意味の「勝手に」テストに通る-ar-自動詞が多数存在する。以下はインターネットから取り出した例である。
(23)三尋木プロの可愛い画像が勝手に集まるスレ
http://logsoku.com/thread/hayabusa.2ch.net/livejupiter/1338091875/
(24)助けるのではなく、勝手に助かっている。
http://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/bgame/1329744926/
(25)例えばセリフの行間を130%程度で設定し、一部にルビを入力すると右隣の行との間が勝手に詰まってしまいます。
http://www.clip-studio.com/clip_site/support/request/detail/svc/9/tid/13574
要するに、形態的に-ar-という特徴を持つ自動詞は必ずしも「脱使役化」の意味特徴を持たない。
以上は形態と意味という角度から見た影山(1996)の問題点である。まとめてみると、-ar-という形態は、脱使役化の必要条件でもないし、充分条件でもない。つまり、形態は意味とうまく対応していない。
問題三:影山(1996)の反使役化であれ、脱使役化であれ、他動詞から自動詞が派生される過程では、他動詞は以下の語彙概念構造を持つものであるとされている。
(26)x CAUSE[y BECOME[yBE AT –z]]
x は[cause]という関係で、yの節と結びついている。[cause]の関係が他動詞の意味構造の基本となっている。この観点は、先行研究から受け継いでいると思われるが、日本語の脱使役化自動詞は[cause]の関係から生まれたかというと、さらに検討する余地がある。たとえば、「見える」は、「見る」という行為を前提としているので、「-単一事象」自動詞であると判断できるが、「見える」は「見る」と[cause]の関係をなさない。これについて3節で詳しく後述する。