二度の上海駐在

二度の上海駐在

1984年秋、本社に帰任し東京本社では鉄鋼部門で中国市場開拓を任され、陸上油田向けに新日鉄の開発した高級石油鋼管の輸出を担当した。各油田との技術交流や商談の為、大慶・四川・遼河・宝鶏・新疆タリム等を何度も訪問し、中国の広大さを実感した。その後、1991年三井物産は上海の宝山製鉄と戦略提携「総合合作協議書」を日本企業として初めて締結し、貿易拡大・合弁事業設立・人材交流・幹部交流などを推進するため毎月のように上海に出張していた。中国市場経済の深化に伴いモータリゼーションの到来を予見しトヨタ生産方式を紹介した。三井物産の提案で宝鋼と第一汽車・東風汽車の調達部門幹部20名を引率し2週間にわたりトヨタやフォードなど日米関係企業を訪問、日本方式と米国方式の自動車用鋼板流通システムを考察し交流した。

1995年夏のある日突然、社長のトップダウンで45歳にして三井物産上海総経理を命ぜられ、二人の小学生と妻を帯同して中国最大の国際都市上海に赴任した。駐在は1995年から2003年までの8年間にわたり、総経理を務めた。丁度上海経済の高度成長の時期に重なり、千客万来、業務は多忙を極めた。宝鋼集団との戦略提携の推進のみならず、上海GMとの自動車用鋼板の供給ロジスティクスの構築、浦東開発、石化事業などの大型ビジネスで上海三井物産の責任者として必死に取り組んだ。始まったばかりの浦東開発の将来性を確信し、日系企業の先陣を切ってオフィスを浦西から浦東新区に移転させた。また地域社会貢献として上海日本商工倶楽部や上海日本人学校の運営活動にも地道に取り組んだ。多忙で家族と一緒に過ごす時間が殆どとれなかったが、妻は上海生活が気に入り中国語もできるようになった。二人の子供も上海日本人学校にすぐに慣れてくれたことが何よりだった。(https://www.daowen.com)

2003年夏に帰任したが、11年後二度目の上海駐在の機会に恵まれた。2014年から2年半、今度は64歳の時に上海森ビルの総経理として赴任した。実は東京に帰任後、森ビルの森稔会長から誘われ2008年三井物産から森ビルに転職し特別顧問に就任した。森ビルは浦東新区で上海森茂国際大廈と上海環球金融中心の二つの超高層ビルの建設と管理運営という大きな事業に挑戦していた。しかし1997年にアジア金融危機、2001年にNY911テロ、2008年にリーマンショック等による経営上のリスクに直面した。私の任期中にも多くの経営課題が存在したが、上海には常に老朋友がいて助言や協力を頂いた。経営環境が厳しい時期なのに増収増益を果たし帰任することができた。上海の老朋友には心から感謝したい。