友情は永久に続く

友情は永久に続く

1977年2月、私は1年余りの入院加療を経て、ついに退院した。私はしっかりと体を鍛えて、だんだんと健康が回復した。その後、節子先生は北京外国語学院で教職に就いた。6月に私は節子先生に手紙を出して、治療経過と退院後の状況を詳細に報告した。両先生は依然として、私の健康状態を非常に気遣って下さった。9月2日、節子先生は帰路の途中、上海虹橋空港で短時間留まった。短時間にもかかわらず、手紙で私と会う約束をしていた。節子先生は私の健康な姿を見て、喜んで「あなたはまた元のように健康で丈夫になりました」と言われた。淳先生は帰国後、大阪市に在る日中友好協会に勤められた。10月に、淳先生は訪中団のメンバーとともに中国に来られた。そしてわざわざ海員クラブへ私を訪ねてみえたが、会えなかった。一枚のメモと2冊の日本の小説を置いて行かれた。

1978年4月、私達の海員クラブの林裕章主任が訪日団のメンバーとして日本に行き、大阪で淳先生と会った。先生はまた私のことを尋ねられ、林主任に『国語慣用語辞典』と『湖の伝説』という2冊の書物を託した。後者は、一人の日本青年が癌と闘う物語であり、先生は続けて病気と闘う私を激励して下さった。5月9日、淳先生は再び上海に来られ、当日私を訪ねてみえられ、私達は海員クラブで再会した。当時、海員クラブの責任者だった韓紹発、通訳の陸冠正と私が一緒に淳先生をもてなし、お互いに心を込めて親密に話し合った。淳先生は私に「私たちは以前からずっと君の健康を心配していましたが、この目で君がよくなったのを見て、本当に安心しました」と言われた。折よく、翌日、私は節子先生が北京から送ってきた『現代日中辞典』を受け取り、さらに息子の亮ちゃんと一緒に撮った写真も届いた。この2日間はまるで先生一家と会ったような感じで、この上もなくうれしかった。以後、私は両先生と電話や手紙で、多年にわたり連絡を取り続けた。

長い歳月を通じて、私は先生の心のこもった友情に励まされ、先生から教わった日本語を使って、中日友好事業のために、幾ばくかのささやかな仕事をした。いつも両日本人先生との交流を思い出す度に、感激の気持ちが自然と沸き起こり、ずっと節子、淳両先生の私への指導と気遣いを忘れられず、我々の友情も永久に続くだろう、と強く思う。(https://www.daowen.com)

2021年12月22日

銭希林

1945年生まれ。プロの日本語通訳、高級ガイド。ベテラン翻訳家。中国詩歌学会、中華詩詞学会、中国楹聯学会会員。一つの長編小説を翻訳出版。『解字詩』詩集を二冊出版。詩作50回以上受賞。