原次郎さんの話(三)

原次郎さんの話(三)

かつて中福会少年宮「小伙伴芸術団」の一員として招待を受け、長崎訪問音楽交流の旅に参加した子供で、現在も音楽教育事業に従事している学生が三人いる。2017年、彼等が病床に臥せっている恩人を見舞いに訪日したいと思い、私の協力を求めていたと知った私は、すぐに全面協力を表明した。私は同行できなかったので、今回の恩師を訪ねる旅のすべての手配と連絡を長崎旅行社の畢社長にお願いした。当時、原先生夫妻は長い間訪問を断っていた。しかし私と畢社長の詳しい説明を聞いて、夫妻は深く感動し、特別に彼等の訪問を承知した。

今回の旅は原先生から長年にわたり恩を受け、夢を実現できた学生達が先生の恩情に報いる旅だった。そこで私は「感恩」(恩返し)というチャットグループを立ち上げ、学生達を動員し、昔訪日した時に撮った写真と現在の写真、先生への感謝と近況を述べたショートメッセージを送ってもらい、一冊の文集と写真アルバムを作り上げた。扉には「厚徳載物」(徳に富む)と書き、そして小楷書字の感謝の詩を添えた。それを感謝の品として、学生に持参させ原次郎先生に贈呈した。この美しい思い出が永遠に原先生のもとにあることを願ったのである。学生達の話によると、その日、原先生は奥さんの助けを借りて、きちんとした正装で早くからソファーに座って待っていたそうだ。原先生は中福会少年宮訪崎当時の学生を見て、大変感激し、子供達の手をがっちり握りしめ長い間放さなかった。奥さんが側でいたずらっぽく「子供みたいなお父さん、手を緩めて下さい」と言うと、はっと気が付き、頭を下げ謝りながら言った。「すごーく嬉しく、感動してしまった!ごめんなさい。」彼等三人全員が現在は音楽教育の仕事に従事していると聞いた時、先生のほっそりした顔面には喜びと安堵と満足の笑みが浮かんでいた。三人が原先生ご夫妻とお別れを告げる時、原先生が階段の下の玄関まで送って来ようとしてくれたが、階段が多すぎたので、それは思いとどまってもらった。外に出て彼らが振り返って見ると、原先生はベランダの柵に持たれて、見送ってくださっていたのであった。その時、彼らの目には知らず知らずにもう涙が溢れていた。

原次郎先生は一生を中学校の音楽教育事業に捧げた人であった。夫人の原隆枝さんも、小学校の先生だった。夫妻には三人の息子がいた。原先生は41歳の時、直腸癌となり手術を三回行い、以後は人工肛門生活を強いられ、残った胃は三分の一だったので、毎回の食事の量も少なく、身体は比較的ひ弱だった。それにもかかわらず、原先生が中福会少年宮と縁を結んでから、日中双方の青少年音楽交流を長く継続させていくために、20年間頑なに自分の断固とした信念を支えとして、虚弱で多病の体を抱えながら、各種の困難を克服し、たゆまず努力して、心血を注ぎ、皆を引っ張り、日中民間友好交流という大事業のために全力を尽くし、心から人を感動させる美しい詩を書きあげたのであった。

2000年、原次郎先生が発起した日中青少年音楽交流会20周年記念を祝賀するために、中国側は長崎を訪問し、当地で盛大な祝賀活動を催した。活動が終わり、原次郎先生と彼の同僚達は真心をこめて私達を飛行場まで見送ってくれた。彼らが遠くの送迎デッキで日中両国の国旗を振りながら、一生懸命手を振って見送ってくれた姿を我々は飛行機の窓からずっと見ていた。この光景に多くの人が目頭を押さえた。子供達は自分の感情を抑えきれずに、声を殺して泣いていた。ああ、このたった8日間の短い日程で、長崎の友人達のおかげで連日連夜、我々は友好溢れる雰囲気に満たされ、一緒に交流し、出演し、歓声を上げ笑顔で語り合い、お互いに相手の本当の心を知ることができた。

2019年1月2日、原次郎先生は永遠に我々のもとから去って行った。享年87歳。彼の逝去は私を含む全ての中国側の人々を悲痛のどん底に陥れた。私は中福会少年宮の指導者と、かつて長崎を訪問した同級生達を代表して、先生の奥さんに心からのお悔やみと哀悼の挨拶を述べた。(https://www.daowen.com)

原次郎先生はこの世と永遠の別れはしたが、私は彼が我々のもとを離れてしまった気がせず、彼の「日中友好の魂」がこの世に生き続け、彼の精神がなお我々を激励し、日中両国の民間友好交流のバトンを世世代代へと引き渡し続けている、と感じている。

2022年3月8日

姚建健

1956年生まれ。上海外国語学院日本語専攻卒。1978年より上海宝山製鉄所にて日本語通訳を担当。1988年上海和平国際旅行社に入社、日本語ガイド、部署マネージャーなど担当。