後書き

後書き

今から50年前の1972年9月25日、私は東京でテレビの中継を食い入るように見つめていた。中国との国交回復交渉の為に、日章旗を機首に立てた日本航空の専用機に搭乗した田中角栄首相一行の交渉団が、北京空港に到着したのである。その一部始終が衛星放送でテレビに映し出され、日本の一般国民にも知らされた。それまで日中間には国交が無くもどかしさを直接肌で感じ、その樹立実現の為色々と活動をして来た私は、その映像を特別な感慨を持って見た記憶が50年経った今でも鮮明にある。特に雲一つない北京空港の青かった空の輝かしかったことが忘れられない。そして、9月29日北京人民大会堂で日中共同声明への調印が行われた。

私が実際中国と関わるようになったのはそれを遡る事6年前の1966年4月、大阪外国語大学で中国語を学び始めた時から始まる。しかし、中国との関係を正確に言うと、私は1946年8月に大連で生まれ、翌年1月初め大連からの引揚げ船で両親に抱かれ、長崎に着いたのである。大学3年だった1968年8月、学生友好訪中団の一員として初めて中国に行き、3週間、深圳、広州、長沙、井岡山、韶山、南昌、上海、北京各地を訪問し、多くの労働者、学生と交流した。この体験が、私を中国との仕事に就くきっかけとなり、1970年卒業と同時に友好商社に就職した。1973年10月末から北京駐在員として、1985年5月までの足掛け13年間の半分を北京で過ごした。

1985年の8月に証券会社に転職し引き続き中国との金融業、自動車部品製造業等を経験し、2006年定年退職した。その後も2019年まで、上海で過ごしてきた。この半世紀の間、中国では改革開放が実行され世界第二の経済大国と成長した。日中関係では、良い事も、嬉しい事も沢山あったが、遺憾な事もあった。私は仕事や個人的関係を通して中国全土の殆どを訪れ、メディアでは伝えられない私の実体験や感想を旅行記として、これまで100篇以上執筆し中国の魅力を日中両国の友人に知らせて来た。そんな中で一番大事な事は何かと問われれば、それは人と人との心の結び付きであり、それも普通の一般民間人同士の交流と言えるし、今でもそれを続けている。無錫の自動車部品製造の経営者や技術者、上海のアパートの大家さん、一緒の海外旅行で知り合った上海の青年、北京の趣味の切手収集家等々、漢民族ばかりでなく、少数民族の朝鮮族、ウイグル族等大勢いる。(https://www.daowen.com)

今回、日中国交正常化50周年を記念して、日中双方29名の方に、様々な職業・体験を通じて得られた日中友好を物語る貴重なエピソードを執筆して頂いた。これ等の話は非常に心温まる意義のあるものばかりで、しかも日本語と中国語の2ヶ国語で書かれているので、日本或いは中国の事を知りたい、日本或いは中国に留学・就職したいと願う若者にとって、相手国を知る参考となり、相手国の言葉を学ぶ最適な教科書になるのではないかと思う。混沌とした世界情勢の中、しっかりと誠実な日中の民間交流を堅持して行けば、必ずや平和で友好な関係が築けるものと確信する。

2022年4月15日

伊藤俊彦