第二の故郷を愛でる日本友人
潘宝康
1988年末、私は上海宝山製鉄所生産実習プロジェクトの通訳として日本での三ヶ月の仕事を終え、帰国した。暫くして、私の日本の友人、重松秀男さん、藤井与三治さんらが、翌年の3月初めに上海を訪問するという連絡を受け取った。
重松、藤井両氏は私の父親の代からの日本の友人である。私の父は1930年、40年代に重松秀男さんの父親、重松為治さんが上海で経営していた会社に勤めていた。改革開放初期、毎朝、私の父は、上海バンドを散歩していた。ある日ばったり富山県から来た旅行団の人々に出会った。父が旅行団員と話している時に昔の話題を出すと、偶然にもその中に、父のかつての会社のオーナー重松家を知っている人がいた。その人が日本に戻って直ちに重松家に連絡し事情を知らせ、このことがきっかけとなり三十年間途絶えていた関係がまた繋がった。
二十世紀の初め、重松秀男さんの祖父が上海に来て、「重松大薬房」を創立し、のちに重松秀男さんの父親、重松為治さんが会社を引き継いだ。重松秀男さんは1936年に上海で生まれた生粋の「上海っ子」である。藤井さんは1939年14歳の学生の時に上海に来て、「重松大薬房」で見習い工をしていた。彼は、当時三年間薬局で見習いをしながら上海の商業学校に通っていた。重松家が上海で三十八年間薬局を経営していた間、重松為治さんは二十八年間も上海で暮らした。そのため、この上海という町に縁というか、深い親近感を持っていた。我が国の改革開放以来、平均二、三年置きに必ず上海を訪問していた重松秀男さんと藤井与三次さんは、上海で人に会うといつも「上海は我々の第二の故郷だ」と言っていた。
1945年、重松一家は日本に戻ってまた苦労してゼロから事業を起こし、六十年代になってその会社は再び彼らの本籍地である富山県で最大の薬卸し屋となった。かつて上海で二十八年間の日々を送った重松為治さんの中国、上海に対する愛着は終始変わらず非常に深いものであった。帰国後、彼は十五年間にわたって富山県日中友好協会支部連合会の会長を務め、長く日中友好活動に携わって来た。1975年の日中国交正常化の四年目、日本から多くの「日中友好の船」や「日中友好の翼」が中国に派遣された。その年、富山県も三百余名の若者を乗せた「日中友好青年の船」を出した。思いもよらずこの万トン級客船に船中で最年長、当時すでに八十二歳に達していた「日中友好老人」重松為治さんも乗船していた。彼は富山県日中友好協会の友好の船が上海を訪問するという情報を知って、一緒に乗船させてもらい訪問したいという強い要望を持った。彼はもともと富山県日中友好協会の長老だったし、協会の幹部は彼と中国との深くて長い関係を考慮し、またこれは得難い機会だと考え、彼が三百名の若者たちと一緒に船に乗って上海を訪問することに同意した。また前例がなかったが、特別に彼を補助するために一人の随員を付けた。しかしこの訪問で、彼にとって非常に残念な事が一つあった。彼は、上海に着いたら以前の会社の中国人元職員に会いたいという願望を持っていた。特にうちの一人とは事前連絡も取ってあったそうだが、当時中国では外国人はまだ自由に簡単に普通の中国人と接触することは許されなかった。結局彼は元社員の一人にも会えず日本に戻った。失望感でいっぱいだった。
1982年重松為治さんは89歳の高齢で亡くなったが、その遺体は医学研究のために献体された。その後、彼の子供達が彼の遺産を処理した時、彼の上海とのゆかりや感情と彼の以前からの願いを考え、藤井さんと相談して、共同で寄附金を出して上海に老人病院を造ることを決めた。当時、彼等は日本がすでに高齢化社会になっている事を目にして、中国も日本に次いで高齢化社会に入るだろうし、また会社の昔の中国人職員もそろそろ70歳か80歳の老人になるだろうと予想していた。上海に老人病院を建てて寄附すれば、中国の老人産業の発展のためにもなり、中国の老人生活が幸せになるように少しでも貢献することは非常に有意義なことだと考えた。そこで二人は、わざわざ東京へ出かけ中国駐東京大使館に連絡を取り、楊振亜前中国駐日本大使と呂克倹前大使館商務参事官に直接会ってこの考え方を説明した。大使と参事官から大賛同と歓迎を得た。中国大使館は、この朗報を上海市政府と当時の市対外経済貿易委員会に伝えてくれた。続いて重松秀男さん、藤井与三次さんはこの提案を具体的進める相談のために上海を訪問した。(https://www.daowen.com)
上海市政府は普陀区には1950年、60年代に建築された労働者向けの新団地が多く、住民が集中しており、同時この一帯の団地に移住した住民は二十世紀末になれば古稀老人になる事を考慮して、日本の友人の寄附による老人病院の建立地は普陀区にすることに決定した。この老人病院の準備段階と建設が行われた数年間、重松秀男さんと藤井与三次さんは幾度も上海を訪れ、謝麗娟前上海市副市長や市対外経済貿易委員会の責任者等と会見し、直接病院の企画建設に携わり、病院の場所選定、規模、診療科目、工程の進み具合などについて貴重な指導的意見を提出した。普陀区政府と区衛生局も一部共同出資して、関連施設の建設をして工事の遂行を徹底した。1995年春、関係方面と現場労働者の努力によって、普陀区曹陽路1261号に位置する普陀区老人病院(兼普陀区中医病院)の建設がついに竣工した。謝麗娟前副市長自ら日本の友人と一緒に落成開業式に出席した。上海のメディアも日本の新聞も式典を報道した。完成した病院は六階建て、総面積は8200平方メートル、20余りの診療科目があり、ベッド数は184だった。病院の玄関横に日本の友人の善行を表彰した記念碑も立てられた。
中日国交正常化後、重松秀男さん、藤井与三次さん等は必ず二、三年置きに上海を訪れた。彼等は改革開放以後の上海の大きな移り変わりを見て心よりうれしく思った。上海の草木一つ一つに対して懐かしく親しみを感じ、上海の名勝旧跡も彼らの記憶に新しかった。彼等は上海に来る度に、必ず元会社の職員に会って古くからの友人と一堂に集まって旧交を温め、喜びを共にした。同時に普陀区老人病院のプロジェクトを通じて、新しい多くの中国人の友達を得た。面会交流する度に、彼らはいつも「上海は我が第二の故郷だ」と感動的に、心をこめて語った。さらに彼等は上海に来ると大好きなユートーン・グーニョー(「油氽果肉」の上海発音で、油あげピーナツ)を食べたくなるという。これは上海の特色のある酒のつまみであり、上海人が朝食に食べる中国式お茶漬けと一緒に食べるものである。それと清炒豆苗(豆の若葉炒め)、小籠包は彼らがいくら食べても飽きないものだった。そこで、上海の友達は彼らが帰国する時には事前に家で作ったユートーン・グーニョーをガラス瓶に詰めてお土産として彼らに渡した。彼らも、いつもこの素朴で心のこもった、懇切に用意された友情溢れるプレゼントを大笑いしながら受け取るのだった。
2012年3月15日
潘宝康
1953年生まれ。上海外国語学院夜間大学卒業。1979年より上海宝鋼外事処で通訳を担当。1989より上海シルク進出口有限公司で営業職に従事。1995年日本ヒロタ(株)上海事務所に入社。2007年より蘇州大手精密電子(有)副総経理。