呉昌碩先生の胸像が日本に建立された意義

呉昌碩先生の胸像が日本に建立された意義

呉越

1996年11月26日早朝、福岡県北九州市の空には小雪が舞っていた。折からの雪の中、同市若松区の頓田にある大北亭(大連北九州友好協力記念亭)のほとりに、中日韓三国の芸術界の代表が、中国の芸術家・呉昌碩先生の胸像の落成式に参加するために集まっていた。胸像は呉昌碩先生の嫡孫の呉長鄴先生が寄贈したもので、上海の著名な彫像家の盧琪輝女史に特別にお願いして創作してもらったもので、胸像の高さは2.3メートルで、顔立ちが端正で少し沈思黙考している姿の塑像は、一人の偉大な芸術家の晩年のイメージと表情が再現された完璧なもので、見る人に粛然とした尊敬の念を抱かせるものであった。胸像本体の半身は銅で、台座は漆黒のアフリカ花崗岩でできており、程十髪先生が座像名を「呉昌碩先生」と命名し、台座の背後に呉長鄴先生が書いた序文があった。

北九州市に、この日本唯一の呉昌碩先生胸像を建立するにあたり日本の芸術界は非常に注目し、わざわざ呉昌碩先生胸像実行委員会を設立し、呉長鄴先生の日本の弟子の師村妙石先生を実行委員長とした。彼は1995年8月、程十髪先生、韓天衡先生を北九州市に招き胸像立地のための場所を選定した。選ばれた場所の景色は杭州の西湖のように、湖の光や山の色が静かで美しく、緑の木が生い茂っていた。日本では、公共の場所に外国の著名人の塑像を建立するのは極めて少ないそうである。呉昌碩先生は生前かつて早稲田大学に芸術専科設立のために数十幅の書画の作品を無償で寄贈した。1923年の関東大地震の時には多くの資材資金の提供を行い、さらに弟子の王一亭氏を最初に駆けつけさせ救難を援助した。また、かつて何人かの優秀な日本人の弟子を養成した。その後、彼らはいずれも日本の篆刻、書道、絵画界の第一人者となった。呉昌碩先生の人柄と芸術作品は日本に大きな影響を与え、日本国民に尊敬されたので、北九州市と北九州市議会は特別に中国の偉大な芸術家、呉昌碩先生の胸像を日本の公共の場に建設落成する事を許可した。これは非常に例外的なことであった。

今回の呉昌碩先生胸像落成式の出席者は中国駐福岡総領事館韓佐民副総領事、西泠印社朱関田副社長、私は呉昌碩の一族を代表して参加した(父の呉長鄴は病気のために不参加)。日本側は元福岡県知事奥田八二、呉昌碩先生胸像の落成を積極的に支援した師村妙石、芹田騎郎、福岡市の竹田信一議員らであった。さらに韓国の書家代表も遠いところから祝賀に訪れていた。来賓芳名帳への署名者は300余人であったが、未署名者が200余名もいたので、実際の出席者は500余名にも達していた。奥田八二、韓佐民、朱関田、師村妙石などの主賓が、全体の拍手の中で除幕式典を始めたその時、突然雪が止み天気となり、雲間から陽光が射してきて、拍手、笑い声、お祝いの声が大北亭の畔を響き渡り、まさに呉昌碩大師が私達とともに中日両国人民友好の友誼がますます発展していくことを讃えているようであった。

「山川域を異にすれども、風月天を同じうす」。呉昌碩先生の胸像が落成して以来、北九州市は毎年、呉昌碩先生の誕生日(9月12日)に、ここで記念式典を催し、北九州歴代の市長、中国駐福岡領事館の歴代の総領事、日本各地の芸術家と中国、韓国等からの国外友人、周辺の花房小学校から先生、生徒らも積極的に参加し、呉昌碩先生の高い品格、優れた芸術、愛情無限の精神を称揚している。呉昌碩先生の胸像が落成して以来、私は光栄にも郭仲選、高式熊、劉江、朱関田、童衍方などの先生と父の呉長鄴と、呉昌碩の末裔に付き添って記念行事に参加した。2015年には上海市人民対外友好協会代表団、2016年には浦東新区の代表団がわざわざ、呉昌碩先生の胸像参拝に行った時、私が通訳を務め友好交流を通じて中日人民の理解と友情を深めることができた。呉昌碩先生の胸像が北九州市に建設されたことは、中日両国人民の心の中に芸術の偉大な石碑を建てただけではなく、中日の隣国の友好の誼を結ぶ絆となった。(https://www.daowen.com)

2021年11月1日

姚建健 訳

呉越

1958年生まれ。呉昌碩先生の曾孫。1992年~1995年日本で中国画を指導。帰国後、長年中日文化交流の仕事に従事している。現在上海市文史研究館館員、上海呉昌碩記念館執行館長。2017年当時の日本国駐上海総領事片山和之氏から表彰された。