通訳サービス
当時、多くの中国人教師は、敢えて外国人教師に接近して話をしなかった。それで知らないうちに両者間に隔たりが生まれた。節子先生と淳先生の両先生は、この隔たりに対して不満であり、学校の責任者に「私達外国人教師と中国人教師の職員室を分けてはいけません。人は全て感情があります。私達外国人を教学のロボットと見做してはいけません」という意見を具申した。それで私は両先生に積極的に近付き、話をした。通訳をする時も非常に真面目に責任を果たした。外出をして何かの施設などを見学する時は、できるだけ事前に役に立つ資料を日本語に翻訳して、両先生に読んでもらった。これにより倍の効果が得られた。例えば、大慶へ視察に行く前に、私は大慶共産党委員会紹介資料の主な要点を和訳して、先に両先生に読んでもらった。両先生は真剣に読まれて、行く前から大慶の事情を結構理解された。同時に私の和訳を丁寧に添削され、それは私の和訳レベル向上の一助となった。さらに、両先生が学校活動に参加する関心もますます高まった。ある日、私は両先生を映画観賞に誘って、終始頑張って同時通訳をした。両先生は喜んで、「中国に来て、初めて映画を観て分かりました。今後ももっと多くの映画を観たいので、また通訳をお願いします」と言われた。ある時には、私は両先生を我が海員クラブの劇場に招待し、映画や文芸の出し物をお見せした。両先生も私を自宅(上海大廈)に招き、お茶を飲みながらお喋りをした。子供の亮ちゃんも私と遊び、彼の飴をご馳走になり、おもちゃで一緒に遊んだ。(https://www.daowen.com)
私は普段いろいろお手伝いもした。例えば、病院や買物等へ同行した。1975年6月、日本の専門家らが大慶油田を参観した時、私も両先生に付き添った。北京で集まるまでの間、2日間の自由時間があった。私はこの機会を利用して故宮を観たいと思った。しかし、当日の早朝、淳先生は突然熱が出たので、私は直ぐに先生を病院へ連れて行き、検査と治療を受けた。風邪だと診断されて、ようやくほっとした。淳先生は私に予定通り故宮へ行くようにと言われたが、私はお断りした。私は一日中先生の部屋に居て、ずっと先生の病状を気遣った。大慶への道中、私は淳先生の荷物を持ち、できるだけお世話をした。また、一緒に世間話をし、楽しい会話で打ち解けて喜んでもらった。沿道の観光地を見学する時には、私は全力を尽くして通訳したが、比較的流暢にできて、両先生は非常に満足であった。私達の友情もさらに深まった。