5.2 “V给”構文と“给……V”構文
第4章で取り上げた“V给”形式の二重目的語構文は、基本的に物の授与構文であり、DOの表す事物がIOの表す受け手に向かって移動する。それに対し、“给……V”構文は、IOである受け手や場所に向かって事物が移動するとは限らない。動詞に応じてさまざまな場合がある。
前述のように、朱(1979)は、「授与」を表す構文において、「授与」の意味が含意される動詞は“V给”の二重目的語構文をとりうるのに対し、「製作動詞」や「取得動詞」のような、動詞自体が「授与」の意味をもたない動詞は“给……V”形式で受け手を表すことができるとする。「授与」が動詞固有の意味に含まれる動詞“卖类(「売る」類)”では、受け手は動詞の直後のIOとなり、“给……V”構文にはならない。
(3)a.我卖给图书馆几本书。
[作例:自然度1.00]
b.*我给图书馆卖了几本书。[1]
私は図書館に本を何冊か売った。
「授与」が動詞固有の意味には含まれないが構文に応じて「授与」を含意しうる“寄类(「差し出す」類)”と“写类(「書く」類)”では、受け手が“V给”の後置IOと、“给……V”構文のVの前置目的語の二つの可能性をもつ。
(4)a.他写给校长一封信。
(朱1979:82)
b.他给校长写了一封信。
彼は校長に手紙を一通書いた。
本来「授与」の意味をもたない「製作動詞」や「取得動詞」のような動詞は、「授与」を表す場合には“给……V”構文で受け手を表す、とされる。
(5)我给你画张画儿。
私はあなたに絵を一枚描く。
(6)我给他买一辆车。
私は彼に車を一台買う。
(朱1979:84)
即ち、“给……V”構文のNP1が受け手であるかどうかは、“卖类(「売る」類)”とそれ以外で異なる、ということになる。朱(1979)の受け手は、NP2の到達先であり、この場合は“给”が動詞である。これに対し、NP1が受け取るのが「服務」である場合には、“给”が介詞とされ、“卖类(「売る」類)”が“给……V”構文に現れる場合には、“给”が介詞であり、NP1が行為の受け手である、とみなしている。
(7)a.我卖给图书馆几本书。
[例文(3)を再掲]
私は図書館に本を何冊か売った。
b.我给图书馆卖了几本书。
[作例:自然度1.00]
*私は図書館に本を何冊か売った。
私は図書館の代わりに本を何冊か売ってあげた。
つまり、同じ“给……V”構文の中に、二種類の“给”があり、Vに応じて“给”とNP1の解釈が異なる、と言っていることになる。ただし、朱(1979)では“寄类(「差し出す」類)”と“写类(「書く」類)”の“给……V”構文についても、NP1が受け取るのがNP2であるのか行為自体であるのかが曖昧な場合もあることを認めており、NP1の解釈がVによって機械的には決定できない可能性も留保している。
これ以後の研究では、同じ動詞で“V给”構文と“给……V”構文とどちらを取るかによる意味の違いに基づき、必ずしも動詞の種類に関わらず、構文ごとにNP1がどのような意味役割(「到達点」か「受益者」か)を分析しているものが多い。また、“给……V”構文の“给”を一律に介詞とする分析も多い。ただし、授与以外の“给……V”構文においての受益者の定義は必ずしも明確ではない。
沈(1999)は、「時系列の原則」を用い、認知言語学の観点から、“V给”構文と“给……V”構文がもつ意味の相違点を指摘している。“给……V”構文では、“给”がVの前に現れるため、“给”に導かれる名詞句が動作行為の予定の目標である。それに対し、“V给”構文は、“给”がVの後に現れるため、“给”に導かれる名詞句を到達の終点とする。
沈(1999)の考えをまとめると、“V给”構文の後置されたIOは、一つの授与過程の終点とも言える。それに対し、“给……V”構文の前置されたIOは、ある動作を発生させる目標と認識されるということである。ここでは沈(1999)の議論を支持する。
要するに、IOを目標とみなす際に、目標に向かって動作をする場合と、その目標を動作行為の動機と捉え、他の方向に向かうという二通りの可能性が考えられる。そのような理由から、“给……V”構文は二義性を有するのである。
それゆえ、目標に向かって動作を行う場合は、IOが終点である受領者とみなし、目標のために他の方向に向かう場合は、IOが終点の受領者ではなく、受益者と考えるほうが妥当ではなかろうか。このことから、“给……V”構文は、“V给”構文と比べ、構文の表すカテゴリーがすでに拡大されていることが分かる。