5.4.2 再帰用法をもつ他動詞の“给……V”構文
本節では、“给……V”構文の中で、Vが再帰性のある他動詞の場合の構文の意味的特徴を探る。“给”に後続する動詞が純粋でない再帰動詞の場合、新たに追加されたIOがランドマークとしてプロファイルされた脱再帰構文となる。“给”の後にくる動詞が真の再帰動詞の場合、新たに追加されたIOは、Vが表す再帰的事象のトラジェクターとランドマークを兼ね、文全体としてはこの二次的な事象を引き起こす使役の意味を示す構文となると考えることができる。
5.4.2.1使役の意味をもたない脱再帰構文
ここでは“给……V”構文のVが純粋でない再帰動詞である場合の構文の意味的特徴について着脱類と身体部位を対象とする他動詞に分けて分析する。着脱類では、物の移動が観察されるため、使役移動構文とも見ることができるが、身体部位を対象とする他動詞では物の移動はない。Vが着脱類と身体部位を対象とする他動詞の“给……V”構文は、意味的には受益者を表す介詞の“为”を用いる構文と似ているが、この項がIOとしてプロファイルされた構文であると主張する。
5.4.2.1.1着脱類の他動詞
まず、現代語コーパスからの例文を挙げる。
(82)a.衣服弄好了,我给小鲲穿上试试。
(《人啊,人》)
服が仕上がり、小鯤に着せてみた。
(83)a.“你没看见小妹病了吗?”陆文婷瞪了园园一眼,忙给佳佳脱了衣服,把她放在床上,替她盖上被子。
(《人到中年》)
「佳佳ちゃんが病気なの見て分かるでしょう」陸文婷は目で園園を叱り、佳佳の服を脱がせてベッドに寝かせ、布団のはしを押さえてやった。
(84)a.她想伸过手去,拉一件衣服给他披上。
(《人到中年》)
手を伸ばして彼に上着でも被らせてやりたい。
張(1993:552)は上例のような表現を手助けの動きを表す用法であると指摘する。確かに、例文(82)aと例文(83)aでは、IOの“小鲲”と“佳佳”は幼い子供であり、動詞の示す動作即ち“穿”“脱”を自らすることが困難だと想定される。このため、これらの衣服の位置変化は、文の主語として表示された“我”と“陆文婷”によって引き起こされていることが示される。例文(84)aでは、IOの“他”は大人であるが、“衣服”の位置変化を引き起こす行為をするのは、自分ではなく、主語の“她”のほうである。
このような構文では、物の位置変化とIOの状態変化が共に観察できる。具体的には、例文(82)aであれば、主語である“我”の手助けによって、洋服はIOの“小鲲”のところに移動し、“小鲲”が洋服を着ていない状態から、洋服を着ている状態に変化する。例文(83)aであれば、主語の“陆文婷”の手助けにより、洋服はIOの“佳佳”のところから離れ、“佳佳”が洋服を着ている状態から、洋服を着ていない状態に変化する。そして例文(84)aであれば、主語の“她”の手助けで、物の洋服は彼女のところから、IOの“他”のところへ移動し、その結果彼が洋服を被っている状態に変化することが想定される。
上記の例文(82)a—(84)aの“给……V”構文の“给”を使役マーカーの“让”に入れ替えると、次の例文(82)b—(84)bに示すように、構文としては成立するが、異なる意味となる。
(82)b.衣服弄好了,我让小鲲穿上试试。
服が仕上がり、小鯤に着させてみた。
(83)b.“你没看见小妹病了吗?”陆文婷瞪了园园一眼,忙让佳佳脱了衣服,把她放在床上,替她盖上被子。
「佳佳ちゃんが病気なの見て分かるでしょう」陸文婷は目で園園を叱り、佳佳に服を脱がせてベッドに寝かせ、布団のはしを押さえてやった。
(84)b.她想伸过手去,拉一件衣服让他披上。
手を伸ばして彼に上着でも被らせてやりたい。
例文(82)b—(84)bで、“给”が使役マーカーの“让”に変わると、構文は使役の意味となる。そして、“给……V”構文の場合と異なり、動作行為の“穿”“脱”“披”を行ったのは主語である“我”“陆文婷”及び“她”ではなく、動詞直前の“小鲲”“佳佳”“孩子”のほうである。この場合の行為は、再帰的行為と呼ばれる。
また、上記の“给……V”構文の“给”を受益マーカーの“为”に入れ替えると、構文が成り立つのであるが、“为”を用いる構文が脱再帰の用法のほかに「再帰非使役」の用法を有することが分かる。
(82)c.衣服弄好了,我为小鲲穿上试试。
服が仕上がり、小鯤に着せてみた。
(83)c.“你没看见小妹病了吗?”陆文婷瞪了园园一眼,忙为佳佳脱了衣服,把她放在床上,替她盖上被子。
「佳佳ちゃんが病気なの見て分かるでしょう」陸文婷は目で園園を叱り、佳佳の服を脱がせてベッドに寝かせ、布団のはしを押さえてやった。
(84)c.她想伸过手去,拉一件衣服为他披上。
手を伸ばして彼に上着でも被らせてやりたい。
例文(82)c—(84)cでは、“给”を“为”に変えると、意味的には“给……V”構文の示す脱再帰の意味を維持することができる。ところが、“为”を含む構文には、もう一つの「再帰非使役」の用法が存在する。
例えば、例文(82)cを「再帰非使役」的に解釈する場合に、“小鲲”はこの洋服が“我”に一番ぴったりだと思っており、“我”に「着て欲しい」と言ってくれる。そこで、“我”はその洋服があまり気に入っていないが、“小鲲”のために試着してみる、という意味を表す。この時も例文(82)cと全く同様の“我为小鲲穿上试试”で表現することができる。この場合に、構文の動作行為の主体の“我”が“穿”という動作を行った結果は「洋服が私の体に帰した」という意味で、再帰的事象であると見られる。
それに対し、“给……V”構文は「再帰非使役」の用法が成立しない。“给”は、DOで表された移動物の移動先あるいは移動元を特定する。これは“自己”を明示的に用いない限りがトラジェクターと別の人物であると理解される。
以上の分析から、“给……V”構造において、Vが着脱類のような純粋でない再帰動詞の場合、脱再帰の意味を維持する点で、意味的には“为”を用いる構文に似ていることが分かる。また、構文の示す意味的特徴は、トラジェクターが、IOとしてプロファイルされたランドマークに対する働きかけの過程に移動物の位置変化が見られるため、このタイプの構文は、場所をIOとする使役移動構文の一種であると判断する。“脱”のように、移動の起点をIOとできるのもこの種の使役移動構文の特徴である。ただし、使役移動構文と異なるのは、着脱類においてIOとなりうるのが人間だけであるという点である。
なお、上記に挙げた“穿”“脱”“披”のほかに“戴”“别”“束”“换”“蒙”“罩”のような動詞も、「身に付ける」という意味から、着脱の動詞としての用法をもっていると見られる。[5]
5.4.2.1.2身体部位を対象とする他動詞
本節では、着脱類以外の他動詞で、用法の一つとして再帰的用法をもっている動詞を考察する。再帰的用法が成立するのはランドマークとして身体部位が指定されている場合で、この身体部位がトラジェクターの身体部位である場合、トラジェクター自身に影響が及ぶ再帰的用法となる。この種の動詞を「身体部位を対象とする他動詞」と名づける。
身体部位が譲渡不可能なので、このような構文は、脱再帰の用法においても物の位置変化が観察できず、身体部位も移動物が見られない。“给”で導かれたIOは、移動先や移動元ではなく、トラジェクター以外の身体部位の所有者である。
(85)“急什么,我不是在这儿吗!”他掏出手绢,弯腰给小竹擦着眼睛。
(《钟鼓楼》)
「何を心配するんだ、ちゃんとここにいるじゃないか」彼はハンカチを出し、腰をかがめて息子の目をふいてやった。
(86)“我在那给他剃着头,他还得跟互助组的一个一个地谈心思,摆工作。哎呀呀,有这么忙的没有呢……”
(《金光大道》)
「おれが頭を刈ってる最中にも互助組の人たちの相談に乗ってやり、仕事の按配をしなくちゃなんねえ始末だ。いやあ、まったく忙しかったの忙しくなかったの……」
(87)“张先生,你问我累不累?给人做活哪有不累的呀!文台他娘是阔家小姐出身,见天给她梳头打洗脸水不算,洗洗缝缝的事总也没个完。”
(《青春之歌》)
「張先生、疲れるかって?そりゃあ、他人に使われてるんですよ、疲れるのは当然ですよ。文台のお母さんは、金持のお嬢さんの出たもんで、朝から晩まで、やれ髪を梳け、顔を洗う水をもってこい、おまけに洗い物だ、縫物だって、終りというものがなくてね。」
例文(85)―(87)では、“给”に後続する動詞はそれぞれ“擦”“剃”“梳”である。このような動詞は、人間の身体部位に対し、動作行為を行うことを示す。
ところが、このような動作行為を行うことによって、“给”に後続するIOの状態変化が見られる。具体的には、例文(85)であれば、“擦”を行うことで、IOの“小竹”は目が清潔になり、例文(86)であれば、“剃”を行うことで、IOである“他(朱铁汉)”の髪の毛が短くなり、例文(87)であれば、“梳”を行うことにより、IOの“她”は髪の毛がきれいになることが想定される。
身体部位を対象とする他動詞を用いる構文は、「着脱類動詞」と同様、意味的に手助けの意味を有することが見られる。例文(85)では、文脈から“小竹”が子供であることが分かる。“小竹”は自分で「目を拭く」ことができないと思われ、主語の“他”が拭いてやったことを意味する。例文(86)では、一般的には、「頭を刈る」ことは自分ですることができないため、主語である“我”がやってやることが分かる。そして、例文(87)では、IOの“文台他娘”に対して「髪を梳く」ということを主語がしてやっている。
このことから、身体部位を対象とする他動詞は着脱類の他動詞と同様、手助けの意味をもつことが分かる。このタイプの動詞は“为”と“让”との異同も前述の着脱類の他動詞と同じような振る舞いが見られる。ここでは詳しい比較内容を省略する。
第5.4.2.2節で取り上げる構文は、IOが行為の対象(NP2)の所有者である場合とも見ることができる。この構文はIOの具体的な状態変化が含意される。
なお、身体部位を対象とする他動詞には、上で取り上げた“擦”“剃”“梳”のほかに、“垫”“套”“拭”“焐”“捶”などがある。[6]
5.4.2.2使役の意味を示す“给……V”構文―飲食類と感覚器官の作用を表す類―
ここでは“给……V”構造において、Vが真の再帰動詞飲食類と感覚器官の作用を表す類の場合の構文の意味的特徴を考察する。Vが飲食類と感覚器官の作用を表す類の“给……V”構文は、IOが二次的な行為のトラジェクターとみなしうるという点では、使役構文ともみなすことができる。ただし、この二次的なトラジェクターは同時にランドマークとして、飲食物や感覚の取得という状態変化を経る。また、トラジェクターとしての働きかけは、特に感覚器官の作用を表す類で認知的な際立ちをもたず、「見える」「聞こえる」のように、感覚刺激をトラジェクターとする受動的なランドマークとしての側面だけが際立つ枠組みで捉えられることも多い。
以下にまず、この種類の例文を挙げる。
(88)a.“但我们副领队后来给我看了那些照片。”
(《鲁豫有约・沉浮》)
「でも、私たちの副リーダーは後であれらの写真を見せてくれた。」
(89)a.他们给婴儿听各种各样的声音,如口琴和管风琴的演奏、吹哨子声和削铅笔声等等。
(《儿童心理》)
彼達は赤ちゃんにいろいろな音を聞かせ、例えばハーモニカとオルガンで演奏する音、呼び子を吹き鳴らす声と鉛筆を削る音など。
(90)a.我给母亲吃清淡饮食……我觉得这才是孝顺呢。
(《梁冬对话罗大伦》)
私は母親にあっさりとしたお食事を食べさせていて……これこそ親孝行だと思うの。
(91)a.我给孩子喝了一杯水。
[作例:自然度1.00]
私は子供に水を一杯飲ませた。
例文(88)a—(91)aでは、“给”の後に位置される動詞はそれぞれ“看”“听”“吃”“喝”である。これは張(1993)の示した飲食類と感覚器官の作用を表す類に当てはまる。上記の例文に示すように、これらの動詞の示す動作行為を行ったのは構文の主語ではなく、動詞直前の“我”“婴儿”“母亲”“孩子”のようなDO名詞句で表される参与者である。これは第5.4.2.1節で述べた純粋でない再帰動詞の用法と対照的である。
“给”の直後の“我”“婴儿”“母亲”“孩子”は“给”の目的語となり、同時に後の“看”“听”“吃”“喝”の主語ともなるため、兼語文を構成すると見ることもできる。これは、中国語の使役文に共通する特徴である。
ところが、上記の例文では、IOで表されたランドマークが動作行為を行使できるように、トラジェクターが何かを用意したり作ったりして、それをランドマークに授与することを意味するため、物の位置変化とIOの状態変化の両方が観察できる場合が多い。
具体的には、例文(88)aが意味しているのは、「私が写真を見られるように、主語の副リーダーは写真を用意し、私の前にもってきた」ということである。そのため、写真は副リーダーのところから、私のところへ移動する。そして、私は写真を見ていない状態から、写真を見た状態となることも想定される。例文(89)a—(91)aも同様である。物の位置変化が見られる点では、このタイプの構文は、第5.2節で述べた物の位置移動構文に似ている。
上の例文を受益構文のマーカーと思われる“为”に入れ替えると、構文としては適格となるが、意味が変わってしまうことが分かる。
(88)b.“但我们副领队后来为我看了那些照片。”
「でも、私たちの副リーダーは後であれらの写真を見てくれた。」
(89)b.他们为婴儿听各种各样的声音,如口琴和管风琴的演奏、吹哨子声和削铅笔声等等。彼達は赤ちゃんのためにいろいろな音を聞いてあげていて、例えばハーモニカとオルガンで演奏する音、呼び子を吹き鳴らす声と鉛筆を削る音など。
(90)b.我为母亲吃清淡饮食……我觉得这才是孝顺呢。
私は母親のためにあっさりとした食事を食べてあげて……これこそ親孝行だと思うの。
(91)b.我为孩子喝了一杯水。
私は子供のために水を一杯飲んであげた。
また、例文(88)a—(91)aの“给”を使役マーカーの“让”に入れ替えると、次の例文(88)c—(91)cに示すように、原文と共通する事象構造となることが分かる。
(88)c.“但我们副领队后来让我看了那些照片。”
「でも、私たちの副リーダーは後であれらの写真を見せてくれた。」
(89)c.他们让婴儿听各种各样的声音,如口琴和管风琴的演奏、吹哨子声和削铅笔声等等。
彼らは赤ちゃんにいろいろな音を聞かせ、例えばハーモニカとオルガンで演奏する音、呼び子を吹き鳴らす声と鉛筆を削る音など。
(90)c.我让母亲吃清淡饮食……我觉得这才是孝顺呢。
私は母親にあっさりとしたお食事を食べさせていて……これこそ親孝行だと思うの。
(91)c.我让孩子喝了一杯水。
私は子供のために水を一杯飲ませた。
“给……V”構文と“让”を用いる構文は同じく兼語文で使役の意味を共有する。しかし、異なるところもある。それは、前述したように、“给”を用いる構文では、IOが直後の動作行為を行使できるように、主語が何かを用意したり作ったりすることが含意される。一方、“让”を用いる構文は、IOに対し、直後の動作行為を行使するように指示する場合にも使用できる。
佐々木(1993:15)では、中国語の“给”は単文構造の操作使役(manipulative causation)という用法のみに限定され、複文構造をもつような指示使役(directive causation)を表すことができないと指摘する。このため、次の例文(92)に示すように、指示的内容を示す副詞句を伴う場合に、“让”を用いる構文が容認できるのに対し、“给”を用いる構文は不適格となる。
(92)a.张三让李四{在食堂/慢慢儿/三点钟}吃饭。
b.*张三给李四{在食堂/慢慢儿/三点钟}吃饭。
(張三は李四に{食堂で/ゆっくり/三時に}ご飯を食べさせる。)
(佐々木1993:15)
例文(92)では、“在食堂(食堂で)”はご飯を食べる場所を示し、“慢慢儿(ゆっくり)”は食べる様態を示し、“三点钟(三時に)”はご飯を食べる時間である。これらの要素を指示される場合に、“让”を使用する例文(92)aは成り立つが、“给”を使用する例文(92)bは非文となることが分かる。
つまり、“给……V”構文は、IOが直後の動作行為を行使できるように、主語は直接的に何かを用意したり作ったりして、それによりIOの再帰的行為の実現を可能にするという操作使役を意味する。このような準備には物の位置変化も含まれるので、授与構文の意味を内包する場合もある。一方、“让”を用いる構文は、IOに対し、直後の動作行為を行使するように指示するのみという指示使役を表すことができ、指示される動作行為の内容が複雑な動詞句を成していてもいい。
“给……V”構文を用いる飲食や感覚の使役では、言い換えれば、被使役者であるランドマークのトラジェクターとしての性格が背景化され、飲食物や感覚の取得による状態変化という、「取得」類の動詞と共通の側面のみが際立っていると見ることもできる。第5.2節で述べたように、中国語の「取得」類の動詞が“给……V”構文に現れると、新たに追加されたIOで表された参与者が移動物の取得者としてプロファイルされる。飲食類と感覚器官の作用を表す動詞でも、IOとしてプロファイルされた参与者が、トラジェクターと異なる飲食物や知覚の取得者として追加されている二重目的語構文とみなすことができる。
なお、飲食類と感覚器官の作用を表す類の動詞として、前述の“看”“听”“吃”“喝”のほかに、“瞧”“过目”“欣赏”“服”も同様の用法をもっている。[7]