6.3 VPを補語とする“给”の役割
第2章で述べたプロトタイプとしての本動詞“给”において、IOである人間は、文脈で分かる場合を除き、“给”の直後に出現するのが義務的である。ところが、受動表現の場合、“给”の後に立つ行為者は、次の例文(27)に示すように、出現するものもあるが、また例文(28)と例文(29)に示すように、行為者が省略されるパターンも多く存在する。
(27)平桥村只有一只早出晚归的航船是大船,决没有留用的道理。其余的都是小船,不合用;央人到邻村去问,也没有,早都给别人定下了。
[例文(11)を再掲]
平橋村で大型の船といえば、朝出て夕方帰る便船が一隻あるきりで、いくらなんでもこれは使うわけにはいかない。そのほかのは全部小型で、役に立たない。人をやって隣村に聞きに行ってもらったが、みんなとうに約束済みになっていて、空きがない。
(28)周永振笑呵呵地说:“刚才我见那骑车的给撞倒了,以为他奔过去要打架哪,嘻嘻!”
[例文(8)を再掲]
周永振が面白がっている。「さっきの、自転車に乗っていた人、ぶつかられて、てっきりぶんなぐりに行ったと思ったのによ。ヘッヘッヘ。」
(29)我说:“小望儿,这些年爸爸很少和你谈心。你对爸爸的不满是可以理解的,生活给弄得颠颠倒倒的,爸爸也有爸爸的苦处呀!”
(《人啊,人》)
「望、この何年か、お父さんはおまえと腹を割って話し合ったことがなかった。おまえがお父さんに不満なのはよく分かる。だが、生活がめちゃめちゃにされていたんだ。お父さんにはお父さんの苦しみがあったんだよ。」
受動表現における“给”の役割に関して、“给”は行為者を提示する働きがある(袁1997)とする先行研究の分析は、上の例文(27)では成り立つが、例文(28)と例文(29)のような行為者が出現しない構文の説明には無理がある。実は、例文(28)では、自転車にぶつかったのは誰なのかが不明であり、例文(29)も同様である。
佐々木(1996:66)では、“给”は動作・行為とその関与者との間に抽象的な方向性をもたらす文法成分であると指摘される。しかし、前述のように、構文の行為者が出現しない場合が多く、この方向性を見出すのも困難が感じられる。
温・范(2006:20-23)は、受動表現において、“给V”構造の中の“给”は焦点化表記として機能し省略できるが、動作の結果を突出させるという働きがあるとする。本書も温・范(2006)の立場をとり、なぜ“给”が「動作の結果を突出させる」という働きを有するのかを検討する。
本書では、受動表現のVPを“给”の「結果補語相当」の成分と考えることで、この“给”の役割を説明することができると主張する。結果補語をもつ“给”の構文スキーマで、DOの帰着する終点であるIOは背景化されて構文に現れない。その代わりに、IOの位置に現れるのは、「DOの状態変化」を表す結果補語(R)である。このような構文の意味的特徴は、DOがRの示す結果に帰着すると考えることができる。“给……V”形式の受動表現では、VP自体がVR構造をもち、DOの状態変化の内容を特定している、と見ることができる。
(30)a.結果補語をもつ本動詞の“给”構文:
DO给R
b.VR構造をもつ“给……V”形式の受動表現:
DO给VP
“给”が顕在化することによって、“给”のDOである受動表現の主語がVPの働きかけの対象となることから、帰着する結果により明確に結び付けられているとして、この「動作の結果の突出」を説明するのである。
温・范(2006)では、受動表現において、行為者が現われない場合に、“给”が省略できると言及している。つまり、VR構造をもつ他動詞構文では、語順を変えるのみで受動表現が成立しうるのである。ただし、コーパスの用例では、“给”が省略できる構文と省略できない構文が出てくる。例えば、上の例文(29)は“给”が省略できるのに対し、例文(28)は“给”が省略されると非文となる。いずれの文も、Vが動作主の働きかけを、結果補語が被動作主の変化を表すような組み合わせとなるVR構造をもつ。
(28)’*刚才我见那骑车的撞倒了。
「さっきの自転車に乗る人がにぶつかった」の意
(29)’生活弄得颠颠倒倒的。
生活がめちゃめちゃにされていたんだ。
例文(28)’では、受動表現の主語が人間であるため、受動マーカーの“给”がなければ、主語に位置される人間が行為の受け手ではなく、行為を行う側に考えられやすく、構文全体が能動文に解釈される。そして、この能動文は動詞の目的語を欠き、つまり、「誰にぶつかったのか」が不明瞭であるため、文脈によっては非適格な構文となる。
一方、例文(29)’では、受動表現の主語が物であるため、受動マーカーの“给”がなくても、構文が物である“生活”の結果状態を記述する結果構文となる。これは、“给”を用いる受動表現とほぼ同義で、構文の適格性が維持されている。
このことから、受動表現において、動詞の直前に位置される“给”が顕在化することによって、動詞に先行する主語がDOであること、つまり受動表現であることが明示されると考えられる。