6.2.1 VR構造
木村・楊(2008:70)は、VR構造について、次の例文(6)を挙げている。Vの“撵(追う)”が動作行為を表し、結果補語の“走(失わせる)”がこの動作行為が対象にもたらす結果的状況を表している。
(6)a.狗被小红撵走了。
犬AMシャオホン追う-失わせる-PERF
[犬はシャオホンに追い払われた。]
b.*狗被小红撵了。
犬AMシャオホン追う-PERF
[犬はシャオホンに追われた。]
(木村・楊2008:70)
同様に、コーパスに現れる“给……V”構造の受動用法でも、次の例文(7)―(9)に示すように、動詞の直後に結果補語を伴うことがある。
(7)我是从长城外边逃荒,来投奔我哥哥的;哪想到,头半个月他在火车站上扛大个儿,给轧死了。
(《金光大道》)
おれは長城の向うから、兄貴を頼って逃げて来たんだが、半月ほどで、兄貴は停車場で荷役ばしていて轢き殺されちまった。
(8)周永振笑呵呵地说:“刚才我见那骑车的给撞倒了,以为他奔过去要打架呢,嘻嘻!”
(《金光大道》)
周永振が面白がっている。「さっきの、自転車に乗る人、ぶつかられて倒されて、てっきりぶんなぐりに行ったと思ったのによ。ヘッヘッヘ。」
(9)他告诉我,当年天云山特区党委的材料,一部分在1959年撤销建制时运走了,还有一部分存在这里,也在“文化大革命”中给烧光了,现在哪能找到什么当年的规划书?
(《天云山传奇》)
こう言うの――昔の天雲山特別区党委員会の資料は、一部分は1959年に特別区取消しの際に持ち去られた、一部分は当地に残されたが、これは「文化大革命」の時にすっかり焼き捨てられてしまった、昔の計画書なんぞ今ごろどこへ行って探せというのかね。
上記の例文(7)であれば、動詞“轧(轢く)”の後に“死(死ぬ)”という結果補語が現れている。例文(8)では、動詞“撞(ぶつかる)”の後に“倒(倒れる)”という結果補語が後続する。例文(9)では、動詞“烧(焼く)”の後に結果補語の“光(なくなる)”が続くことが分かる。例文(7)―(9)の構造はまさに木村・楊(2008)の言及する「動詞+結果補語」というVR構造である。
受動表現のR構造は、また次の例文(10)に示すように、主語の状態の程度を表す状態補語の場合にも可能である。
(10)中午,汽车在一个小茶馆门前停住了。这里说是茶馆,其实只有用土坯垒起的三面土墙,因为常年烟熏火燎,墙壁和席箔盖成的屋顶都给弄得黑漆漆的。
(《轮椅上的梦》)
昼ごろ、トラックは小さな茶店の前に止まった。茶店と言っても、日干しレンガを積み上げた壁で三方をかこって、草を編んだ屋根を架けただけ。かまどの煙で、壁も天井も真っ黒にいぶされている。
さらに、動作による対象への結果的影響は、上述の「状態補語」だけでなく、次の例文(11)や例文(12)が示す「趨向補語」でも伝えることができる場合がある。いずれも、空間的な変化ではなく、時間的な変化の用法であり、完了のアスペクト助詞“了”が後続している。
(11)平桥村只有一只早出晚归的航船是大船,决没有留用的道理。其余的都是小船,不合用;央人到邻村去问,也没有,早都给别人定下了。
(《呐喊》)
平橋村で大型の船といえば、朝出て夕方帰る便船が一隻あるきりで、いくらなんでもこれは使うわけにはいかない。そのほかのは全部小型で、役に立たない。人をやって隣村に聞きに行ってもらったが、みんなとうに約束済みになっていて、空きがない。
(12)忽而一个红衫的小丑被绑在台柱子上,给一个花白胡子的用马鞭打起来了,大家才又振作精神地笑着看。
(《呐喊》)
突然、紅い長衣の小丑(道化役)が舞台の柱に縛りつけられて、胡麻塩のあごひげの男に鞭でひっぱたかれはじめたので、私たちは、やっとまた元気を取りもどして笑いながら見た。
また、“给……V”構造の受動表現の中に、次の例文(13)―(15)に示すように、動補構造が使われていない構文もある。
(13)“我是老百姓,房子都给烧了,还不许家来看看吗?”
[例文(4)を再掲]
「私は一般の庶民だ、家が焼かれたというのに、家に戻って見てみてもだめなの?」
(14)张惠如的呼吸稍微平顺了一点,但是他依旧激动地说话,声音因为愤怒和着急在发颤∶“我们给丘八打了!……就在万春茶园里头。”
(《家》)
張恵如の呼吸が少し楽になったが、相変らず興奮していて、声は憤怒と焦躁にふるえている。「われわれは今日丘八に殴られた。……万春茶園の中でだ。」
(15)段誉叫道:“我不走,我不走!”但他没钟灵力大,给她拉着,踉跄而行。
(《天龙八部》)
段誉は「帰らない、帰らない」と叫んだが、鐘霊の方が力が大きかったので、彼女に引っ張られて、よろめきながら歩いていた。
例文(13)では、動詞“烧(焼く)”に補語成分が後続せず、完了を表すアスペクト助詞“了”のみが現れている。例文(14)も同様である。そして、例文(15)では、動詞の直後に補語成分が用いられないが、進行相のアスペクト助詞“着”が後続している。
では、なぜ補語成分がなくても構文の適格性に影響しないのであろうか。
動詞の直後に付加される助詞“了”の役割は、時間軸上で先行する動作がすでに完了し、その結果としての状態を示すものである。言い換えれば、動作が遂行された後にその結果がいまでも続いていることを表す。具体的には、例文(13)であれば、主語の“房子(部屋)”はその動作の完結“烧了”を受け、「焼かれている」という結果状態になっている。例文(14)であれば、“打了(殴った)”という動作が完了されることによって、動作の対象である“我们(われわれ)”はすでに殴られているという結果状態に入っていることを意味する。
これに対し、進行相の助詞“着”は動作や状態が進行していることを示すため、受動表現の中では、対象である主語が、継続している動作や状態の中で影響を受けていることを表す。具体的にいうと、例文(15)では、対象である主語は動作者の「引っ張る」という継続する動作を受け、ずっと「引っ張られている」状態になっている。
以上のことから、主語の具体的な状況を要求しなければ、結果補語や状態補語が現れなくても、完了を表す“了”や進行相の“着”のような表現を用いると、主語の結果状態が表現でき、構文は成り立つのである。これは、“给……V”構造をとる受動表現はどちらかというと、主語である対象の状態のほうを重視するためであると思われる。