进士第一人林简言
林简言,字欲纳,福清渔溪苏田村人,一说其出生在龙田镇前林村,生卒年月不详。他出身贫寒,年少好学,唐太和四年(830)登进士第,是史料明确记载的福清置县后的首位进士。进士及第后的林简言,并不像当时一般士人那样,极力跑官要官,为自己谋个“好职位”,而是关心天下大事,相信道德文章才是文人立身的根本,绝不走歪门邪道,也不屑于写歌功颂德的文字。他的散文效法唐代古文大家韩愈,诗歌创作则以中唐著名诗人元稹、白居易为榜样。
福清龙山街道坊里村,明人俞璟进士坊,林秋明摄
明代兪璟進士坊 福清市龍山街道坊裏村 (林秋明撮影)
こでは合わせて1400人余りの挙人、700人余りの進士が誕生した。その中には宰相、六部官員、封疆大吏、思想家、文学者、芸術家もいれば、高僧大徳や忠誠義士もいた。同時に、海上シルクロードの重要な出発点の一つとして、この賑やかで栄えた土地には、国内外の交流に貢献した文化使者や、国内外で有名な華人·華僑なども現れた。彼らは自らの知恵、血と汗で、輝かしい伝奇的な人生を書いただけでなく、国内外の文化交流史の壮大な絵巻を共に描いた。
南宋以降、長い文教発展の蓄積により、同時に当時の首都·臨安(今の浙江省杭州)に隣接する地理的優位性にも恵まれ、福清において科挙が発達し、福清とその周辺地域は頻繁に交流が行われ、文化活動が盛んであった。この時期には影響力のある理学者が現れた。例えば、北宋の理学者程頤の愛弟子である王苹は、二程理学が南宋の陸九淵心学に転向した重要な思想家であり、そのほかに林栗、林亦之、陳藻、林希逸との四人の重要な文人、理学者もいた。宋元以来の深い文化の蓄積と科挙社会の長期的な発展があったからこそ、福清はその後に葉向高、隠元禅師などの多くの先哲名賢を育成し、明清以来の中国文化の海外での伝承、影響に重要な役割を果たし、明清の際に多くの晩明遺民を主体とし、中国の古代歴史上最も規模が大きく、階層が最も広く、影響が最も深い文化輸出を直接推進した。
福清は東南沿海の文化名城として、奥深い中国文化の基礎を持っており、唐代以来、有名人が輩出していた。これらの有名人は福清の歴史文化の代表であるだけでなく、唐宋以来の中国文化発展の重要な構成部分でもある。彼らは自分の高尚な人格と、豊かな人生経歴、そして創造性ある思想を用いて、宋元以降の中国の政治社会、思想文化の全体的な進化を推進し、仁政、愛民、発展、開放、革新という中国文化精神の内包を伝承し、豊かにし、伝統文化精神の基本理念を生き生きと解釈し実践し、同時に海上シルクロードの影響力を借りて、明清以降の福清海外華人華僑文化の重要な源を成し遂 げた。
進士の第一人者林簡言
林簡言、字を欲納という。福清市漁渓蘇田村の出身で、説によると龍田鎮
林简言善于论史喻今,针对晚唐日益严重的藩镇割据弊病,当朝君臣却纷纷沉湎享乐,毫不关心民众的疾苦,愤然作《汉武封禅论》一文,借古讽今,讽刺批评当时的黑暗政治。这篇文章一发出,文人便争相传阅,此举得罪了当朝统治者,便指使官员罗织罪名,把林简言赶出京城。最终,林简言被贬地方,担任漳州刺史。赴任前,他向皇帝打了一个报告,请求朝廷减免福清百姓繁重的赋税。唐文宗把报告转到户部,户部又转到福建。福建的最高长官罗让看了报告后很是诧异,就斥责林简言道:“当年盈州徐公官为相国,也只敢向朝廷请求减免一个乡的赋税,而你区区一个州的刺史,却要求减免一个县的赋税,你觉得这合适吗?”
林简言却回答说:“福清百姓多以种地、晒盐为业,可惜土地贫瘠、连年干旱,多年吃不饱饭,加上盐税太重,即使盐卖了也负担不起这样过重的赋税,难道大家就忍心看到自己父亲之邦的人饿死吗?福清自唐圣历二年(699)置县,到如今已经一百三十一年了,才出了我这么一个进士,恰恰证明了那里多么贫穷落后。我能有今天的成就,全仗乡亲族人大力扶持,如果我不能为他们请命,又如何对得起家乡父老?如何体现朝廷热心教育、为国育才的一片用心呢?”罗让听了十分感动,不仅同意了他的请求,还从此对林简言另眼相看、十分器重。