亦盗亦商郑彩
南明永历八年,清顺治十一年(1654),63岁的隐元禅师率30多名弟子离开福清万福寺南下厦门,准备从厦门渡海前往日本长崎。当时的厦门归属郑成功管辖,郑成功早在永历四年(1650)突袭驻守厦门的郑联(郑彩的弟弟),占领厦门,接着,驻兵金门的郑洪逵(郑成功的叔叔)也把手中的兵船悉数交付给郑成功,自此,厦门和金门成为郑成功抗清复台的重要军事据点。郑成功在厦门大开海道,再起海上丝路,与周边国家和地区积极开展商贸往来,开辟了东洋、东南洋、南洋、西南洋4条海外航线,大批商船从厦门出发到世界各地闯荡。
由于郑成功与日本的密切关系,厦门成为明末清初众多中国僧人东渡的出发点,隐元禅师就是其中一位。因此,隐元赴日自然离不开郑成功集团的护持。隐元到达厦门后,在仙岩停留了18天。在仙岩停留期间,前来拜谒隐元的人络绎不绝,大多是郑氏集团的上层人物,其中就有护国公郑彩。郑彩多次拜访隐元,两人还互赠诗句,交情深厚。
郑彩(约1605—1659),出生于福建南浦(今福建厦门),此地正处于九龙江入海口,俗话说“靠山吃山,靠海吃海”,长期以来,当地人形成了航海经商传统,下海通番被视为发家致富的捷径。
十六世纪初,随着地理大发现以及新航路的开辟,西方势力纷纷东来,葡萄牙、西班牙人首先来到中国海域,十七世纪初,荷兰人又接踵而至。故步自封的中国统治者仍然实施“片板不许下海”的海禁政策。中国东南沿海地区的民间走私力量则自发地融入到世界海上贸易市场之中,但他们的发展面临两方面的压力,一方面,他们要防备政府官兵的围剿,另一方面,他们还要与西方势力争夺远东市场。为了壮大自身的实力,这些走私力量逐步聚集起来走向集团化,形成了李旦集团、颜思齐集团和郑芝龙集团等规模比较大的海上贸易 集团。
黄道周が敗北して捕虜になったあと、洪承疇はドルゴンの命令を受けて監獄に行って黄道周に降伏するよう説得しようとした。洪承疇が話す前に黄道周は洪承疇に「大明朝の三辺総督、六省経略の洪承疇はすでに身国のために死んだ。先帝はすでに彼の亡魂を祭った。お前のような虫けらがどうして彼の名号を偽り、彼の清名を汚すことができようか」とすぐに怒鳴りつけた。洪承疇はそれを聞いて気まずい思いをした。黄道周は対聯を書いて彼に贈った。「史筆伝芳、本能平虜忠可法、皇恩浩蕩、不思報国反成仇」この対聯は「皇成仇」の語呂合わせで「洪承疇」と言って、彼が国に反逆して恩を忘れることを皮肉っており、南明弘光帝の時の抗清英雄の史可法と比べれば、彼が大漢奸だということを怒鳴りつけたものだ。洪承疇は黄道周の忠誠心に感動し、清廷に黄道周の釈放を求めたが、清廷は黄道周に使い道がないのならむしろ殺したほうがいいと判断し、洪承疇の要請を拒否した。
1646年に国のために殉死する黄道周は、その日の朝、墨を擦って字を書き、印を押した後、使用人に渡し、これまでに絵を求めていた人に渡すように頼んだ。刑に臨む前、黄道周は服を引き裂き、指を噛み破り、「綱常万古、節義千秋、天地知我、家人無憂」という16字の血書を書き、「俺は死を恐れぬものか」と叫び、従容として死に就いた。死後、衣服の中から「大明孤臣黄道周」という7つの大きな文字が見つかった。彼の弟子だった蔡春落、頼継謹、趙士超、毛玉潔は同日に殺され、「黄門の四君子」と呼ばれた。(郭丹、2019)
黄道周が勇ましい最期を遂げた後、隠元は「挽石斉黄忠介公殉節詩」という詩を作り、黄道周の英烈な忠誠心に感服すると同時に、明王朝の復興への期待を表した。黄道周の書道も隠元によって日本に紹介された。
南明賢相の銭粛楽
福建琅岐(現在の福建省福州市馬尾区)は東シナ海の沿岸に位置し、福建江の中流にそびえ立っており、三方は江に囲まれ、一方は海に面しており、福建江口の喉と言われている。進軍すれば対岸の琯頭、亭江、潭頭などの村鎮を攻略し、福州を脅迫することもできるし、撤退すれば江を隔てて自分の安全を確保するために、海上から脱出することもできるので、歴史上の政治勢力の必争の地となった。1647年、魯監国の朱以海は軍隊を率いて浙江から琅江(現在の琅岐)に撤退した。当時、唐王の隆武帝は清兵に殺害され、福建全体が魯王に統治されていた。魯王は琅江を抗清の拠点として、南明魯王朝を創った。これは相国銭粛楽の補助なしには成し得なかった。
川原庆贺《唐馆之卷》中的福建商船,福清黄檗文化促进会供稿
川原慶賀『唐館の巻』に描かれた福建の商船 (福清黄檗文化促進会提供)
銭粛楽(1606—1648)は、浙江鄞県(現在の浙江省寧波市)出身である。1645年、清兵が杭州に南下した時、銭粛楽は義兵を組織して反抗することを提唱し、魯王に紹興で監国するよう要請した。浙東(浙江省の東地域)の抗清義軍は統一的指導を受けるようになった。そして、銭粛楽も自らの人生において抗清運動という悲壮な一ページを開いた。
翌年、江蘇省·浙江省は清軍に攻略され、魯王は海上に亡命して避難した。銭粛楽は義軍を率いて福建に撤退し、福清、文石(長楽)、海壇(平潭)の間を転々とし、生活が非常に苦しかった。米や麦を食べそれが尽きるとサツマイモを食べ、最後は干し芋を食べて空腹を満たすしかできなかった。銭粛楽はやむなく部隊を解散させ、単身龍峰岩寺院(現在の福建省福州市長楽区)にやってきた。仏像に向かって考えが乱れているところに、寺の鐘の音が聞こえてきた。彼は鐘の音がなぜか悲しく感じた。「自分は国に奉仕することに専念したが、願望を実現させるのが難しい。ここで僧侶になり、静かにする方が良い」と考えた末、彼は龍風寺の僧侶になり、一時的に隔離された生活を送っていた。地元の人々はしばしば僧院に来て教えを求めた。彼は家族の生活を支えるために少し謝礼金をもらった。
しかし、国のために戦った血気が冷めやらず、やがて魯王が琅江に来たと聞いて、すぐに琅江に駆けつけて魯王に会った。魯王は大喜びして彼を兵部尚書に任命した。銭粛楽は自分の小舟を魯王の大きな船のそばに結び、毎日小舟の中で招待客に接見し、上奏文を閲覧して魯王に提出した。公事処理が終わると、銭粛楽は船を結ぶロープを解き、別の場所に行き、船室で静かに本を読んでいた。
銭粛楽は軍事紀律を表明したり、軍事的功績を奨励したりして、軍事力を活性化した。魯王は軍隊を分割して福州の沿岸地域を攻撃した。興化(現在の福建プー田)、福清、連江、長楽、羅源など三十余城を次々と攻め、続いて三府一州二十七県を取り戻し、勢力を大いに振るった。
日本平户市“郑成功儿诞石”,福清黄檗文化促进会供稿
鄭成功児誕石 平戸市 (福清黄檗文化促進会提供)
抗清の情勢が改善すると、魯王朝内部は紛争のため、情勢は急転悪化した。隆武帝の時、鄭彩は鄭芝龍に排斥され、自分の軍隊を連れて魯王に亡命した。魯王の朝廷大臣の多くは浙江籍の知識人で、鄭彩のような強盗出身の福建籍の海上商人を見下していた。福建省と浙江省との間の紛争は鄭彩が投降した瞬間から始まったが、鄭彩の海商勢力は魯王の支配を維持するのに必要で、魯王も鄭彩を怒らせる勇気がなかった。大軍を手にした鄭彩はますます傲慢で威圧的になり、東閣大学士の熊汝霖と気性が合わず、詭計をめぐらして熊汝霖とその幼子を海に投げ込み、三日後、また鄭遵謙を殺した。このようにして、魯王の腹心の大臣は内輪もめの中で死んでしまい、軍の士気が衰え、新たに取り戻した城は清軍に次々と占領された。
連江が陥落したという知らせを聞いたとき、銭粛楽は非常なショックでもう生きる気力がなくなった。毎日断食を始め、まもなく琅江舟の中で亡くなった。当時は42歳で、一揆を起こしてから3年後の夏であった。夫人の董氏は2 ヶ月前に亡くなり、義理の姉と甥も福建省で亡くなった。魯王は悲しみに沈んでおり、3日間朝廷に出なかった。銭粛楽一家4人の棺は、6年後の1654年2月、葉向高のひ孫である葉進晟の手配で黄檗山に移されるまで、琅江のほとりに置かれていた。
鄭成功の清廷との交渉は1653年4月から始まり、1654年5月に決裂した。銭粛楽一家の棺の移葬は、鄭成功の清廷との交渉の短い平和期間中に行われたが、その過程は順調ではなかった。1654年2月、鄭成功の軍隊が黄檗山の周辺に到着し、黄檗寺に食糧を要求した。当時、黄檗寺の寺田は400ムー以上あり、食糧追徴の主な対象であった。銭粛楽一家の棺は鄭成功の軍隊によって福清宏路に抑留され、隠元が立ち回ってようやく通過することができた。この時、半月の歳月を経て、銭粛楽の棺はやっと黄檗山に運ばれた。隠元は黄檗山で銭粛楽の埋葬式を主催し、『祭希声銭相国文』という祭文を読み上げた。祭文の中で銭粛楽を「明故相国」と呼び、政権を認めず明王朝の高潔な大臣だと主張した。それに、銭粛楽の抗清活動を大いに賞賛し、黄檗山が銭粛楽に埋葬地を提供できたことを喜んでいた。しかし、銭粛楽一家の棺は8 ヶ月以上も埋葬されておらず、同年5月に隠元禅師が厦門に南下したときも、まだ埋葬されていなかった。隠元は南明の政権はいずれ慈悲と正義を失い、長く続かないだろうと嘆いた。隠元は日本に渡った後も銭粛楽の移葬のことを忘れずにいた。一日も早くそのことが運ばれるように、日本から帰国した商船を通して銭粛楽を埋葬するための資金を送った。銭粛楽と黄檗の縁は、このことからも伺える。
明隆庆四年(1570),明穆宗废除海禁,允许海上贸易,史称“隆庆开关”。郑彩出生时,海禁已经解除,像故乡的祖辈一样,他也是海上起家。年轻的郑彩和父亲郑明长期从事对日贸易,是福建小有名气的海商,但还不够强大。当时,以郑芝龙为首的郑氏集团是东南沿海赫赫有名的武装海商集团,郑彩对郑芝龙这位家门甚是仰慕,决心投奔郑芝龙。郑芝龙是一位经历丰富且具有传奇色彩的海商,1621年,18岁的郑芝龙到澳门跟随舅舅黄程学习经商,学得一口流利的葡萄牙语,并曾在荷兰东印度公司任职。1623年,他贩货到日本,在平户娶日本妻子,次年生下一子,即郑成功。同年,他结识了泉州籍海商巨贾李旦,李旦收他为义子,让他帮忙经营东南亚的商业贸易。后来,郑芝龙又加入以漳州海澄籍颜思齐为首的海商集团,因反抗日本当局的压榨,他和颜思齐等人逃往台湾的北港,在此招募泉州、漳州两地无业游民三千余人(何绵山,2018),逐步形成具有一定规模的商队。天启五年(1625),颜思齐去世,郑芝龙被推为首领。同年,李旦在日本平户去世,其所属商业贸易归属郑芝龙控制。郑芝龙结交海盗首领,号称“十八芝”,劫掠福建和广东各地,声振东南。
郑彩大概是1625年投奔郑芝龙,并逐步成为郑氏集团的骨干成员。崇祯元年(1628),郑芝龙接受明朝廷的招安,由海盗商人摇身变为官商,一方面,他与官军合力剿灭其他海盗商人团伙,成为东南海域一家独大的海上霸主,海商没有他的“同安候郑府令牌”不得出海。另一方面,他也听从明朝廷安排,奉旨剿灭边民起义。正是在郑氏集团发展的过程中,郑彩的势力不断增强,郑芝龙与郑彩的关系也相当密切,两人情同父子。郑芝龙把郑彩和郑联两兄弟安排在厦门、金门驻守,郑彩自此在厦门苦心经营十多年,这为他以后的作为打下了基础。
1645年,清兵南下,郑彩与郑鸿逵起兵入南京勤王,行至半路就听说南京城破,南明弘光帝被抓。郑彩与郑鸿逵在杭州遇到了唐王朱聿键,两人迎唐王到福建,拥立唐王为隆武帝,郑彩被封为永胜伯。郑芝龙对唐王入闽完全不知情,因而对二人心生不满。尽管郑鸿逵是郑芝龙的弟弟,但两人性情完全不同,郑芝龙是海盗起家,典型的海盗性格,唯利是图,郑鸿逵是科举取士,带有文人气质,他与郑彩关系反而更密切一些,两人常常赋诗唱和。郑芝龙想独揽大权,他派郑彩和郑鸿逵两人出兵浙江,但故意不提供足够的兵马和粮饷,其结果可想而知,郑彩和郑鸿逵节节败退,惨败而归。郑彩被夺去爵位和官职,再也无法在隆武朝待下去了,他带领本部兵士到浙江舟山投奔了监国鲁王朱以海。鲁王是1645年在浙江绍兴担任监国,后清兵南下,鲁王退到海上,直至舟山。唐王称帝时间稍早于鲁王,且得到除浙东之外各地南明势力的认可,而鲁王的势力只限于浙东一隅,因被清兵追击,一再败退,被人戏称“海上天子,舟中相国”。
海賊と商人との身分を合わせ持つ鄭彩
南明永暦八年、清順治十一年(1654)、63歳の隠元禅師は30人余りの弟子を率いて福清万福寺を離れてアモイに南下し、アモイから日本の長崎に渡海しようとした。当時のアモイは鄭成功の管轄に属していた。鄭成功は永暦四年(1650)にアモイに駐屯していた鄭聯(鄭彩の弟)を奇襲攻撃してアモイを占領し、続いて金門に駐屯していた鄭洪逵(鄭成功の叔父)も手にしていた兵船をすべて鄭成功に引き渡させた。それ以来、アモイと金門は鄭成功の抗清復台の重要な軍事拠点となった。鄭成功は、「通洋裕国(海を開いて国を繁栄させる)」と「大開海道、興販各港(海を開いて様々な港で貿易する)」を主張し、海上貿易を積極的に発展させた。アモイの当時の海外路線は東、東南、南、西南の4本があり、多くの人がアモイを出発して世界各地を渡り歩いていた。
鄭成功と日本との緊密な関係により、アモイは明後期から清初期にかけて多くの中国僧侶の東渡の出発点となり、隠元禅師もその一人である。したがって、隠元の来日は鄭成功集団の保護なしには成し得なかった。隠元はアモイに到着した後、仙岩に18日間滞在した。仙岩での滞在中、隠元を崇拝する人々が絶え間なく来、そのほとんどが鄭族の上流階級の者たちであり、その中には護国公の鄭彩も含まれていた。鄭彩は何度も陰元を訪れ、二人は詩を交換し、深い友情を持っていた。
鄭彩(約1605—1659)は福建南浦(現在の福建アモイ集美区)で生まれた。この場所は九龍江の河口にある。俗に「山に頼って山を食べ、海に頼って海を食べる」と言われ、長い間、地元の人々には航海と商売の伝統があり、下海通番は家を興して豊かになるための近道と見なされてきた。
16世紀の初め、地理的な発見と新しい航路の開拓により、西側の勢力が次々と東にやってきた。ポルトガル人やスペイン人が最初に中国海域に来て、17世紀の初めに、オランダ人も続いてやって来た。旧態依然とした中国の統治者は依然として「片板不下海(誰も海に行くことは許されない)」という海禁政策を実施していた。中国東南沿海部の民間密輸勢力は自発的に世界の海上貿易市場に溶け込んだが、彼らの発展は二つの圧力に直面していた。政府の将校や兵士の包囲を防ぐ必要がある一方で、極東市場をめぐって西側の勢力と競争しなければならなかった。これらの密輸勢力は、自身の実力を拡大するために徐々に集団化に向かい、李旦集団、顔思斉集団、鄭芝龍集団などの規模の大きい海上貿易集団を形成した。
郑彩投奔鲁王实是无奈之举,鲁王朝与隆武朝两方力量势同水火,史称“唐鲁之争”,鲁王周围多是浙江籍的大臣,他们都是科举出身的文人,多以气节自诩,本来就对郑彩这位闽籍的海商暴发户鄙夷不屑,更何况郑彩是从隆武朝叛离出来的。但郑彩海商势力的入伙无疑是给鲁王朝增添了不小的军力,那些自视甚高的文臣还得依靠郑彩维持鲁王小朝廷的统治。由此,鲁王朝内部从一开始就埋伏了闽浙两派、文武两方对立的危机。
南明流亡小朝廷与海商之间其实是一种交易关系,海商们等待封侯赐爵,小朝廷需要海商们的支持。“亦盗亦商”的海商一旦揽入官场,就会促使官场政局进一步恶化。1646年,隆武帝在汀州遇难,郑彩把鲁王迎往福建,郑彩被封为建威侯,后进为建国公,官爵显赫。但郑成功等不接受鲁监国。1648年,郑彩溺杀大臣熊汝林和郑遵谦,导致钱肃乐忧愤而死。郑彩的所作所为激起众怒。郑芝龙与郑彩的所作所为反映的是海商们的唯利是图、狡诈凶残的本性。
相比之下,郑成功积极发展海上贸易,养兵富国,不仅继承了父亲郑芝龙的商品流通网络和市场,还加强对港口的控制,将夺取厦门视为头等大事。永历四年(1650)中秋,郑成功偷袭郑联,占领厦门。郑彩向鲁监国求助,却被鲁王的部将趁机进攻。郑彩退居厦门养老,皈依佛门。金门为郑成功的叔叔郑洪奎驻守,他将船只悉数交付郑成功。郑成功获得厦门和金门后,积极在闽南征粮,开府设官,为“通洋裕国”做准备,为抗清乃至复台大业提供经济基础。(卢承圣,2016)
隐元到达厦门后,郑彩多次拜访,此时的郑彩手无兵权,在厦门颐养天年,早已失去往日的野心,两人互赠诗句。1655年,隐元已到达日本长崎之后,时年五十一岁的郑彩还写了一首七律诗相赠,表达自己一心向佛的心迹。只是直到1659年郑彩亡故,再未与隐元相见。
明隆慶四年(1570)、明穆宗は海禁を廃止して海上貿易を許可し、歴史的には「隆慶開関(港を開放する)」と呼ばれた。鄭彩が生まれた時、海禁はすでに解除されており、故郷の祖先のように海によって家を興した。若い鄭彩と父の鄭明は長期にわたって対日貿易に従事し、福建省の有名な海商だったが、まだ強大ではなかった。当時、鄭芝龍をはじめとする鄭氏集団は東南沿海で有名な武装海商集団だったが、鄭彩は鄭芝龍の一族を非常に慕っていたので、身を寄せることを決意した。鄭芝龍は経験が豊富で伝説的な海商であった。1621年、18歳の鄭芝龍はマカオに行って叔父の黄程に従って商売を学び、流暢なポルトガル語を学び、オランダの東インド会社に勤めていた。1623年、彼は日本に商品を売りに行き、平戸で日本人を妻に迎え、翌年に鄭成功という子供が生まれた。同年、泉州出身の海商の巨匠李旦と知り合い、李旦は彼を養子に迎え、東南アジアの商業貿易を経営させた。その後、鄭芝龍はまた漳州海澄出身の顔思斉をはじめとする海商集団に加入し、日本当局の搾取に抵抗したため、彼と顔思斉らは台湾の北港に逃亡し、ここで泉州、漳州両地の無職游民を三千人余り募集し、(何綿山、2018)徐々に一定規模の一団を形成した。天啓五年(1625)、顔思斉が死去し、鄭芝龍が首領に推された。同年、李旦が日本の平戸で死去し、その所属する商業貿易は鄭芝龍の支配下にあった。鄭芝龍は海賊の首領と関係を深め、「十八芝」と称し、福建省と広東各地を略奪し、東南地域ではその名が知られていた。
鄭彩は1625年に鄭芝龍に投じ、鄭氏集団の中心メンバーになった。崇禎元年(1628)、鄭芝龍は明の朝廷からの帰順を受け、海賊商人から官商に変わった。一方で、彼は官軍と力を合わせて他の海賊商人グループを壊滅し