黄檗日僧龙溪性潜
隐元禅师东渡日本后培养的弟子有十几位,其中日本弟子僧人中,最为有名的是龙溪性潜、独昭性圆、独本性源三位高僧,分别是日本黄檗宗十一流派中的三个支派——万松派、直指派、海福派的创者,为临济宗黄檗派在日本的本土化做出了很大的贡献。值得大书特书的是,隐元禅师在日本创立黄檗宗的过程中,一直得力于龙溪性潜的协助,可以说,没有龙溪性潜,就没有隐元禅师在日本的弘法大业,也就不会有日本黄檗宗的诞生。龙溪性潜与隐元的交往,堪称中日佛学界的一段佳话。
事し、師弟二人を合わせて「福清両夫子」と呼ばれている。林希逸の『老子』『荘子』の解釈は後世に影響を与え、日本の学界で老子と荘子を知るための重要な典籍でもある。即非は日本へ渡った後、家伝の旧本と日本で出回っていた本を比較して『即非老子経』を世に刊行し、江戸で大人気を博した。彼は草書が得意で、隠元隆琦、木庵性瑫とともに「隠木非」と「黄檗三筆」と呼ばれている。
寛文十一年(1671)、即非如一は56歳で円寂した。
黄檗日本人僧侶の龍渓性潜
隠元禅師が日本に渡った後、十数人の弟子を育てた。その中で日本の弟子僧の中で最も有名なのは龍渓性潜、独昭性円、独本性源の3人の高僧である。それぞれ日本黄檗宗十一流派の中の3つの支派——万松派、直指派、海福派の創始者であり、臨済宗黄檗派の日本での現地化(ローカリゼーション)に大きな貢献をした。特筆すべきは、隠元禅師が日本で黄檗宗を創立する過程でずっと龍渓性潜の協力を得てきたことだ。龍渓性潜がなければ隠元禅師の日本での弘法大業もなければ、日本の黄檗宗の誕生もなかったと言える。龍渓性潜と隠元の交際は、中日仏学界の美談だと言える。
龍渓性潜(1602—1670)は京都出身で、俗姓は奥村、本名は宗潜、字は龍渓だったが、隠元に改宗して性潜と改名した。16歳で出家し、その後は日本南部の諸寺の高僧を訪ねて禅法の研究に没頭した。隠元禅師が渡日する前から日本ではすでに有名であり、京都の妙心寺や摂津の普門寺の住職を務めていた龍渓は、隠元の著書を読んでいたので、隠元が渡日した後、長崎の興福寺に行って隠元の説法を聞き、隠元の禅宗の教養に感服した。
1655年、龍渓は隠元に摂津の普門寺の住職になるよう要請したが、当時龍渓はもともと普門寺の住職であり、自ら監院に降格した。このようにして、龍渓は隠元の指導の下で、深く禅法の旨を得た。
実は、日本での隠元の弘法は順風満帆ではなかった。江戸時代の日本の仏教は、宗派が乱立し、伝統的な勢力が強固であり、新たな宗派の居場所はほとんどなかった。隠元が日本に到着した後、まず長崎の興福寺と崇福寺で法を広めたが、長崎はやはり西部の辺境地帯に位置しており、聴衆は限られており、隠元の開宗立派の予想とはかなりかけ離れていた。その1年後、龍渓性潜らの招請を受けて、鎌倉幕府時代に建てられた臨済宗の名刹である摂津普門寺に赴いたが、応仁の乱で寺が破壊され、隠元が到着した時は、建物や住居条件が唐三寺にも劣っていた。しかし隠元はこの機会を大切にした。当時幕府が来日する中国人僧侶の居場所や行方を厳しく制限し、一般的に彼ら長崎港にしか滞在できなかったため、長崎から出ることは容易ではなかった。隠元が大阪の寺院に住み着くことができたのは幕府の同意があったからであり、大阪はすでに日本の政治文化の中心地である江戸に近く、この移動は隠元の弘法活動にとって大きな意義があったのだ。
龙溪性潜(1602—1670),日本京都人,俗家姓奥村,原名宗潜,字龙溪,皈依隐元后改名性潜。十六岁出家,此后遍访日本南部的各寺庙的高僧,潜心研究禅法。在隐元禅师东渡之前,龙溪在日本已经有一定的名气,他曾担任京都妙心寺和摄津普门寺住持,因为早就读过隐元的著作,但并未见面,所以等隐元东渡后,他前往长崎兴福寺听隐元讲法,不由叹服隐元的禅宗修养。
1655年,龙溪请隐元前往摄津的普门寺担任住持,当时龙溪本是普门寺的住持,他自己甘心降级为监院。就这样,龙溪在隐元指导下,深得禅法旨要。
实际上,隐元在日本的弘法并非一帆风顺。江户时期的日本佛教,宗派林立,传统势力稳固,几乎没有新的宗派的立足之地。隐元到达日本后,先是在长崎的兴福寺和崇福寺弘法,但长崎毕竟地处西部边缘地带,受众很有限,离隐元开宗立派的预想相差甚远。一年之后,他接受龙溪性潜等人邀请到摄津普门寺,普门寺是镰仓幕府时期建造的临济宗名刹,但经“应仁之乱”后,寺庙被毁,隐元到达时,房屋建筑与居住条件还不如唐三寺。但隐元很珍惜这次机会,当时幕府严格限制中国来日僧人的行踪,他们一般只能待在长崎港,因而能走出偏僻的长崎对于他已经是相当的不容易。隐元能到大阪寺庙栖身,应该是经幕府同意的,因为大阪已经离日本的政治文化中心江户很近了,而这次迁移对于隐元的弘法活动而言意义重大。
日本万福寺梵钟,福清黄檗文化促进会供稿
梵鐘 日本万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
隠元は普門寺で梵鐘を再鋳造し、銘文を書いて臨済禅宗を発揚する抱負を表した。国内の木庵と即非に書状を送り、弘法のために日本に来てほしいと要請したが、しばらくして情勢が変わった。幕府は彼の行動を厳しく監視し、1年近く寺内を軟禁し、普門寺の集会に参加した日本人僧は200人を超えないように制限した。
日本明暦二年(1656)十月、龍渓らは隠元に京都の妙心寺を訪れてもらい、隠元を妙心寺の住職にしようとしたが、妙心寺内の反対派に拒否された。妙心寺の黄檗宗反対論は無著道忠の『黄檗外記』に見られる。隠元は妙心寺に5日間滞在した後、その場を離れた。この攻撃により隠元は帰国の念を抱き、福清の万福寺の僧侶たちと3年で帰国すると約束をした。この時、木庵性瑫も手紙の中で彼に帰国を勧めた。木庵は手紙の中で、彼らが日本で法を広めるのは石女(子が産めない女性)に子供を生ませるようなもので、非常に困難であると書いていた。
龍渓性潜は隠元が帰国の念を持っていることを知り、必死に隠元を引き止めたが、妙心寺での一件が隠元に帰国の念を抱かせたのではないかと考え、妙心寺の住職を辞して隠元を師とし、隠元禅師に従うことに専念し、法名を「性潜」と改め、黄檗僧となった。
しかし、隠元禅師をどう引き留めるのか。龍渓は自分と皇室、幕府との関系を利用して、隠元が幕府の上層部の認可と彼らの護持を得ることさえできれば、隠元の弘法ははるかに順調になり、帰国することを考えなくなるだろう。それで、彼は幕府の上層部に隠元への関心を持たせるために、幕府の役人の間で遊説を行った。
隐元在普门寺重铸梵钟,撰写铭文,表达弘扬临济禅宗的抱负。他写信给国内的木庵和即非,希望他们到日本协助弘法,但没过多久,形势发生了变化,幕府严格监视他的行动,将他软禁寺内近一年,并限制在普门寺集会的日本僧人不能超过二百人。
日本明历二年(1656)十月,龙溪等请隐元访问京都妙心寺,并有意让隐元担任妙心寺住持,但遭到妙心寺内反对派的抵制,妙心寺反对黄檗宗的主张,可以在无著道忠的《黄檗外记》中看到。隐元在妙心寺住了五日后离开。这次打击让隐元萌发归国的念头,而且他与福清万福寺众僧有三年之约。木庵性瑫此时也在信中劝他回国,木庵在信中写到,他们在日本弘法如同让石女生孩子,十分困难。
日本大阪府富田普门寺,福清黄檗文化促进会供稿
普門寺 日本大阪府摂津 (福清黄檗文化促進会提供)
万治元年(1658)、隠元は普門寺を出立し、龍渓を伴って江戸に赴き、幕府の役人と対面した。幕府から見れば、隠元らは明代の華やかな文化を代表していた。隠元は江戸に着いた後、幕府の上層部と比較的頻繁に接触して、幕府の上層部も隠元の徳才を認めていた。実は彼らも隠元を引き止めようとしたが、その方法についてはまだ合意に達していないので、隠元は幕府の承諾を得ていない情況の下で依然として帰国したいと思っていた。
万治二年(1659)、隠元の帰国を求める書状を幕府に渡した龍渓は隠元を帰国させたくないため、幕府高官の間を奔走し、この高僧の大徳を逃さないよう隠元を引き留める方法を模索するよう勧めた。ついに徳川幕府は新しい寺を開くという形で隠元を引き留めることにした。そして、隠元に京都近郊の地を選んでお寺を建てるように頼んだ。当時の中国国内情勢はどうだったか。1657年、南方の抗清勢力は鄭成功と西南の永暦政権の両方の勢力しか残っておらず、清朝はすでに土地と人口の大半を占領していた。1657年から1659年までの間、鄭成功は3回の大規模な北伐を起こしたが、いずれも失敗して元気を失い、鄭成功はオランダ植民地から台湾を取り返し、明鄭王朝を樹立した。西南の永暦政権も息絶え、清に抵抗する局面の大勢は決まってしまった。清廷は浙江省、福建省を制圧するよう命じ、日本に向かう船の数を大幅に減らし、隠元は帰国の条件を備えていなかった。そこで隠元は幕府の慰留を受け入れ、安心して日本で法を広めることにした。
1670年8月、龍渓禅師が大阪に招かれて法を伝授し、九島庵に座禅したところ、寺の外で洪水が発生した。危険に直面しても動じず、詩を書いた後、水の中に正座し、泰然として69歳で没した。龍渓性潜禅師は生前、しばしば宮中に入り、後水尾上皇に説法をしたことで、「大口正統禅師」の称号を与えられた。
痘瘡を治療した僧侶名医の独立性易
江戸時代、日本人は痘瘡(俗名天然痘)に非常に悩まされた時期があった。貴賤を問わず、最も恐ろしい病気だった。日本の民間ではかつてこのような噂が流れていた:「人生に二つの患いあり、麻疹と痘瘡だ。特に痘瘡が最もひどく、十の子供の内九は死ぬ」。当時、日本の医者は痘瘡を治療する有効的な方法がなく、一方の中国では比較的にその治療が進んでいた。中国の痘瘡の治療術を日本に伝来したのは戴笠であった。
龙溪性潜得知隐元有归国之念,拼命挽留隐元,他认为是妙心寺的排挤让隐元产生归国之念,所以干脆辞掉妙心寺的住持之位,拜隐元为师,一心追随隐元禅师,法名改为“性潜”,成为一名黄檗僧人。
但该怎样留住隐元禅师呢?龙溪决定利用自己与皇室、幕府的关系,让隐元获得幕府高层的认可,得到他们的护持,如此,隐元的弘法就会顺畅许多,那么他就不会想着回国了。他在幕府官员间游说,让幕府高层关注隐元。
1658年,隐元奉召离开普门寺,在龙溪的陪同下前往江户与幕府官员见面。在幕府看来,隐元等人所代表的就是鲜活的明代文化。隐元到了江户之后,与幕府高层有了较为频繁的接触,幕府高层也认可了隐元的德才,实际上,他们有意挽留隐元,但对以什么方式挽留还未达成一致意见,所以隐元在没有得到幕府承诺的情形下仍然想着回国。
万治二年(1659),龙溪把隐元要求回国的书信交给幕府,他并不想让隐元回国,于是在幕府高官中奔走,劝他们想办法留住隐元,不要错失这位高僧大德。德川幕府最终决定以开创新寺的形式挽留隐元,于是,他们让隐元在京都附近选地建寺。当时中国国内形势如何呢?1657年,南方抗清势力只剩下郑成功、西南的永历政权两方势力,清廷已占领一大半的土地和人口。1657年至1659年间,郑成功先后发动了三次大规模北伐,但都告失败,元气大伤,郑成功转而从荷兰殖民者手里收复台湾,建立明郑王朝。西南的永历政权也奄奄一息,抗清局面大势已去,清廷下令控制浙、闽,东渡日本的船只大大减少,隐元已不具备回国的条件。于是,隐元决定接受幕府的挽留,安心在日本弘法,与其回到清廷统治的故土,不如在日本开宗立派。
1670年8月,龙溪禅师应邀到大阪传法,坐禅九岛庵,寺外突发洪水。面对危险,他不为所动,写下诗偈后,端坐水中,泰然圆寂,享年六十九岁。龙溪性潜禅师生前常得奉旨入宫,为后水尾上皇讲经说法,因此获赐“大宗正统禅师”的封号。
戴笠(1596—1672)は、本名観胤、字を曼公とし、浙江省杭州の出身だった。戴笠は子供の頃、才能と悟りを持っており,一度目を通せばすぐに暗唱することができるほど記憶力が優れていた。明末の実学思潮の影響で、彼は程朱伝注を信じず、科挙の官途を放棄し、医術の研究に専念し、浙江の嘉興濮院鎮で医者をやって生計を立てたことがある。
明代天啓元年(1621)、火事に見舞われた戴笠の家は貧しくなり、各地をさまよい始め、やがて医学の名門である江西の名医龚廷賢に師事した。戴曼公は龚廷賢の医術を真剣に学び、自分で『素問』、『難経』などの経典医学書を研究した。戴笠は龚廷賢の医術を継承した上で痘瘡の治療法を推進 した。
清兵は山海関より北京に進駐すると、すぐに薙髮(髪を切る)を命じ、「嘉定三屠」「揚州十日」などの大虐殺事件を起こした。戴笠は激怒し、反清復明活動に積極的に参加した。清順治七年(1650)戴笠は江蘇呉江の「驚隠詩社」に加入し、別名「逃社」と呼ばれ、これは一時的な避難所として利用できるという意味だ。主に明の遺民が集まった文人組織で、創始者は抗清義軍の首領である呉振遠、呉宗潜、葉恒奏の三人であった。顧炎武、帰荘らもこの社の活動に参加しており、詩社は明らかに反清復明の性質を持っていた。そのため、詩社は清廷に厳重に監視され、重要な社員が数人相次いで殺害され、ついに圧力におされて康熙三年(1664)に解散 した。
清順治十年(1653)、江蘇省·浙江省一代の反清勢力はすでに清朝にほぼ平定され、反清復明はもはや不可能となった。戴笠は広東の番禺から日本に渡り、長崎港に到着した後、同郷の医師陳明徳の家に一時滞在した。日承応三年(1654)、隠元禅師が長崎港に渡航した。戴笠は隠元を訪問し、同年に禅門に改宗し、法号は独立性易となった。
戴笠は日本に来た後も医術で人を救い、特に痘瘡の治療で有名で、多くの人がはるばる彼を訪ねて薬を求めた。長崎と周防州の岩国の間をよく行き来