东皋心越的个人抒怀
东皋心越(1639—1695)是一位多才多艺的僧人,他有着高超的篆刻技艺和琴学素养,被日本视为篆刻之宗,江户古琴之祖。他的诗文多恳切的真实情感,少高唱志节,反映出遗民的另一种心态。
渡海心路。大海充满不确定和危险性,让人恐惧与敬畏并存。在众危险中,沿海海事战争也是不可忽略。东皋心越渡日前,1673年发生三藩之乱,1674年郑经从台湾带领军队一举攻破,郑经的军队不仅包含陆军还有海军,因此海岸线也是烽火连天。根据他所写的《东渡述志》记载,他登舟出海时,“身依矛甲间,耳闻犹其訇”,身处兵戈矛甲间,耳边充斥着战斗的轰轰声响。之后因为无法顺利出海,舍去舟船躲在岛屿中度过艰难窘迫的两个月。当海上可以通船了,东皋心越立即动身出发,而他反清复明的希望也落空了。1676年,耿精忠的部队,节节败退后最终投降。因此,诗中还表达了自己东渡扶桑的无奈,他对身后家国感到失望哀伤,对茫茫大海也感到彷徨未知,“众人频泪流”,当然更多的是东皋自己内心的担忧。虽说“丈夫家四海”,对扶桑有所冀望,但“身命总虚空”的无奈总在心底徘徊不离。
と、「從此遠遊他国去、大扶師道頼昆仁」「身担大法志偏壯、杖策長途夢欲帰」とあり、高泉は渡日に期待していたようだ。渡日後は、他の黄檗僧侶と違って、故郷を偲ぶ作品もあるが、帰ろうとする気持ちはそれほど強いものではなかった。日本での様々な経験は彼の視野を大きく広げた。
日本を遊歴。高泉性潡は日本の京都に着いた後、あちこちを旅行した。京都の仏教の雰囲気が印象的だったようで、例えば『雒京即景両首』という詩がある。
列国吾遊慣、雒城景莫同。
有河多愁石、無寺不聞鐘。
帝闕雲霞表、人家花木中。
大都皆尚佛、追及竺天風。
(其一)
楼台浮処処、弦管雑紛紛。
嶽色晴方見、車声雨亦聞。
行人僧過半、周道寺平分。
分舍衛初無、都有聖君。
(其二)
「雒城」とはここでは日本の京都を指す。高泉は日本中を旅して、京都の景色が特別だと感じて、「楼台浮処処、弦管雑紛紛」、どこも繫栄して優雅である。「大都皆尚佛、追及竺天風」「行人僧過半、周道寺平分」、至る所に僧侶とお寺があり、全体的に仏の雰囲気を呈している。「都有聖君」、京都の平和はすべて優れた君主の管理のおかげであり、高泉は日本の政治管理を高く賞賛した。
奈良を訪れた後、高泉は調和のとれた社会に憧れていた。彼は『南都紀勝』という文章の中で、詩人が二月に奈良を観光した時、役人が人々と調和し、生活が豊かで、人間と動物が仲良く付き合い、尭舜時代に身を置いたようだと描いている。これは詩人の理想の社会ではないかと高泉は感心した。
旅行中、高泉は日本の生け花の腕前にも驚かされた。『贈攢花人』では、「洛中見説善攢花、能使名人不敢誇。只為巧心兼妙手、別成春色富山家。」と書き、日本の花道の達人の巧みな独創は、高泉の通常の花の扱い方と大きく異なっていた。高泉はまた、詩の注釈で日本の生け花のスキルが優れており、これは完全に芸術作品であり、絵画の中でしか見ることができないと賞賛した。
东皋心越隶书及花鸟画,福清黄檗文化促进会供稿
東皋心越書及び花鳥画 (福清黄檗文化促進会提供)
温泉体験。高泉は日本に着いてから様々な異文化体験をした。その中で、彼は特に温泉が好きで、多くの詩歌を残しただけでなく、温泉に関する本『常喜山游覧集』まで書いた。高泉にとっては温泉の楽しみは温泉ではなく、温泉道なのである。
觱沸出深井、入池湧暖波。
時時含瑞気、往往滌沈痾。
大抵無厳冷、自然有太和。
要明妙触処、問取跋陀羅。
(『山代温泉』)
山代温泉は今でも金沢地方で最も有名な温泉街で、温泉は体に溜まった汚れを洗い流すことができて、本当に気持ちがいい。文末に述べた「跋陀羅」は直訳すると「覚賢」という意味で、東晋時代に中国に来たインドの高僧で少林寺の最初の住職のことを指し、彼は南朝の高僧法顕と仏教の戒律経典『摩訶僧祇律』を共同で翻訳したことがある。『摩訶僧祇律』では、比丘と王様が温泉に入るという物語が記載された。王舎城には王温泉、比丘温泉、象温泉の3種類があり、温泉によって身分が異なるのでそのルールを乱すことができない。しかしある日、比丘たちが王温泉に行って入浴したせいで王様が入浴できなくなり、臣下たちの不満を招いたが、王様は寛大で辛抱強く彼らが出てくるのを待っていた。結局王様は入浴できなかったが、仏陀の称賛を受けた、という物語である。高泉はこんな話を引用して、温泉に入る楽しさを伝えたかったのだろう。もう一つの例として、
盈池竟日沸無休、多載沈疴一滌瘳。
自是願王三昧水、莫疑不宜混常流。
东皋的渡海过程并非一帆风顺,其诗《怀忆昔渡海歌》中写到“不期一夜起朔风,惊涛骇浪若游龙”“凝眸千里见崆峒,恍惚转入岛之洪”,可知海路之行,不仅饱受长途跋涉之苦,实际上也确实历经种种艰险,心里无法平静。(赖思妤,2015)
扶桑冀望。东皋心越在绝处逢生之后,看到日本升平的景象后反而对日本有所冀望。他在《东渡述志》后半段写道:“始知宇宙内,方壶别有天。风土殊非异,屋舍古犹然。居民皆纯朴,日用自省便。松竹郁苍苍,花卉鲜艳艳。时稔多丰登,万事无余欠。泊舟有旬日,正值梅花吐。笑把梅花嗅,陌路频相顾。捻指计流光,不觉岁云暮。”日本纯朴的民风,自然的风光,犹如世外桃源,东皋心越一扫海路的阴霾,“笑把梅花嗅”,愉悦轻松的心情满溢。东皋心越还有多首梅花诗,如《舟中得梅》“笑把梅花处,陌路喜相亲”,《写梅偶忆》“呵笔偶然写此意,为传春信到梅花”,都表现了他对梅花的喜爱及借梅托志之意。
思乡心境。东皋心越诗文中,除了记载佛法的弘扬,表达思乡情绪的也很多。如《除夜》这首诗:
此地唐津不是唐,唐津昔日把名扬。
唐山唐水非唐境,唐树唐云非唐郡。
唐日唐月同唐突,唐时唐节光阴速。
唐津除夜今宵延,明日唐津又一年。
整首诗每一句都离不开“唐”字,“唐”就是代表中土故乡,故乡的点点滴滴时时刻刻都值得怀念。(浦江政协文史资料委员会,2006)
佛有沤和世莫猜、此泉休問自何来。
実從悲願海中出、普与群生浣病胎。
(『詠温泉』)
ここの温泉は日本兵庫県の有馬温泉で、今でも有名な観光名所で、数百年にわたって人気が衰えていない場所である。詩の中では、温泉は慈悲と願いの海から湧き出て、汚れや病気を洗い流すことができる仏教の力の持っている「三昧水」に例えている。また、温泉と薬師如来の信仰を組み合わせたものもある。
琉璃古佛降東方、向此空山示此湯。
滌尽沈痾兼益算、慈恩蕩蕩孰能量。
(『礼薬師仏』)
我佛原来号願王、分身在処作津梁。
都為濯群生垢、故向寒岩迸沸湯。
(『温泉寺礼薬師仏』)
日本各地の温泉には薬師如来が祀られており、病気を治すことができるという中国にない風習がある。仏教はもともと入浴を重視しており、高泉は入浴文化と仏教の密接な関係を自然に理解し、温泉の体験を生かして仏教の真の意味を心得た。要するに、高泉は温泉をこの世の喜びとして楽しむだけでなく、天地の真理と生命の真実を悟る鍵とも理解していた。(廖肇亨、2017)
東皐心越の心明し
東皐心越(1639—1695)は、篆刻の技と琴の素養に優れた多才な僧侶で、篆刻の宗と琴の宗だと見なされている。彼の詩は真の感情が多く、志気と節操を歌うことが少なく、遺民の心理状態を反映している。
渡海をめぐり。海には不確実性と危険性に満ちており、恐怖と畏敬の念を人々に感じさせた。その数多く存在する危険の中で、沿岸海事戦争も無視で