弟子遇难,“子债父还”
弟子也懒性圭(?—1651)赴日,不幸遇难海上。明清之际福建沿海私人贸易盛行,也正逢中国东南沿海省市临济宗处于中兴时期,长崎“唐三寺”为了振兴临济宗风,由各乡帮从国内原籍延聘高僧大德担任寺院的住持,在此需求下,闽僧大量东渡日本。清顺治八年(1651),长崎崇福寺正式邀请隐元禅师的弟子也懒性圭前往日本担任首座,然而不幸的是,也懒性圭在赴日途中遇风浪,最终葬身大海,未能实现隐元夙愿。消息传来,隐元禅师作诗表达心中悲痛:“闷来窗底叹《离骚》,众角何殊凤一毛。不忍唾余混细壑,通身手眼出洪涛。”(平久保章,1979)《离骚》是战国时期屈原遭遇困顿而发的抒情之作,隐元禅师借《离骚》表达对弟子遇难的悲痛。也懒弟子作为众弟子中凤毛麟角的人才,身为老师恨不能拥有通天手眼的本领拯救弟子于洪涛之下。所以,隐元禅师在第四次接到长崎的请启后,叹道:“子债需父还了。”(陈智超,1995)
をまた躊躇していた。それは黄檗公案が未解決のままであり、また黄檗山万福寺の諸護法と大衆から強く引き止められたからである。しかし、渡日については少しの動揺が見られる。隠元禅師は弟子の良者を長崎に派遣、長崎における仏教界の実情を調査させ、慎重な姿勢を示している。
京都万福寺东渡缘起纪念牌,福清黄檗文化促进会供稿
東渡由緒記念 京都市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
四度目、再三の懇願に禅師ようやく決意した。十一月、逸然性融は長崎の唐人七人と連名で4通目の請啓を出し、長崎奉行が江戸幕府に請文を報告し、同意を得たことを強調した。十二月、隠元禅師は「皆は本心を忘れず、法を求め精進しようとし、世の中の悩みをすべて取り除き、本心を明らかにした。このことを早くから知っていれば、私はとっくに日本に渡って法を広めていたのではないか」と返事をした。(平久保章、1979)この手紙を通し、隠元禅師は渡日の決意を固めた。
遭難した弟子の志を継ぐために
隠元禅師の弟子である也嬾性圭が日本に渡り、不幸にも海で遭難した事件があった。明清の際、福建沿海と日本の民間貿易が盛んになり、中国東南沿海の都市では臨済宗が復興期にあった。長崎にある「唐三寺」は臨済宗の宗風を振興するため、各自の故郷から中国人高僧を寺院の住職に招き、福建籍の僧侶が大量に日本に渡航した。清の順治八年(1651年)、隠元禅師の弟子である也嬾性圭は長崎の崇福寺から招請され、1651年6月に渡日することになったが、その乗船が厦門を出港してまもなく沈没してしまった。隠元禅師はこのことを聞いて悲しみに暮れた。「悶來窓底嘆離騷、衆角何殊鳳一毛。不忍唾餘混細壑、通身手眼出洪濤。」(平久保章、1979)『离騒』は戦国時代の屈原が困窮した時に書きあげた抒情的な作品であり、隠元禅師はそれを借りて弟子の遭難に対する悲しみを表した。神通力を持って自分の優秀な弟子を荒波から救いたいと語っている。そのため、隠元禅師は四度目の招請書を受けた後、「子の借りは父が返さなければならない」と嘆いた。(陳智超、1995)
京都万福寺伽蓝堂,福清黄檗文化促进会供稿
伽藍堂 京都市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
继弟子之志,行弟子志事。一日为师,终身为父。弟子东渡弘法未遂之“债”,也促成了隐元禅师下定决心赴日。在复信中,他再次表示同意东渡弘法的邀请:“三请法轮能不退,千秋道振在斯时。”(平久保章,1979)隐元禅师被长崎的三次请启感动,认为此时是弘法的最佳的时机了。他把福清黄檗山万福寺的法席交给弟子慧门如沛,与众檀越约定三年后归来,然后置海上风浪危险于不顾,辞别僧众,与众弟子毅然踏上东渡的历程。
偶然不偶,一脉东流。隐元禅师渡日后在1657年写给他的师父费隐通容禅师的信中说道:“倘得一脉东流,亦是偶尔成纹。”1664年,他在退隐后所作诗句中也写道:“梦游阔别已多年,偶到扶桑一寄缘。无事清弹消白日,有时感赋闻苍天。侬家父老今何在,故国生民几变迁。遥隔海涯徒感叹,夜阑反复不成眠。”(平久保章,1979)这两处的“偶”字,清楚地表明隐元禅师对这件事的想法:自己来到日本是一个偶然事件,仿佛做梦一般。而这一偶然事件就是弟子也懒性圭的溺水身亡。
隠元禅師は弟子の志を継いで、弟子の所願を果たした。一日師として仰げば、一生父として慕う。弟子の未完成の願いも、隠元禅師が日本への渡航を決断した重要な理由となった。返信の中で、「三請法輪能不退、千秋道振在斯時(三請の法輪は退かず、千秋にわたる法の復興は今の時にある)」と招請に応じて、渡航を決心したことを表明した。(平久保章、1979)隠元禅師は長崎からの再三の招請に感動し、今が弘法の絶好の時だと考えた。福清の黄檗山万福寺の住持職を弟子の慧門如沛にまかせ、三年後に帰ることを弟子、檀越たちと約束し、渡海の危険を顧みず、大勢んの弟子とともに東渡の途についた。
偶然でありながらも必然性があり、臨済の一脈が東へ伝わった。隠元禅師は渡日後の1657年に師匠の費隠通容禅師に宛てた手紙の中で、「倘得一脈東流、亦是偶爾成紋(一脈が東へ伝わり、偶然に波紋ができた)」と述べている。また、1664年に隠退した後に詠んだ詩文にも、「夢遊闊別已多年、偶到扶桑一寄縁、無事清弾消白日、有時感賦聞蒼天。侬家父老今何在,故国生民幾変遷。遥隔海涯徒感嘆,夜闌反復不成眠」と書かれている。遠く離れた異国の地で父を想い、故郷とその人々を想い感嘆し、夜も眠れない思いを綴っている。(平久保章、1979)この詩にはまた海難事故で亡くなった弟子の也嬾性圭を彷彿とさせる。