建筑
六世纪中叶,随着我国佛教的东传,佛寺建筑技术亦被移植。随时光流逝,其表现手法与风格虽逐渐发生若干变化,但也不难看出,日本佛寺建筑中的中国元素。
日本建筑发展的历史,大致可分为三个阶段:飞鸟到平安时代,镰仓到室町时代和桃山到江户时代。飞鸟时代(592—710)的佛寺建筑有多种排列风格,进入奈良时代才逐渐统一。竣工时已经相当于中国隋朝时期的奈良县生驹郡斑鸠町法隆寺,它的建筑风格虽然属于飞鸟时代,却仍然体现了我国北魏时期的建筑模式。至于奈良时代的唐式佛寺建筑,则可以奈良五条町的唐招提寺为代表。在造法上,颇能表现我国唐代佛寺建筑富丽雄伟之风。讫自宋代,在结构上原非必需的材料之增多与其细部结构的渐趋繁缛等现象,亦表现于日本镰仓时代的佛寺建筑上,此一形式可以圆觉寺舍利殿为代表。
日本建筑物在体现出唐代建筑显著特征的同时,也体现出了向本土风格转变的特征。平安时代(794—1192),日本寺庙建筑渐渐具备了日式特色的和样风格,贵族府邸中建立了正殿,平安时代后期的正殿,多模仿中国的宫廷结构,除了家内部的密室(被厚厚彩绘墙壁包围的房间,用作卧室或收藏间),其他的房间都没有隔断。只有在必要时,才用屏风和舞台幕布隔开。此外,装饰着正堂、房檐、竹帘、屏风和幔帐等家具的漂亮房子被称为室礼。
の上でかつて形成してきた根源を大切にして、未来の友好往来や関係をより大切にするべきである。
三、建築と医術
建築
六世紀の半ば、中国仏教の東伝により、仏寺の建築技術もまた移植された。時の経つにつれて、表現の手法や趣が変化しつつあったとはいえ、日本における仏教建築に残された中国的要素は依然として目を引く。
日本の建築史と言えば、大きく三つの段階に分けることができる。すなわち飛鳥から平安時代、鎌倉から室町時代、そして桃山から江戸時代である。飛鳥時代(592—710)においては、仏教建築の排列様式が多様で、奈良時代に入ってやがて統一される。中国の隋の頃に建てられた奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺は、建築様式から言えば飛鳥時代のものに属されるが、中国北魏時代の建築物の面影も窺える。奈良時代における唐風仏寺といえば、まず奈良五条町の唐招提寺が挙げられ、その造りは中国の唐の仏寺に見られる造りで、壮麗雄大さで抜きんでるところもある。宋朝以降、鎌倉時代の仏教寺院にも構造上、不必要な材料が加えられ、細部にまで色とりどりの細工がなされている。これは円覚寺舎利殿に代表される。
唐風からの影響が顕著な一方、日本の建物はその独自の風土への転身をもみせた。平安時代(794—1192)、日本の仏教建築は徐々に和式に備えられ、例えば貴族の屋敷では正殿が設けられ、平安時代後期では中国の宮廷構造を模倣するものも多かったゆえ、屋内は密室(色絵の壁によって包まれ、居間や収納に用いられた部屋)を除けば、他の部屋では一切間仕切りされることはなかった。ただ必要と思われる時にのみ、屛風か帷幕かで隔たられるとのことである。そのほか、正堂、屋根裏、竹簾、屛風や帳などの家具の備わった家は室礼とも呼ばれていた。
鎌倉時代(1185—1333)から室町時代(1336—1573)まで、地方勢力の台頭が激しく、宮殿、神社、寺院あるいは貴族の住宅などが広く国中に分布するようになる。この時期における日本建築は中国からの影響を受けつつ、また日本独自の文化的特徴を併せ持っていた。その両者の交わるところから出現したのは、床を覆うたたみ、天井の隔たり、縁柱、押し板、不揃いの棚や雨戸などの書院式建築風である。というのはそれで床は他の部屋より一段と上がるようになり、その上で対の香炉、燭台、花瓶が置かれるのも、中国建築様式からの影響の現れであろう。
镰仓时代(1185—1333)到室町时代(1336—1573),地方势力明显兴盛起来,宫殿、神社和寺庙、贵族住宅逐渐遍布全国。此时的日本建筑,既受中国建筑的影响,又同时具有日本本土特色,二者交织融合,地面上铺榻榻米,隔上天花板,支起方柱、压板,安上错落书架,加上飘窗等,书院式的建筑风格也渐渐形成。这种和式地板比其他普通房间的地板略高,在和式榻榻米上摆放、装饰两两成对的香炉、烛台和花瓶,这又显而易见仍受中国建筑风格的影响。
日本文化在安土桃山时代真正进入近世,首次出现了雄壮的城堡式建筑风格,书院式建筑风格也得到进一步整饬。与此同时,从中国传入的茶文化逐渐盛行,随着禅宗的传播扩大,茶道慢慢成立。茶道成为反映日本审美的独特综合艺术,影响了书院式建筑,茶室开始普及。此后,数奇屋造(茶室)的住宅风格逐渐诞生。所谓的“数奇”读音和日语“好き”一样,即喜欢和歌、茶道和插花等风雅习俗,意思是“好きに任せて作った家”,即随喜好而摆设建成的屋子。而这“数奇”仍是从中国传到日本的,这种风格的隔断既可以作为房间的间壁适用,也可以把它当成住宅的外墙适用。
日本桃山时代京都醍醐寺唐门,福清黄檗文化促进会供稿
京都醍醐寺唐門 日本桃山時代 (福清黄檗文化促進会提供)
安土桃山時代の近世に入り、やがて壮大な城式建築が誕生し、書院式の建築様式も一段と整備されるようになった。それと同時に、中国伝来の茶文化が盛んになるや、禅宗からの普及に伴い、飲み分けて茶の品種や産地などを推測するという「闘茶」の風潮を機に茶道が成立した。茶道が日本の美意識を反映する独特な総合芸術として、書院式建築様式に影響を与え、これにより茶室が普及し始めた。後程、数奇屋造り(茶室)の住宅様式が発生する。所謂「数奇」というのは、日本語の「好き」と同じ発音であることから、歌道、茶道、生花などの風流の道を好んで「好きに任せて作った家」とのことから来ている。然も「数奇」というのはやはり中国伝来のもので、「数奇」で使われる間仕切りも、部屋の間壁として適用することもあれば、住宅の外壁として適用することもある。
この後、明朝から東伝されてきた仏寺の建築技術はまた、室町、桃山時代の建築工芸に影響を及ぼした。室町の東福寺の山門の上部に施されている模様がない無地の装飾には中国北部の荒漠な風格が見てとれる。また桃山時代の醍醐寺勾欄に見られる金銅装飾などの華麗なる彫塑は中国華南の明快で浪漫ある風格が見てとれる。(廖深基、2020)
当然ながら、日本に影響を与えたのは仏教建築様式と唐の建築風格をおいてほかならない。日本の古都であった平城京は唐の長安(現陝西省西安市)を模倣して建てられたものである。その平城京をはじめとして、西暦六世紀半ば、仏教と共に伝来した中国の伝統的建築芸術によって、日本の建築技術も大きい進歩を遂げることができたのである。日本は中国建築工芸を学びつつ、日本式建築や唐式建築の他、例えば住宅面では、新田造り、松院造りや草山式茶室、寿喜屋など、漸く独自の建築スタイルを確立した。中国建築の弘大に比べて、日本建築は精巧で優雅さが重視され、建築の構造美学や材料の質感が工夫される。その他、日本建築は自然を再現する美意識や技術を重んじる。
此后,明代佛寺建筑技艺之东传,也对室町、桃山时代的日本建筑技术产生影响,如室町东福寺山门上层的素色装饰颇能表现出我国华北雄旷荒漠之风。又如桃山醍醐寺勾栏上的金铜装饰等极其华丽的雕塑,则表现出我国华南明快浪漫之风。(廖深基,2020)
当然,对日本影响最大的是佛教建筑风格和唐代建筑风格。日本古都平城京就是在模仿唐朝长安(今陕西省西安市)的基础上建造而成的。以仿长安的平城京为代表,公元六世纪中叶,随着佛教的传入,中国传统建筑艺术传入日本,日本的建筑技术也因此有了长足的进步。日本在学习中国建筑风格的同时,通过交织自己独特的文化,逐渐建立了具有自己特色的日式建筑和唐式建筑,日本独有的新田造、松院造等风格,草山式茶室、寿喜屋等日式风格建筑逐渐定型。与宏伟的中国建筑相比,日本建筑精巧优雅,善于表现建筑的结构美和材料的质感。此外,日本建筑强调再现自然之美的理念和技术。
日本黄檗建筑风格,更是受中国明朝后期福建建筑的影响而形成的江户时代新建筑风格。福建的建筑风格和技术因地区而异。日本的黄檗建筑,不是受一种建筑风格和技术的影响,而是受中国四大地区建筑的影响。此外,日本黄檗建筑和工艺部分也是日本禅宗文化和本土建筑风格的折衷。从长崎四福寺的结构形式和细节中,可以看到长崎兴福寺和崇福寺是从中国直接进口的。而建于观文元年(1661)的京都万福寺,被认为是江户时代日本木匠模仿长崎寺庙的建筑。换句话说,如果长崎的兴福寺和崇福寺被称为“黄檗建筑风格”,那么京都的万福寺则被认为是仿照长崎寺庙的“仿黄檗建筑风格”。或者,也可以说是“仿明风建筑”。事实上,这两种新风格有明显区别。例如,“黄檗建筑”是一个没有天花板的装饰小屋,而“仿黄檗建筑”有天花板,并会建造一个户外小屋。此外,两者还有是否在支柱上使用编织物等差异。如果说,此前的日本建筑基本定位于中国建筑文化的延伸,那么,“黄檗建筑风格”则已经属于日本本土的建筑文化,也可以说它属于受到中国影响的日本技术和设计。
福建建筑因地域不同而有很大差异。部分福建明代建筑中保留了宋代的细节,但也有不少修缮历史。而清代的建筑风格则以雄伟的设计为主流。日本的黄檗建筑不仅受福建各地建筑的影响,还受福建以外的江浙建筑影响。长崎的四福寺中,兴福寺、崇福寺等的“黄檗样式”基本属于中国建筑文化,万福寺、圣福寺等的“仿黄檗风格”则属于日本建筑文化。
その上、日本における黄檗宗の建築スタイルは、中国明朝後期の福建省建築の影響を受けてできた新たな建築スタイルである。福建省の建築スタイルや技術は地域によって異なる面もあって、日本の黄檗建築はその中のどれか一つを鵜吞みするのではなく、中国の4つの主要な地域の影響を同時に受けたのである。また、日本の黄檗建築や工芸品は日本禅宗と日本スタイルの両方を融合させている。長崎の四福寺の構造様式や細部の造りからすれば、長崎の興福寺や崇福寺は中国から直接輸入されていることが分かる。一方、観文元年(1661)に建てられたという京都萬福寺は江戸時代に日本の大工が長崎の寺院を模倣してできたものと考えられている。換言すれば、長崎の興福寺や崇福寺は「黄檗建築スタイル」と呼ばれるのであれば、長崎仏寺を学んでできた京都の萬福寺は「擬似黄檗建築スタイル」ということになる。あるいは、おおまかに「擬似明朝スタイル」と呼ぶこともできるのではないか。実際、この二つの新しいスタイルを明確に区別することができる。例えば、「黄檗建築スタイル」というのは天井が飾られていない小屋のことで、「擬似黄檗建築スタイル」は天井が飾られたもので、戸外に小屋が付けられている。その他、支柱に編み物が使用されるかなどの差異もある。
日本京都万福寺局部,福清黄檗文化促进会供稿
日本京都万福寺局部 (福清黄檗文化促進会提供)
就伽蓝的配置而言,同属黄檗宗寺院的长崎三福寺,由于建在市内近郊的丘陵上,受到地形的限制,故此三座寺院的伽蓝配置并未臻整然之境。就其中的福济寺而言,其伽蓝配置是以青莲堂、中门及大雄宝殿、前堂殿宇分列在库房两侧,并以回廊连系;崇福寺则以大雄宝殿为中心,第一峰门、护法堂、钟楼、鼓楼等并列其前,祠堂、开山堂、妈祖堂排列于后。至于“方丈”,则位于大雄宝殿的右方;兴福寺是以大雄宝殿为中心,左右建关帝堂与“方丈”。由此可知,日本佛教建筑的伽蓝配置,呈现明代整然之风者,尚须等到隐元在京都创建黄檗万福寺之时。
京都黄檗山万福寺,沿袭福清万福寺的明清式寺院布局,其中山门、天王殿、大雄宝殿以及法堂等建筑,于中央中轴线排列,其右侧有钟楼、伽蓝堂、斋堂、知客寮及东方丈;左侧则有鼓楼、祖师堂、禅堂、祠堂及西方丈,故左右殿宇的配置颇为对称。此种配置上的均齐美,便是明代伽蓝的一大特色。
日本京都万福寺伽蓝堂,福清黄檗文化促进会供稿
伽藍堂 京都万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
福建省の建築は地域によって大きな違いがある。明朝では細部に宋の細工が残されるが、修繕も多いため、スタイルの変貌が大きいらしい。清朝では壮大な設計を主とする建築スタイルである。日本の黄檗建築は福建省各地建築の影響を受けているほか、江浙の建築からの影響もある。また、日本の黄檗建築は部分的に日本禅宗と日本スタイルの両方を融合させている。長崎にある四福寺の黄檗式建築は、擬似西洋建築から見ると、崇福寺などの「黄檗建築スタイル」は中国建築に属されるが、聖福寺などの「擬似黄檗建築スタイル」は日本建築に属される。しかし、これらの建築は同じく日本で造られただけに、技術や設計などがお互いに影響するのも当然と言えるのだ ろう。
江戸初期の仏教建築となると、その前の贅沢で華麗な余風を踏襲しつつも、改進せずに洗練さに欠けた卑俗なものになった。その中期に至って、日本に渡った隠元の開宗により東伝された黄檗宗の仏教建築や彫塑は明朝技法の影響で、それまでの華麗卑俗な雰囲気を一変させ、江戸の仏教建築において異彩を放つようになり、日本仏教的建築の特徴的なものになっていた。
伽藍の配置からいうと、黄檗宗に属する長崎の三福寺は、市内近郊の丘陵地帯に位置するため、地形に制限され、未だ完備したとは言い難いが、その中の福済寺では、伽藍の配置は青蓮堂、中門及び大雄宝殿、前堂殿宇は奥院の両側に配置され、回廊で繋がれている。崇福寺は大雄宝殿を中心に、第一峰門、護法堂、鐘楼、鼓楼が前置され、祠堂、開山堂、媽祖堂がその後を占める。「方丈」なら、大雄宝殿の右側に位置している。興福寺は大雄宝殿を中心に、その左右に関帝堂と「方丈」を建ててある。ということは、日本の仏教建築における伽藍の配置が明の整然したものに到達するのは、隠元が京都で黄檗万福寺を開いてからだということがわかる。
京都万福寺钟楼,福清黄檗文化促进会供稿
鐘楼 京都万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
就其细部而言,江户时代佛寺的门扉,是将门面完全涂以黑漆,并于其中一侧整齐地钉上镶有“七宝”的金制装饰或画“秋七草”等泥金画,以表现极其豪华的风格。宇治万福寺的大门呈内开,在它前面,高度约为出入口之半的小门则呈外开。门上绘有合叶、蒿座等浅淡的素色图样,表现出中国佛寺建筑庄严雄浑之趣。此外,又以圆窗作采光之用,此乃江户以前的伽蓝建筑所未有者。至其在每座建筑物悬挂隐元、木庵、高泉等人所题匾额与对联的中国式传统建筑风格,也是江户佛寺建筑的一大特色。(廖深基,2020)
穿过山门,两排巨松并列之间铺设着纵行整齐的菱形石板参道,呈现出黄檗的严整纪律。此外,各幢建筑都以许多回廊、栏杆为连接,构成回环牵连繁复之建筑群结构之美。至如总门的特殊形状;山门、本殿大栋上所镶嵌的宝珠等装饰;法堂前的明风拜堂及方形础盘、勾栏的特殊形状等,处处异于江户以前之伽蓝,而呈现纯为明代风格的建造手法与配置。因此,一踏入宇治黄檗山门,便使人恍如置身于中国禅院。
京都黄檗山の萬福寺は、福清萬福寺の明清式寺院の配置法を踏襲し、山門、天王殿、大雄宝殿及び法堂などの建築は中央中軸線に沿って配列され、右側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、知客寮および東方丈があり、左側に鼓楼、祖師堂、禅堂、祠堂及び西方丈がある。左右の対称が取れた配置がなされている。この配置上の均斉美は、明の伽藍の一大特色である。
その細部からいうと、江戸時代の仏寺の門扉は黒塗りにされ、その中の片側は均斉に七宝のはめられた金制装飾や「秋七草」の泥金絵が釘づけられ、豪華な雰囲気を醸し出している。宇治萬福寺の門扉は内向きで、その前にある高さ半分程度の小門は外向きで開く。その上では合葉、藁座などの平素な模様が描かれており、中国仏教建築の荘厳で雄大な趣きが現れている。そのほか、圓窓で日射を採るのは江戸以前の伽藍建築において前例はなかった。隠元、木庵、高泉などの名筆が題した額や対聯を懸けると言った中国式伝統建築スタイルが見られるのも、江戸の仏教建築の一大特徴である。
京都万福寺连接回廊,福清黄檗文化促进会供稿
回廊 京都万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
今天,日本早已从学习中国建筑风格转向了创造独特日式建筑风格的道路。日本传统建筑和室内装饰的独特而自然的风格和形式,建筑方法和细节的处理,以及生活在其中的哲学,对现代建筑和室内环境的设计产生了深远的影响。
而在二十一世纪的当下,中国的千年古刹万福寺也迎来了盛世重光日。2016年福清黄檗山万福寺得到社会各界的广泛支持,历时三年时间,于2019年11月重建完成。万福寺位于风景秀丽的黄檗山,群山之中有十五座峰绕成一朵莲花状,而寺院就位于此莲花花蕊处。周峰云雾缭绕,层峦叠翠,溪水潺潺。
重建后的万福寺,总体占地面积达到百余亩,全部采用唐代寺院的建筑风格,力求彰显祖庭寺庙的恢宏庄严。建筑主体采用印尼菠萝格纯木材料,显现出厚重庄重的古典气象。全寺采用五重寺院的传统布局,其中居于中轴线的是内山门、天王殿、大雄宝殿、观音殿、法堂,左右两边依次是钟楼、鼓楼、伽蓝殿、祖师殿、药师殿、往生殿,禅堂、斋堂、方丈楼、僧寮等。所有佛菩萨、护法神、祖师等人物造像均为纯铜材质,透露出庄严肃穆,将传统文化与现代技术完美融合。
京都万福寺花园,福清黄檗文化促进会供稿
庭園 京都万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
山門を潜り抜け、連ねる巨松の間に挟まれる菱形の石板参道の整然たる模様は黄檗宗の厳正な紀律を語るようである。その他、大量の建築は回廊や欄干によって繋がれ、曲がりくねった複雑な様相を呈しながら独特な構造美を刻むような仕上がりである。総門の独特な形と言えば、山門、本殿大棟にはめられた宝珠と言った装飾、法堂前の明風拝堂や方形礎盤、勾欄の独特な様式など、所々に江戸以前とは異なり、明朝風の建築手法や配置によるものである。そのためか宇治黄檗山門に踏み入れるなり、中国の禅院に身を置いたような恍惚感を覚える人もいるだろう。
今日の日本建築文化は中国建築スタイルを学ぶことから始まり、特に唐からの影響をうけて独自の建築スタイルを確立する道を歩んできた。日本伝統建築や室内装飾の独特かつ自然なスタイルや様式もまた、建築法、細部の処理、その中での生活観などは、現代の建築や室内環境のデザインに深遠な影響を残している。
21世紀の今、中国の千年古刹の古萬福寺も再度盛況の日を迎える。2016年福清黄檗山萬福寺は社会各界の支持を得て、三年間をかけ2019年11月に再建された。当寺は景色の美しい黄檗山にあり、山に15の峰があり、どれも蓮の形をしており、寺院はちょうどこの蓮の花の蕊に位置している。そこに雲霧が立ち込め,山々が青々としていて,渓水がさらさらと流れて いく。
再建を迎えた萬福寺は百畝余りを占め、全て唐朝仏寺の建築スタイルを採ったのは、祖庭に相応しく恢弘かつ荘厳であることを意識しているからである。主体に使われているのはインドネシア産の木材で、重厚で荘厳な雰囲気を見せている。伝統的な寺院の配置(レイアウト)を採用し、中軸線は内山門、天王殿、大雄宝殿、観音殿、法堂、左右は順に鐘楼、鼓楼、伽藍殿、祖師殿、薬師殿、往生殿、禅堂、斎堂、方丈楼、僧寮などである。すべての
重建后的福清黄檗山万福寺,林秋明摄
再建後の福清黄檗山万福寺 (林秋明撮影)
黄檗逢盛世,万福展新颜,这座历经沧桑的千年古刹,乘着海丝文化的东风,将继续为传播弘扬黄檗文化,赓续中华五千年文化,为进一步加深两国民间的文化交流发挥着重要作用。