文人书法与黄檗三笔

三、文人书法与黄檗三笔

黄檗文化东传的明清之际,不仅是文学发展转折的重要时期,也是传统书法和绘画发展的变革时代。

明代社会的建立,是推翻当时被视为异族的蒙古人的统治,因此处处体现出一种以文化正统自居的意识,在书法上强调魏晋时期王羲之、王献之、钟繇书法的古雅端庄、飘逸俊秀,也重视唐代欧阳询、褚遂良、颜真卿的技法严谨、笔画庄重的楷书正统,同时认为宋代以后的书法,包括苏轼、黄庭坚、米芾等人的行书,都是变乱传统,一代不如一代。这其中有唐代国力强盛、宋代积贫积弱的历史认知,也有明代前期专制强化导致社会文化普遍体现出墨守成规、一成不变的现实因素影响。

此地唐津不是唐、唐津昔日把名揚。

唐山唐水非唐境、唐樹唐雲非唐郡。

唐日唐月同唐突、唐時唐節光陰速。

唐津除夜今宵延、明日唐津又一年。

詩のすべての文には「唐」という言葉があり、「唐」は中国の故郷を表し、故郷のあらゆるものを常に懐かしんでいることが書かれてある。(浦江政協文史資料委員会、2006)

その他の黄檗詩人

上文に述べた5人の重要な黄檗詩人のほか、黄檗宗には多くの優秀な詩人が大勢現れ、中国僧侶の独立性易、南源性派、独耀性日や、日本僧侶の月潭道澄、百拙元養などがいる。以下、一部だけ紹介する。

独立性易(1596—1672)。台湾の学者徐興慶が編纂した『天間老人全集』に独立性易の詩文が収められている。独立性易は生涯2つの重要なターニングポイントがあり、1つは明清の時代鼎革で、1つは渡日だった。彼の初期の作品の多くは悲しみと情熱に満ちていた。例えば以下の詩を見てみよう。

故国愁思客裏魂、一身徒泣老乾坤。

十年胡馬英雄淚、血濺江南草木髡。

一身盲聵日癡癡、老大年過涙両垂。

日月竟沈終古夕、望中明發在何時。

身処難逢恨処深、十年難過恨驚心。

誰扶日月還双闕、望眼明離直至今。

野哭時時放独行、江南血戦未銷兵。

生憎老眼空双盼、指顧河湟收両京。

(『感懷』)

一つ一つの文から、異国に身を置いて家を失ったことの痛みが感じられる。独立性易は日本黄檗宗に参じたあと、生活がだんだんと良くなり、詩には山水のような世界で楽しく暮らしていると書いてある。例えば『溪上吟』に「山山排翠插天高,遠水拖雲接海濤。十裏放舟随去住,一時遊興快吾曹。」という詩がある。国が破れて家が滅た憎しみを捨て、友達と一緒に旅をし景色を楽しんで、喜びを感じたことが書かれてある。(廖肇亨、2016)

当然,具体创作中,也有一些艺术大家,能将传统精神与艺术家的个性相结合,创作出不俗的作品,例如都出生于苏州吴县的“江南四大才子”之中的祝枝山、文徵明。他们的书法,既具有古代书法的古朴端庄,又富有飘逸洒脱的趣味。到了明朝中后期,一些文人因为人生遭际的惨痛,加之明代社会逐渐走向变乱的社会背景,以及王阳明心学的影响,开始在书画艺术中,表达艺术家独特的个性,追求狂放不羁的心灵自由。其中较早期的代表人物,就有绍兴奇人徐渭及其书法绘画。

徐渭之后,晚明书法家越来越多地加入到这种创新求奇的创作行列之中,如福建晋江人张瑞图(1570—1644)、绍兴人倪元璐(1594—1644),都崇尚创新,是徐渭以来新奇书法的典型代表。他们的书法创作,也和徐渭一样,体现出不遵从前人传统、发挥内心感受的特征。

这些书法,结构大开大合,运笔轻重自如,笔锋曲折变化,墨法灵活怪奇,看似畸形的字体中,又有一种一气呵成的生命气势。倪元璐的儿子倪后瞻曾这样评价父亲的书法:“不肯学习前人,专注于推陈出新,笔锋张扬显露,令人惊叫奇绝。”(崔尔平,2011)

此外还有福建籍著名书法家黄道周,也继续沿着这条艺术之路前行,而更多融合集大成的意味。他的书法,兼学汉代隶书、王羲之、钟繇、苏轼,既具有古代书法的结构谨严、刚健雄浑,又有苏轼、黄庭坚等人的宋代书法张扬的撇笔捺笔,笔法回环曲绕,显示出怪奇不羁、刚直不阿的风格和人格特质。

晚明以来注重表现内心孤傲不羁精神品质的书法发展取向直至明清之际的傅山,不论是在艺术创作上还是理论自觉上,都达到了一个高峰。傅山(1607—1684),原名傅鼎臣,字青竹,山西太原人,明末清初思想家、书法家、医学家。民国学者梁启超将他与顾炎武、黄宗羲、王夫之、李颙、颜元并称为“清初六大师”,可见他的历史地位。傅山最有特色的书法,是他自创的草篆,融合古器物金文、大篆、小篆和魏晋以后的草书,多种字体相互杂糅,形成奇特的书法字体。他的草书,往往中锋运笔,饱蘸墨汁,笔法曲折跌宕、纵横开阖。

南源性派(1631—1692)。黄檗僧侶の中で多くの者は詩文に長けでた。そのうち、南源の詩歌はレベルが高いことで評判されて、当時は「詩は南源、文は高泉」と言われているように、南源性派が詩の創作が得意で、一方高泉性潡が文の創作が上手く、二人とも隠元に信頼され称賛されている。南源性派は日本に30年滞在し、詩集『芝林集』『蔵林集』が伝えられ、その中には日本の富士山の風景も記載されている。例えば、『詠富士峰』である。

抱得孤標出白雲,満頭猶帯雪雰雰。時清幸免朝明主,宦冷応教笑広文。

常吐珠光連絶頂,卻忘身世対斜曛。魏巍卓立扶桑国,到底難将野火焚。

第1、2句には富士山の独立した揺るぎない精神を強調し、第3、4句には中国の政治の不安定のため日本へ渡ったと暗喩した。第7、8句の「野火焚」は清王朝に反対し明王朝を復活する政治的立場を示している。

南源性派は朝鮮の詩人とも交流し、朝鮮通信使と2回接したことがある。日本にいる朝鮮通信使は、日常の外交事務のほかに、日本の知識人とよく交流していた。朝鮮使節は明王朝が滅亡した後も、明代の衣装を着て、明を追慕し、清を拒んだ。異国にいる南源禅師は彼らの態度に感銘を受けて、『高麗入貢』の詩を創作し、「衣冠半属明朝口、族氏原為商代親」と述べた。南源性派の反清親日の政治的立場と、朝鮮の使節を認めて評価していたことがわかる。南源のように、多くの黄檗禅僧が詩を借りて、外交活動を行い、お互いの政治的立場を表明し、詩歌などの文化活動で東アジア諸国の使節と交流していた。これが江戸時代に黄檗文化が幕府に信頼され重用された大きな原因の一つなのかもしれない。(廖肇亨、2017)

要するに、黄檗僧侶の詩には主に3つのテーマがあり、1つ目は明清時代交替に対する関心、2つ目は日本に渡って異文化を受け入れる心、3つ目は僧侶の修行と悟りである。黄檗僧たちは文芸性に富んでおり、彼らの才能は日本の僧侶の漢詩文創作への熱意を引き起こした。黄檗僧侶の詩は影響力が大きいことから、東アジアの漢詩史上において重要な位置づけにあると言えよう。

傅山的书法表现出更为突出的古朴又畸变的特征,完全冲破魏晋隋唐以来书法的审美规范。理论上,傅山提出了著名的“宁拙毋巧,宁丑毋媚”的艺术主张,宁可追求拙、丑,也不要显得精巧、妩媚,实际上是一种接近于儿童书写风格的质朴、天真,其目的是体现出一种坚决不与清王朝合作的遗民态度,展现出他凛然耿介的品格和气节。(杨亮,2015)

这些风格迥异的书法创作,归根到底,都在表达文人坚守自我内心纯净、自然、不与流俗合污的名节品德。这是黄檗禅僧书法艺术形成的时代和艺术史背景,是理解黄檗禅僧书法艺术以及思想人格特质的重要前提。同样作为明朝遗民,黄檗禅僧正是在这样的艺术氛围中,形成了他们与同时代人相近又有个性特征的书法理论和创作。同时,晚明以来的书法艺术,创作活动主体是江南文人,尤其是苏州吴县一代的文人,以及福建泉州、漳州等地的文人。明清时期的江南,是文人文化的中心,泉州、漳州则是海上丝绸之路的重要发源地。由此可见,黄檗禅僧的书画艺术,正是江南文人文化艺术和海丝文化的产物,隐元等人的书法艺术,不仅仅是单纯的艺术习尚,也是明清之际遗民文化的延续和体现,是中华传统文化至明清之际达到鼎盛成熟形态的一部分和典型代表。“黄檗三笔”书法艺术的出现形成,正是这一历史过程和文化积淀的产物。

从宋代文人书法到明代书法,出于一种超越晋代和唐字帖书法模式的需要,书法家们逐渐把目光转向了金石碑刻的篆书和隶书书法样式,寻求一种更为久远的“古拙”的风格美感,原本一统天下的传统书法“帖学”被打破,逐渐形成了具有文人特征的明末清初书法新样式。“黄檗三笔”等人,也正是在时代精神的影响下,形成了自己的书法风格。

“黄檗三笔”,即隐元隆琦、木庵性瑫、即非如一,三人是黄檗文化书法成就之代表,风格各具特色,又都展现了明代文人书法的精神特征,给江户时代的日本书坛带去了新的书法风貌和艺术体验,对江户时代的日本书法发展,产生了很大影响。

日本的“唐样”书法,起于飞鸟时代,随着遣唐使的兴盛,至平安时代初期,大约相当于中国中晚唐时期达到鼎盛,出现了“平安三笔”——空海(774—835)、嵯峨天皇(786—842)、橘逸势(782—842)为代表的一代书法家。“唐样”书法的第二次鼎盛期,正是在江户时代的“黄檗三笔”的影响下形成的。如果说第一次“唐样”书法高潮,主要是从中国带去了唐代颜真卿等人的书法而形成,那么,第二次高潮则主要是黄檗禅僧带去的晚明书法影响的产物。

三、文人書道と黄檗三筆

黄檗文化が東に広まった明清時代は、文学発展の重要なターニングポイントであるだけでなく、伝統的な書道と絵画の発展における変革の時期でもあった。

明代社会の確立は、当時異民族と見なされていたモンゴル人の支配を覆すもので、そのため至る所に文化的正統性を自任していた。書道では魏晋時代の王羲之、王献之、鐘繇書道の端正さと飄逸さが強調され、唐代の欧陽詢、褚遂良、顔真卿の正統な楷書の清峻で均整のとれた書風が重視された。同時に蘇軾、黄庭堅、米芾らの行書を含めた宋代以降の書道は、伝統が乱れてしまい、徐々にレベルが落ちていいた。その中には、唐王朝が強くて繁栄していたのに対し、宋王朝は貧弱であったという歴史的現実と、明代初期の独裁政治の強化で社会文化は一般的にルールに縛られていたという現実的な要因が影響しているであろう。

もちろん、特定の創作には、伝統精神と芸術家の個性をうまく結びつけて、優れた作品を作れた芸術家もいる。例えば、蘇州呉県出身の「江南四大才子」の祝枝山、文徴明だ。彼らの書道は、シンプルでありながら古代の書道の端正さがあり、また飄逸で洒落っ気に富んでいる。明代中期から後期にかけて、一部の文人は悲惨な境遇と、次第に混乱となった明王朝と王陽明心学の影響もあり、彼らは書画芸術を通して独特な個性を表現し、心の自由奔放を追求し始めた。そのなかで初期の代表者として紹興出身の徐渭が挙げられる。

徐渭の後、明代後期の書家である福建晋江出身の張瑞図(1570—1644)、浙江紹興出身の倪元璐(1594—1644)等、ますます多くの者たちがこのような革新的で奇抜な創作を始めた。彼らは革新を推奨して、徐渭以来の奇抜な書風の代表者である。彼らの書道の創作も徐渭と同じように、先人の伝統に従わず、内面の感情を表現している。

これらの作品は、構成が大胆に行間をとり、筆致が自由で落ち着いて、変化に富んだ筆と墨の扱いに独自の新しい手法があり、一見変わった書体の中から、作品の持つ気韻と生命の勢いがみられる。倪元璐の息子倪後瞻は、かつて父親の書道について「前人に学ぼうとせず、新しいものを創作することに専念し、筆鋒が目立ち、驚くほど素晴らしい」とコメントした。(崔爾平、2011)

喜多元规1664年作《隐元、木庵、即非像》,福清黄檗文化促进会供稿

隠元、木庵、即非像 喜多元規1664年作 (福清黄檗文化促進会提供)

また、福建出身の有名な書道家黄道周も、この芸術の道に沿って前進し続け、それを集大成した。彼の書道は漢代の隷書、王羲之、鐘繇、蘇軾を参考し、古代の書道の構成の厳格さと力強さを持っているだけでなく、蘇軾や黄庭堅などその他の宋代書道の大胆な左払いと右払い、それと変化に富んだ筆法もある。それは彼の束縛を受けず、剛直な人格を示している。

明代後期以降は心の傲慢と自由への追求を表現するという書道の発展方向を重視し、明清の際の傅山までも芸術の創作、理論においてもピークに達していた。傅山(1607—1684)、本名は傅鼎臣、字青竹、山西太原出身であり、明末清初の思想家、能書家、医学家であった。中華民国の学者梁啓超は彼を顧炎武、黄宗羲、王夫之、李顒、顔元とともに「清初六大師」と呼んだことから、彼の歴史的地位がうかがえる。傅山の最も特徴的な書道は、彼が古器物の金文、大篆、小篆と魏晋以降の草書を融合させ、多種の書体を組み合わせた奇抜な書体を形成した草篆である。彼の草書は送筆に墨をたっぷりつけ、筆法が曲がりくねっており、縦横に開けているのが大きな特徴である。

傅山の書道は更に際立った古風で奇異な特徴を示し、魏晋隋唐以来の書道の審美規範を完全に打ち破った。理論について、傅山は有名な「寧拙毋巧,寧醜毋媚」という主張を提出し、精巧で魅力的に見えるよりも、不器用で醜いほうがいいと主張し、これは実際は子供の書き方に近い素朴で無邪気な書風である。その目的は、清王朝に断固として媚びない遺民の姿勢と凛とした品格と気節を示すことである。(楊亮、2015)

これらの特色ある書道創作は、結局、文人が自分の心の純粋さと自然への執着、世俗に流されないという品格を守っていることを表現している。これは黄檗僧侶の書道芸術形成の時代背景であり、黄檗僧侶の書道芸術及び思想や個性を理解する上で重要な前提である。同じく明の遺民として、黄檗僧侶はこのような芸術的雰囲気の中でこそ、同時代の似かよった個性的な書風と理論が形成されたのである。同時に、明代後期以来の書道芸術の創作の主体は江南文人であり、特に蘇州呉県あたりの文人、及び福建泉州、漳州などの文人である。明清時代の江南は文人文化の中心であり、泉州と漳州は海上シルクロードの重要な発祥地であった。このことから、黄檗僧侶の書画芸術は、江南文人文化芸術と海上シルクロード文化の産物であり、隠元らの書道芸術は単純な芸術実践だけでなく、明清の際の遺民文化の継続と体現であり、明清の際に最盛成熟期に達した中国伝統文化の一部の典型的な代表でもある。「黄檗三筆」書道芸術の出現と形成は、まさにこの歴史過程と文化的蓄積の産物である。

隐元隆琦草书,福清黄檗文化促进会供稿

隠元隆琦草書 (福清黄檗文化促進会提供)

宋代の文人能書家から明代の能書家まで、晋代と唐代の法帖を超える物が求められたことから、次第に金石碑刻の篆書と隷書の様式に注目するようになった。これにより古い「古拙」のスタイルを求め、かつて書道領域を支配していた伝統的な書道「帖学」が崩壊し、文人の特徴を備えた明末清初の新しい書道が徐々に形成された。「黄檗三筆」なども、時代的精神の影響で独自の書風を形成している。

黄檗文化の書道の成果は、隠元隆琦、木庵性瑫、即非如一という師匠と弟子の3人を代表として、3人の書風はそれぞれ独自の特徴を持ちながら、明代文人の書道の精神の特徴を示している。彼らは江戸時代の日本の書道界に新しい書道と芸術をもたらし、江戸時代の書道の発展に大きな影響を与えたため、当時は「黄檗三筆」と呼ばれていた。

日本の「唐様」書風は飛鳥時代に始まり、遣唐使の繁栄に伴い、平安時代初期、即ち中国の唐代中後期にほぼ最盛期を迎え、「平安三筆」の空海、嵯峨天皇、橘逸勢を代表とする書家が登場した。「唐様」の書風の二回目の最盛期は、江戸時代の「黄檗三筆」の影響で形成された。第一回の「唐様」書道のピークが唐代の顔真卿らの書道が伝わって形成されたとすれば、第二回のピークは主に黄檗僧侶がもたらした明代後期の書道の影響の産物である。

隠元禅師が生活していた時代はほぼ傅山と同じ時期であり、当時の有名な書道家、同じく福建出身の張瑞図、黄道周らと交流していた。隠元は張瑞図と詩を作り唱和するだけでなく、黄道周が断食して明王朝に殉じたとき、隠元は詩を6首も作り、敬意と哀悼を表した。隠元自身であろうと、後に日本に渡った弟子たちであろうと、張瑞図の書道や絵画作品を日本に持ち込んで、お寺に保管したり、日本の友人に贈ったりして、日本の書画芸術界に真跡を提供し、一時模倣と模写の対象になっていた。

隐元禅师生活的时代,大致与傅山同时,又与当时同为福建同乡的著名书法家张瑞图、黄道周等有交往。隐元不仅与张瑞图赋诗唱和,更为著名的是,黄道周绝食以殉明王朝,隐元更是赋诗六首,表达敬意和悼念。此外,不论是隐元本人,还是后来赴日的众位弟子,都将张瑞图的书画作品带到日本,或留寺保存,或赠给日本友人,为日本书画艺术界直接带去了相关作品真迹,成为一时效仿、临摹的对象。

从书法渊源上,隐元与晚明书坛一样,都推崇宋元人的尚意品格,隐元东渡日本,还将苏轼、黄庭坚、米芾、蔡襄“宋四家”的书法字迹编订成《四家字帖》,带入日本,至今保存在日本宇治万福寺中,奉为镇寺之宝。(解小青,2011)

书法创作上,隐元工于行书,主要受晚明书法家的影响,体现出明显的晚明文人书法风格,总体上有一种雄浑、豪放的气势,体现一代名僧宽广的心灵世界和阔大率真的人格。从书法发展历程上看,他的书法也有明显的变化,东渡以前的书法,现在能看到的主要是《偶离寒岩》《付木庵源流卷》《法运东行卷》《列祖图序》等,目前保存于日本京都万福寺中,风格相对更为纤细俊秀一些,与祝枝山、文徵明的书法接近。他东渡后的书法,保存至今的作品较多,主要是各类书信、题写匾额、屏风等,字体更为肥壮圆润,运笔回环洒脱,具有苏黄书法自如洒脱的意蕴以及晚明书法质朴怪奇的特征。(马旭明,2018)

木庵禅师生活于晚明社会,他不像一般的僧人,只是借着出家,逃避现实,独善其身,而是和隐元一样,主张将儒家积极救世、关心百姓的仁爱之心,与佛家救苦救难、普度众生的慈悲之心结合起来,在民不聊生、草木皆兵的时代里,四处寻访高僧大德,参禅学法,希望找到人生解脱的真正方法,同时担负起在乱世慈悲济世、安抚人心的使命和责任。出家后的木庵,也多次返回故乡,照顾年迈的祖母,践行作为人子的孝敬之道,回报辛苦养育之恩,直到清朝顺治四年祖母苏氏离开人世。

木庵在明崇祯十一年(1638)赴浙江省海盐县金粟山广慧寺,参访了费隐通容禅师(1593—1661),学习临济宗的禅法,在费隐祖师酣畅淋漓的话头棒喝之下,最终大彻大悟,逐渐被当时的禅宗人士所知。

書道の起源について、隠元は明代後期の書道界と同様に、宋代と元代の「尚意」を推奨し、隠元は蘇軾、黄庭堅、米芾、蔡襇の「宋四家」の書道と作品を『四家字帖』に編纂し日本に持っていった。今でも日本の宇治万福寺に保存され、万福寺の宝物とされている。(解小青、2011)

書道の創作の上で、隠元は行書が得意で、主に明代後期の書家の影響を受けて、明らかな明代後期の文人の書風が見られる。全体的に筆致が雄渾で豪放で、一代の名僧の広い精神世界と率直な人格を体現している。書道の発展過程から見て、彼の書道も明らかな変化があり、渡日する前の作品で今でも見られるのは主に『偶离寒岩』『付木庵源流巻』『法運東行巻』『列祖図序』などで、現在は日本京都万福寺に保存されている。これらの作品は比較的繊細で美しく、祝枝山や文徴明の書風に近い。渡日してからは、現在まで作品が多く保存されており、主に各種の手紙、扁額、屏風などである。書体はさらに丸みがあって太くなり、筆遣いがのびやかで、蘇黄の自由でおおらかな味わいがあり、明代後期書道の素朴で奇妙な特徴を持っている。(馬旭明、2018)

木庵禅師は明代後期に暮らし、現実を避けるために出家した普通の僧侶とは違って、彼は隠元と同じように、儒学の積極的な救世や庶民への仁愛の心と、仏教の衆生を苦しみから救う慈悲の心と結びつけることを主張した。人々が安心して生活できなく、つまらぬことにびくびくする時代に、高僧を探して訪ね、禅を学んで研究し、人生を解放する真の方法を見つけようとし、同時に人々を乱世から救って人の心を落ち着かせる使命と責任を負っていた。出家後の木庵も、何度も故郷に戻り、年を取った祖母の蘇氏が清代順治四年(1647)になくなるまで世話をし、親孝行を実践し、苦労して育ててくれた恩に報いた。

木庵は明代崇禎十一年(1638)に浙江省海塩県金粟山広慧寺に赴き、費隠通容禅師(1593—1661)を訪問し、臨済宗の禅法を学び、費隠祖師の素晴らしい言葉に感動し、ようやく悟りを開き、当時の禅宗関係者に徐々に知られるようになった。

隐元隆琦书法,福清黄檗文化促进会供稿

隠元隆琦書 (福清黄檗文化促進会提供)

崇禎十七年(1644)、木庵が二度目に広慧寺で費隠禅師を訪れた時、首座弟子である隠元隆琦禅師と出会った。木庵は隠元の謙虚で素朴な人格、該博な学識に感服し、隠元のもとに弟子入りすることにした。隠元も木庵の知識と素行を高く評価し、深い友情を築いた。木庵はまた、宗教、社会、政治活動、そして日本に渡った後の一連の活動において、隠元の力強い右腕になった。順治八年(1651)、四十一歳の木庵は福清黄檗山万福寺住職に命じられ、隠元の正式な相続人となり、臨済宗第三十三世祖と称された。

儒学文化の正統なる思想と、隠元禅師に対する深い感情を持っていたため、木庵は隠元禅師が渡日した後、師の呼びかけに応じ、清朝順治十二年、即ち日本明暦元年(1655)6月に、泉州から長崎に向けて出航した。日本に渡った木庵禅師は、長崎の福済寺、摂津普門寺、京都の万福寺で隠元を継いで住職を務め、優れた弘法と管理、社交の才能を示した。

隠元が新黄檗山万福寺を創建した当初は、仏法を広めるのが難しく、規模も小さかった。木庵が住職を引き継いだ後、広く順縁を結び、仏堂を拡張するために寄付を行い、仏堂を次々に発展させていた。彼が住職を務めた十七年間(1664—1680)、大雄宝殿、天王殿、祖師堂、甘露堂、斎堂、開山堂、伽藍堂、大三門、鐘鼓楼、檀越祠など多くの楼閣と殿堂を修繕した。日本の京都の黄檗山万福寺が大きく立派になったのは、木庵の努力がないと実現できなかったと言ってもいい。万福寺はこの時期になってやっと日本の黄檗宗総本山の規模を備えたと言える。また、木庵禅師は戒律を更新し、宗派内部の管理を厳しくした。社会活動においては、木庵は4回も幕府将軍の徳川家綱を拝謁した。また、各地を回り、天皇、幕府将軍、大名、その他の貴族や役人、商人、武士、町民などのあらゆる分野の著名人を訪問した。彼は授戒会を4回主催して、受戒する人数は少ない時で数百人で、多い時で千人余りにのぼった。これは前例のないことであり、影響が非常に大きかったため、万福寺は恒久的な仏教伝戒道場の一つとなった。(山本悦心、王慧傑、2016)

木庵禅師は、典型的な士大夫文人型の禅僧で、仏法の発揚、禅寺の建設と社会活動において、扁額、題画像賛、手紙文書、碑伝記銘などを含んだ多くの詩歌、書道、絵画作品を残した。木庵は書道が上手く,特に行書に精通していた。彼が書いた楹聯、像賛の多くは行書で、運筆が竜蛇が舞い散るように自然流暢で、また雄渾で力強くい。これは非凡な経歴をした禅僧の広い心と魂と、豊かで蒼涼とした人生経験を示している。

崇祯十七年(1644),木庵第二次到广慧寺拜访费隐禅师的时候,遇到了首座弟子隐元隆琦禅师。木庵当即被隐元谦恭朴实的人格、渊深广博的学问所折服,决定拜隐元为师,隐元也对木庵的学问品行大为赞赏,由此结下深厚情谊。木庵也成为隐元此后宗教、社会、政治活动,以及东渡日本之后一系列活动的得力助手。清朝顺治八年(1651),四十一岁的木庵受命成为福清黄檗山万福寺住持,隐元的正式继承人,号称临济宗第三十三世祖。

正是由于强烈的儒家文化正统情怀,和对隐元的深厚情谊,木庵在隐元东渡之后,也随着师父的召唤,于顺治十二年,也就是日本明历元年(1655)六月,从泉州起航赴日本长崎。东渡日本的木庵禅师,先后在长崎福济寺、摄津普门寺、京都万福寺继任隐元担任住持,并表现出卓越的弘法、管理、社交才能。

隐元创建新黄檗山万福寺之初,传法艰难,规模较小,到木庵继任住持之后,广结善缘,捐资扩建佛堂殿舍,呈现出欣欣向荣的气象,他住持万福寺十七年(1664—1680),先后修建大雄宝殿、天王殿、祖师堂、甘露堂、斋堂、开山堂、伽蓝堂、大三门、钟鼓楼、檀越祠等多个楼阁殿堂,可以说,日本京都黄檗山万福寺真正形成规模气象,是在木庵的亲自推动下完成的,万福寺到这一时期才真正具备日本黄檗宗总本山的规模。此外,木庵禅师还更新教规,严格管理宗派内部。社会活动方面,木庵曾先后四次拜谒幕府将军德川家纲,又到各地拜访、请教日本社会各界名流,包括天皇、幕府将军、大名等贵族和官员,以及商人、武士、町人等,主办四次传戒会,受戒人数少则数百人,多则千余人,一时间盛况空前,影响所及,万福寺于是成为永久的佛教传戒道场之一。(山本悦心、王慧杰,2016)

木庵禅师也是典型的士大夫文人型的禅僧,在弘扬佛法,兴建禅寺、社会活动过程中,他留下了为数众多的诗歌、书法、绘画作品,包括题写匾额、题画像赞、书信文牍、碑传记铭等。木庵善书法,尤精于行书。他所题写的楹联、像赞,大多数是行书,这些书法运笔自然流畅,如龙蛇飘散,又内含雄浑苍劲的力量,透露出一个经历非凡的禅僧深广的内心灵魂和丰富苍凉的人生经历。

木庵性瑫墨迹,福清黄檗文化促进会供稿

木庵 性瑫 書 (福清黄檗文化促進会提供)

泉州开元寺藏经阁,至今珍藏有国内现存唯一的木庵禅师手书文物——东渡前所留木刻对联。楹联原来悬挂在开元寺老精舍厅门,现收藏于寺内藏经阁中,文字内容为:“鹫岭三车不离当人跬步,曹溪一指好看孤塔云中。”早在1979年12月,时任日本黄檗宗会议长的吉井鸠峰,曾率领黄檗祖庭参访团,到福清拜谒万福寺祖庭之后,又到泉州开元寺继续参观寻觅历史旧迹,当时曾见到这副对联原件,深感喜悦,特地拍照留念。该联也成为中日文化交流的珍品和象征。(何振良,2002)

木庵性瑫题诗《行吟图》,福清黄檗文化促进会供稿

木庵性瑫 『行吟図』に書き入れた詩 (福清黄檗文化促進会提供)

木庵的小字题款率性不羁的笔法,不受约束的竖笔和曲笔,有一种洒脱飞舞的力量,体现了宋元以及晚明文人书法对内在品格的重视以及禅宗书法不尚法而直达本心自性的特性。

木庵运笔的险怪、耿介深沉的笔法,正是明清之际书法尚奇守拙精神的体现。黄檗禅僧身处晚明社会,除了自我的人生经历以及禅学思想的影响,作为文人生活的“标配”,其书法的学习和艺术风格,都源自当时的书法家和书法艺术的影响。

即非如一禅师,是南宋福清理学家林希逸后裔。传说即非的母亲方氏,曾向观音祈祷生子,怀胎十月,忽然有一天梦见菩萨向她授予白莲花,随即临盆产下一子,正是后来的即非如一。即非自幼聪慧,然而不幸的是,父亲在他幼年时便外出不知所踪,此后即非一直与寡母生活在一起,侍奉左右,全心尽孝。少年时因偶然观看了乡里所演目莲救母戏,便有了强烈的出家念头。崇祯三年(1630),十五岁的即非,进入福清黄檗山万福寺,拜正住持其间的密云圆悟禅师为师,修习禅法,第二年正式出家,此后,又先后受教于新任住持费隐禅师和隐元禅师。即非初次参拜隐元时,隐元突然喝道:“如何才能大彻大悟?”即非不答话,而是随手操起棍子打了隐元一棒。隐元却也不生气,说:“你看破了。”体现了十足的临济棒喝禅法特征。

泉州開元寺蔵経閣は、中国国内に現存する唯一の木庵禅師の手書文物——渡日する前に残された木刻対聯を有する。楹聯はもともと開元寺の老精舎庁の玄関の扉に掛けられていたが、現在はお寺の蔵経閣に保管されており、内容は「鷲嶺三車不離当人跬步,曹溪一指好看孤塔雲中。」と書かれてある。早くも1979年12月に、当時日本黄檗宗会議長を務めた吉井鳩峰は、黄檗祖庭訪問団を率いて、福清に万福寺祖庭を参拝した後、泉州開元寺に行って歴史の旧跡を探し続けた。当時はこの対聯の原本を見て、喜んで記念撮影したことがある。この対聯も中日文化交流の宝物および象徴となっている。(何振良、2002)

木庵の小文字の落成款識は率直で拘束されない直筆と側筆が使われ、舞い散るような力を表現し、作品には雪の中の梅の傲骨と超然とした清らかさがある。これらの書道は宋元と明代後期の文人が書道では技に従わず内面の品格を重視し、本心と直接に繋がった特徴を示している。

その筆致の険しさ、奇妙さ、正直さと深さは、明清時代書道の「尚奇守拙」精神を具現化したものである。黄禅僧侶は明代後期の社会に深くかかわっており、自己の人生経験と禅学思想の影響を除いて、文人生活の「標準」として、書道の学習と芸術スタイルの影響はすべて、当時の書道家と書道芸術の影響に由来している。

即非如一禅師は、南宋福清出身の理学者の林希逸の子孫である。伝説によると、即非の母は、観音菩薩に子供が授かるように祈り、その後に妊娠して10カ月したある日、突然菩薩が彼女に白蓮の花を授けるという夢を見てすぐに子供が生まれた。生まれたのは即非如一であった。彼は幼い頃から頭がよかったが、不幸なことに、父が外出して以来、行方不明になり、その後彼は一人になった母と一緒に暮らし、そばで親孝行を尽くしていた。少年の頃、たまたま村で「目蓮、母を救う」という芝居を見たことで、出家の念を強く持つようになった。崇禎三年(1630)、十五歳の即非は、福清黄檗山万福寺に入り、住職を務めていた密雲円悟禅師の弟子になり修習しはじめた。翌年正式に出家し、その後、新任住職の費隠禅師と隠元禅師に教えられた。初めて隠元を参拝したときに、隠元は突然「どうすれば悟ることができるのか」と大声で問うた。即非は返事せずに、棒を手に取り隠元を殴った。隠元も怒らず、「お前はそれを見抜いた」と言った。これは臨済棒喝禅法の特徴が十分に表れている。

木庵性瑫《自题观音像》,福清黄檗文化促进会供稿

木庵性瑫 『自題観音像』 (福清黄檗文化促進会提供)

順治七年(1650)、福清万福寺の裏山で山火事が発生した。即非は相弟子と山に登って火を消したが、意外にも火に落ちて死にかけた。救出された後、彼は自分が何箇所もやけどしていることさえ気づいてなかった。彼は突然禅の思想を悟って、体の限界を捨て、心を自由へと解き放ち、またこれによって修養が更に精進して、木庵禅師と隠元禅師の重要な弟子のひとりになった。

隠元禅師が日本に渡ってから3年が経ったのち、すなわち日本明暦三年、清代順治十四年(1657)に、即非如一も長崎華僑の支援を受けて、師匠に続いて長崎崇福寺と京都万福寺に入り、木庵とともに隠元門下の首座弟子となった。寛文五年、清代康熙四年(1665)に、即非禅師は日本福岡県北九州市小倉北区で広寿山福聚寺を設立し、その法系が後に黄檗宗広寿派として知られている。

即非禅師は座禅する以外に、特に書道と絵画が好きで、地方の風土記の編纂と詩文の創作などにおいて傑出した成果をあげ、『福清県志続略』などを編纂した。

即非は行書も草書も上手で、隠元や木庵と同様に草書大字が得意である。即非の行草は、筆致が丸く拙く、勢いに変化があり、書風が奇抜で蒼力で、明代後期の書道に非常に近い。彼は有名な書家董其昌に習っていると考えられているが、傅山、王鐸らの影響を受けているようで、遺民文化の書道の特徴を持っており、時代交替とへの悲しみと怒り及び諸行無常の無力感が含まれている。同時に、臨済禅僧棒喝機鋒の不羈で垢抜けれている特徴を表現している。草書は規則に合わないように見え、宋元の文人の特徴もはっきりと出ている。特に即非の大胆な筆鋒は、唐代の書風を守らずに宋代文人の書道を提唱して内面の追求を示しているように見える。

顺治七年(1650),福清万福寺后山发生山火,即非和师兄弟一起上山救火,不慎陷于大火之中,险些丧命。被救出后,竟然还没有觉察自己身体已经多处被烧伤,由此他突然领悟到禅宗思想,放下身体皮囊的限制,达到心灵的自如解脱,由此修养更加精进,与木庵禅师一起成为隐元禅师重要弟子之一。

隐元东渡日本三年之后,也就是日本明历三年,清朝顺治十四年(1657),即非如一也在长崎华侨的资助下,追随师父先后进入长崎崇福寺和京都万福寺,与木庵同为隐元门下首座弟子。即非禅师在日教化十五年,宽文五年,即清康熙四年(1665),他在日本福冈县北九州市小仓北区,还开创了广寿山福聚寺,他的法系后来又被称为黄檗宗广寿派。

即非禅师在颂禅之余,尤好书画,并在方志编撰、诗文创作等方面,成就突出,曾编有《福清县志续略》等方志著作。

即非书法行、草兼长,与隐元和木庵一样,都擅长草书大字。即非的行草,笔力圆拙,气势断连之间,风格瑰奇苍劲,与晚明书法十分接近,一般认为他的书法师出著名书法家董其昌,但似乎又更多受到傅山、王铎等人的影响,体现出一种遗民文化书法,尚意沉雄,包含易代悲愤与世事苍茫的气息,同时,又体现出作为临济禅僧棒喝机锋的放达不羁、萧散冲和。草书看似不合规矩,又有一番保存传递宋元文人押韵的精神自觉。尤其是即非开合的浩荡笔锋,具有不守唐代书法而崇尚宋代文人书法、展现内心追求的意趣。

即非如一行书,福清黄檗文化促进会供稿

即非如一行書 (福清黄檗文化促進会提供)

以“黄檗三笔”为首的黄檗禅僧,和大批东渡扶桑的明朝文化遗民、文人士大夫,在海外传播了明清文人士大夫文化,也就是中华传统文化的核心精神品质。在思想学术、文学艺术等方面,他们对近世日本文化的发展转变,产生了重大而深远的影响,极大地推动了日本近代社会文化的转型成熟。到明治维新以后,日本社会发展成熟,其文化又成了当时处于水深火热中的中国的革命志士的“救国”参考,反过来推动了中国传统文化的自新、发展。总之,黄檗文化深深扎根于日本社会,成为中日文化交流的见证和纽带,黄檗文化的文学艺术交流,正是明清以来中日文化交流的缩影,是中日民间绵延不绝的相互学习、影响、借鉴的缩影。

即非如一行书,福清黄檗文化促进会供稿

即非如一行書 (福清黄檗文化促進会提供)