商业贸易往来
众所周知,中日两国长期以来贸易往来就不曾断绝过,长崎作为贸易中心,占有非常重要的地位。最早从七、八世纪开始,长崎就是遣唐使船的最后补给地和出发地,宋元时代,受海难影响的中国贸易船只到这里避难,因此,形成了许多私人贸易,特别是到了明代,长崎等列岛成为商人的根据地,整个十七世纪,长崎是日本向中国开放的唯一一个港口。
の人々に福祉をもたらした。
寺院僧侶もまたこうした医学に精通した明朝遺民の一部であった。例えば黄檗禅僧らもそうであるように、独立性易はその一員と数えられる。1653年に日本に渡り、書道、画道、篆刻の他、漢方医学にも精通する独立禅師は『痘診治術伝』、『痘科鍵口訣方論』などの著作を残して日本では「痘瘡治療術の祖」とまで讃えられるような存在であった。後に幕府で名を上げる儒医の高玄岱、痘瘡治療の専門家だった池田正直ないし大阪名医の北山道長などが独立禅師の嫡伝弟子に当たる。
独立性易の高弟だった池田正直が後世に残した医学著述は「生理病理図」七種と医学書六部で、とりわけ最もよく知られる『痘科健』は彼を一躍痘瘡治療の名家にした。その曽孫の池田瑞仙は独立禅師一門の治痘術を発揚せんがために、『痘科弁要』、『痘診戒草』などを編著し、より多くの日本国民が病痛の苦しみから免れるように尽力した。
『傷寒論』の日本における流布のように、中国医書がどんどん日本で刊行されるにつれて、数多くの日本医学流派は黄檗禅僧の影響を受けて、医学診療技術の創新開拓に携わるようになった。例えば古方派の形成と発展はその典型的な例であろう。古方派の祖名である古屋玄医(1628—1696)は、黄檗禅僧によって導入された明清の「経世緻用」の医学思想の影響を受けていた人物である。彼は漢籍医書を広く読み漁った上で、独立性易禅師に由来する医学思想と観点を発展させ、「貴陽賤陰」という医学上の見解を示した。古方派のもう一人の中堅人物である吉益東洞(1702—1773)の代表作『類聚方』と『方極』もまた、古典医書『金匱要略』と『傷寒論』における主要処方に対して平明な注解説明を施した。江戸時期漢方学習の入門書として最適なものであった。『傷寒論』を推奨し、その研究者でもある後藤艮山(1659—1733)の腹診研究は最初傷寒派に従っていたが、その後望、聞、問、切という漢医四診を基に「按腹」と「候背」という二つの診法を創造的に付け加え、合わせて六診法となった。前述した吉益東洞も同様に腹診法を重視していた。吉益は腹部を生命活動の根本と見なし、あらゆる症状の根源を腹部に求めた。よって診療の際にこの腹部を特に気にかけるというのが吉益の方針であった。これらすべては黄檗文化の伝来とともに日本に入り、日本医学は明清の伝統的漢医思想と診療方法の影響の下で更に進展していったのである。(邵沁、宋欣陽、2019)
尽管明朝前期实行严厉的海禁政策,所谓“片板不得下海”,但是中日两国民间对对方的物产商品,都有巨大的市场需求,因此,各类丝绸、漆器、药材、瓷器以及各种矿产、金属制品的贸易,都几乎是一本万利的,巨大的经济利润,驱使两国之间的民间商业贸易始终绵延不绝地进行着,甚至以海上武装贸易、海盗贸易的方式进行。
江户时代日本的对外关系,最大特点就是闭关锁国。自十七世纪中叶锁国起,日本人被禁止出海航行,只有中国和荷兰的商船,能够进入长崎港开展贸易往来活动。但是,随着中日两国生产力水平和科技水平的发展,经贸交流意愿变得更加迫切,日本在民间贸易往来的过程中,也积累了不少中国的社会经验,同时也逐渐意识到了闭关锁国的危害。因此,中日两国民间的贸易活动,仍然十分顽强且缓慢地发展着。(廖深基,2020)
在中日的贸易的频繁往来中,福建起着关键作用。福建与日本有着悠久的交流历史。从十二世纪开始,福建人就已经频繁渡船到日本九州地区。日本平安时代的史料《浅野群载》中留有“大宋国泉州人李充……来到贵朝”的记录。在这史料中详细记载着,十二世纪初,泉州商人李充乘上自己的商船曾三度访问北九州并进行交易,这是详细的记录。十二世纪后泉州就已经在外贸的兴起中繁荣起来。马可·波罗称泉州为刺桐,把它称为东方第一港。从泉州出发的中国帆船打开了海上的丝绸之路,进一步加强了中日关系。从泉州、福州等港口出发的唐船到达九州周边,运去了大量的铜钱和瓷器,同时又促进了移民大融合。
进入明清时期,福建与日本的关系迎来鼎盛时期。17世纪上半叶控制东亚和东南亚的海上贸易的,主要是来自中国东南部的海商。这些海商的首领名为郑芝龙,郑芝龙娶了平户藩主的女儿田川松,二人的儿子便是被称为“民族英雄”的郑成功。
17世纪30年代以后,中日贸易往来关系达到顶峰,长崎被指定为对外贸易特别是唐船贸易的特定港口。在唐船贸易的鼎盛时期,每年有多达70艘唐船抵达港口。其中,有许多船舶来自福州、厦门、泉州、漳州等福建港口。唐船将陶瓷、书籍和各种日用杂货运往日本,回程时带回日本的铜和海产干货。唐人贸易的翻译和中介主要由唐通事来进行,这些唐通事多是由归化了的中国人及其后裔担当,而他们大半是福建出身。
その他、医道に精通し、著作を含め多くの成果を残した深見玄岱、同様に独立禅師の門出である。独立禅師は日本の開業医界に高い地位と尊敬を享け、今でも彼の命日にあたって、多くの医者が黄檗山を祭りに訪ねていく。
四、貿易と磁器
貿易往来
周知のように、中日両国は長期にわたって貿易の往来を保ってきた。その貿易の要として機能しているのは長崎にほかならなかった。早くも七、八世紀から、長崎は遣唐使の乗船の補給地や出発地であった一方、宋元期では海難に遭った中国貿易船の避難地でもあった。そのため、個人貿易が発生し、特に明朝では、長崎列島が商人の本拠地となり、また十七世紀に中国に開放された唯一の港であった。
明朝前期に実施していた海禁政策、所謂「下海通蕃の禁」にもかかわらず、中日両国はお互いに物産商品を求めあっていた。市場における需要は各種のシルク、漆器、薬、磁器ないし鉱産物、金属製品など、正にぼろ儲けで、これを商売の種にしていた。巨大の利潤は両国の民間商業貿易を推動し、進行させ、海上武装貿易、海賊貿易さえ出現したわけである。
江戸時期に日本の対外関係は鎖国という一語に尽きる。十七世紀半ばに鎖国体制が確立して以降、日本では出航が禁じられ、中国やオランダの商船のみが長崎港を進出できるようになっていた。中日両国における生産力や科学技術の発展につれて、貿易活動が切望され、日本も民間の貿易往来で経験を積み重ねており、鎖国することの弊害を徐々に意識するようになったそのため、中日両国の民間の貿易活動は、依然として非常に粘り強く、緩やかに発展していた。(廖深基、2020)
中日貿易の頻繁な往来の中で、福建は重要な役割を果たしている。福建省は日本との交流歴史が非常に長く、12世紀から福建人がすでに日本の九州地域に頻繁に行き来し、日本平安時代の史料『浅野群載』においては「大宋国泉州人李充……来到貴朝」との記録が残されていた。この史料には、12世紀初頭、泉州出身の商人李充が自らの商船に乗り三度に渡って北九州を訪問し、貿易を行う詳細な記録が記されている。泉州はマルコポーロから刺桐と呼ばれ、東方第一港と讃えられていた町である。泉州から出航した中国の帆船は海上のシルクロードを開通し、中国と日本の関係をより強いものにした。泉州、福州などの港から出発した唐船は九州あたりに到達し、大量の銅貨や磁器をもたらしたと同時に、移民の大融合も促したのである。
唐船模型,福州博物馆藏,温志拔摄
唐船模型 福州博物館所蔵 (温志抜撮影)
渡来的船主建立了兴福寺(南京寺)、福济寺(初称泉州寺、后称漳州寺)、崇福寺(福州寺)三寺,称为长崎著名的唐三寺。而其中两座寺庙是福建人建造的,这也显示了福建商人在长崎贸易中的重要性。这些唐庙请来了中国的唐僧担任住持。在这种背景下,1654年,隐元禅师带着数十名弟子来到日本。后来隐元上京,在京都开设了黄檗山万福寺。此后的水尾法皇、幕府要人、各大名人争相皈依隐元,隐元也被赋予了“大光普照国师”的特殊谥号。隐元开创了日本佛教的一大宗派“黄檗宗”。江户时期,黄檗文化不仅对日本的佛教产生影响,而且它还对日本的书法、绘画、建筑、饮食和茶道等方方面面产生了巨大的影响。
随着移民人数的增加,1688年幕府建造了东神屋敷(唐馆)作为外国唐人定居点。唐馆也成了海外华侨文化的传承和保存中心,唐人在馆内建立了土神堂、天后堂、观音堂、仙人堂等宗教设施,并搭建舞台演出戏曲等表演。其中唐馆传来的蛇舞(舞龙)、流放彩船、清明节、民生乐、菩萨炸、妈祖圣会、观帝节、盂兰盆会、冬至等习俗,至今仍在长崎流传着,成为该地域的重要的文化和旅游资源。
明清時代に至っては、福建省と日本との関係は全盛期を迎えた。17世紀上半では東アジアや東南アジアの海上貿易を押さえたのは中国東南部の海商で、その頭目の名は鄭芝龍だった。後に彼は平戸藩主の娘の田川松を娶り、二人の息子として生まれたのは「民族英雄」の美名を享ける鄭成功にほかならない。
17世紀30年代以降、中日の貿易往来はピークに達し、長崎は対外貿易、特に唐船貿易の特定港に指定された。唐船貿易の最盛期には年に70隻にものぼる唐船が港に到達していた。その中には福州、厦門、泉州、漳州、などの福建港口から来たものが大勢をしめていた。唐船が陶磁器や書籍や各種の日用雑貨を日本に運び入れ、帰る時には日本の銅や海産物干物を持ち帰った。唐人貿易の通訳や仲介は主に唐通事が担い、その多くは帰化した中国人やその後裔で、福建省出身の者が大半を占めていた。
渡来した船の船主が興福寺(南京寺)、福済寺(泉州寺、漳州寺)、崇福寺(福州寺)の三寺を建てた。これらが長崎で著名な唐三寺である。そのうちの二つが福建人によって造られたことは、福建商人が長崎貿易での活躍ぶりを端的に示すものである。これらの唐寺は中国からの僧侶に住持を担当させた。こうした背景の下で、1654年、隠元禅師が数十名の弟子を率いて来日した。後ほど上京する隠元は、京都で黄檗山萬福寺を開設することになる。この後、水尾法皇をはじめ、幕府の要人、各大名が争って帰依し、隠元も「大光普照国師」という諡号を授与された。隠元が開宗したのは、いわば日本仏教の一大宗派の「黄檗宗」であった。江戸時期に、黄檗文化は日本本土の仏教に対する影響の他、日本の書道、絵画、建築、影響、茶道全般に大きな影響を与えていた。
日本万福寺特赐大光普照国师塔石碑,福清黄檗文化促进会供稿
特賜された大光普照国師塔石碑 (福清黄檗文化促進会提供)
从中国文化传入的过程中可以明显看出,福建在历史上与日本的贸易网络和文化网络是以重叠、互相促进、相互发展的形式展开的。2020年12月22日到25日,日本东京的中国文化中心曾经举行了“闽之美——中国福建古代艺术及文化观光展”,在那次展览会上,共展出了跨宋、元、明、清四个朝代共31件展示品,展现了宋代起福建日本贸易关系的历史延续及其转变。这贸易关系也可以概括为一种文化,两条海路。一种文化就是黄檗文化,两条海路即陶瓷之路和文墨之路。
“闽之美——中国福建古代艺术及文化观光展”开幕式,福清黄檗文化促进会供稿
「閩の美―中国福建古代芸術と文化観光展」開幕式 (福清黄檗文化促進会提供)
移民人数の増加にしたがって、1688 年幕府は東神屋敷(唐館)を外国唐人の居留地として設立した。唐館も海外華僑文化の伝承や保存の中心となり、唐人は館内に土神道、天後堂、観音堂、仙人堂などの宗教施設を建立し、また歌劇等の演出に用いる舞台を整備した。それで唐館から伝来した蛇舞(龍舞)、流放彩船、清明節、民生楽、菩薩炸、媽祖聖会、観帝節、お盆会、冬至などの風習がこの地域の独立した重要な文化や観光資源として現在も長崎に伝えられている。
中国文化の伝来過程から端的に分かるように、福建省は歴史上において日本との貿易ネットワークや文化ネットワークが重なり、互いに促進し、共に発展する形式で展開されていた。2020 年12 月22 日から25 日にかけて、日本の東京における中国文化中心で「閩の美——中国福建古代美術及び文化観光展」が行われ、該当の展覧会では宋、元、明、清という四代を跨ぐ31 件の展覧品が陳列され、宋代から始まる福建——日本貿易から長崎貿易に至るまでの変遷と継続が展示されている。この貿易関係は