南明贤相钱肃乐
福建琅岐(今福建省福州市马尾区境内)位于东海之滨,屹立于闽江中流,三面环江,一面靠海,是闽江口的咽喉。进可攻占对岸琯头、亭江以及潭头等村镇,威逼福州,退可隔江自固,从海上逃脱,因而成为历史上政治势力的必争之地。1647年,鲁监国朱以海率军从浙江撤到琅江(今琅岐),当时,唐王隆武帝已被清兵杀害,整个福建归附鲁王。鲁王以琅江为抗清据点,开创了南明鲁王朝短暂的辉煌,而这一切离不开相国钱肃乐的辅助之功。
钱肃乐(1606—1648),浙江鄞县(今浙江宁波)人。1645年,清兵南下杭州时,钱肃乐倡议组织义兵反抗,并请鲁王在绍兴监国,浙东抗清义军从此有了统一的领导,钱肃乐则开启了他人生中抗清运动悲壮的一页。
第二年,江浙两地被清军攻占,鲁王流亡到海上避难。钱肃乐带领义军撤到福建,辗转于福清、文石(长乐)、海坛(平潭)之间,生活异常艰辛,米麦全吃完了,只能吃番薯,最后只能吃薯干充饥。钱肃乐只好遣散部队,只身来到龙峰岩寺院(今福建省福州市长乐区境内),他面对佛像思绪连绵,耳边传来寺庙的钟声,他不禁悲从中来,自己一心破家报国,却壮志难酬,不如在此出家,图个清静。于是,钱肃乐在龙峰寺祝发为僧,暂时隐居起来,当地的人经常到寺院向他讨教学问,他以此收取少许束脩,维持家人生计。
钱肃乐画像,福清黄檗文化促进会供稿
銭粛楽像 (福清黄檗文化促進会提供)
くのが見えた。彼は少しためらったが、すぐに雌鶏は黄道周に盗まれたに違いないと結論に達した。彼の手にある鶏の足がまさにその証拠だ。この貧乏人の家に鶏の足があるはずがない。黄道周は表向きは上品だが、陰では盗みを働くとは思わなかった。彼は義憤に燃えて、直接黄道周の前に行った。黄道周は無意識に木の鶏の足を持った手をテーブルの下に隠した。おじさんはその様子を見て怒りをぶちまけ、黄道周をつかんで、「まさかこんな奴だとは思わなかった!」と怒鳴った。黄道周は不審そうな顔をしていた。なぜこんなに怒っているのだろうか。「僕が何をしたの?」「自分でやったやましいことが自分でわからないのか?」黄道周は鶏を盗んでいないので、もちろんちんぷんかんぷんだ。
おじさんは黄道周を外まで引っ張り出すと、近所の人たちが集まってきた。双方の言い争いが収まらず、皆は関帝廟に行って関帝爺に决めてもらうことを提案した。関帝廟に着くと、杯珓を取り出した。杯珓とは2枚貝の形をした二枚の木片で、占いに使用する道具の一種である。これを3回投げて正面が出るか反面が出るかで吉凶を判定する。おじさんはこれを投げて、正面と反面が交互に出たら鶏は黄道周に盗まれたことにすると決めた。普通、正面と反面が交互に出ると吉兆である。おじさんは黄道周の前でそれを3回投げ、3回とも正面と反面が出た。黄道周は否定することができなかった。みんなは黄道周が鶏泥棒だと思った。黄道周は腹を立てて、すぐ家に帰って本箱を片付け、まっすぐ東門嶼に行って静かに勉強していた。その後、おじさんは自分の家の雌鶏も見つかり、黄道周の家に謝りに行った。今も東門嶼には黄道周の読書遺跡「雲山石室」が残っている。(汪梅田、2017)
黄道周は7歳で朱子学を学び、勉学に励み、若い頃は文才があり、「閩海才子」と呼ばれ、後に易学を学ぶなどして全国的に有名になった。彼は明代後期の有名な学者であり、天文学、科学、書道、絵画に精通し、詩とエッセイにおいて独自の特徴がある。各地の書院で講義を行なったりして、多くの学問と気節のある人材を育成してきたゆえに、「黄聖人」と呼ばれた。同時に、彼は有名な反清の英雄でもある。
南明隆武の時、黄道周は吏部尚書兼兵部尚書、武英殿大学士(首輔)に任命された。兵部尚書だったが、軍事力は実際に鄭芝龍の手にある。1645年、清の兵士が南に侵攻し、鄭芝龍は1人の兵士も派遣しなかった。黄道周は故郷に帰って兵糧を調達するしかなかった。黄道周は数千人を募り、十数頭の馬と一ヶ月分の食糧を携えて仙霞峠(浙江省衢州の域内)を出て清軍と戦ったが、この小さいチームは清軍に対抗する力がなく、まるで死に送るようなものだった。やがて六十歳になった黄道周は軍隊を募集するために江西省に行った。婺源というところで清軍の大軍と激しく戦った後、敗北し、捕まった。数日断食した後、江寧(現在の江蘇南京)の監獄に連行されて監禁された。監獄で、黄道周は南宋王朝の崩壊後8日間断食した文天祥のことを考えた。黄道周は、福建から広西まではまだ南明の天下であり、大明王朝はまだ国の半分を持っているから、文天祥のように断食による抗争をついに断念した(「乾坤猶半壁、未忍踏文山」)。彼は監房の中で300を超える詩を書き、当時の思いや怒りを言葉にした。それらの詩を今日読んでも、心が打たれない人はいないであろう。
但一腔热血很难冷却,不久,钱肃乐听说鲁王来到琅江,他马上赶到琅江拜见鲁王,鲁王大喜,任命他为兵部尚书。钱肃乐把自己的小船系在鲁王的大船旁边,每天在小船中接见宾客,阅览奏章,然后呈给鲁王。公事处理完毕,钱肃乐就解开系船的绳索,把小船开到别处,静静地坐在舱中读书。
钱肃乐申明军纪,奖励军功,兵威复振,鲁王分兵数路攻取福州沿海各地,接连攻下兴化、福清、连江、长乐、罗源等三十余座城池,先后收复三府一州二十七县,声势大振。
当抗清形势好转之时,由于鲁王朝内部相互掣肘,形势急转直下。隆武帝时,郑彩被郑芝龙排挤,他带着自己的部队投奔鲁王,鲁王朝廷大臣多是浙江籍的知识分子,他们瞧不上郑彩这帮强盗出身的闽籍海商,闽浙矛盾自郑彩投诚的那一刻就产生了,但郑彩的海商势力是鲁王维持统治的支撑,鲁王也不敢得罪郑彩。手握重兵的郑彩愈发骄纵霸道,他与东阁大学士熊汝霖不和,于是用诡计把熊汝霖及其幼子投海击杀,隔了三天,又杀死郑遵谦。鲁王的股肱大臣就这样死于内讧之中,军心涣散,刚刚收复的城池陆续被清军攻占。
连江失守的消息传来,钱肃乐痛不欲生,开始绝食,不久死于琅江舟中,年仅42岁,时值起义三年后的夏天。夫人董氏前两月已卒,其嫂子和侄子也死于福建。鲁王哀痛不已,三天不上朝。钱肃乐一家四口的灵柩一直露置于琅江边,直到六年后,即1654年2月,由叶向高的曾孙叶进晟安排移葬到黄檗山。
郑成功与清廷议和始于1653年4月,破裂于1654年5月,钱肃乐一家的灵柩移葬之事,正好发生于郑清议和的短暂和平期内,但移葬过程仍然不顺利。1654年2月,郑成功军队到达黄檗山周围,向黄檗寺追纳粮饷,当时,黄檗寺的寺田有四百多亩,是粮饷催缴大户。钱肃乐一家的灵柩一度被郑军扣留在福清宏路,隐元出面周旋才得以放行。前后经半月之久,钱肃乐的灵柩才到达黄檗山。隐元在黄檗山住持钱肃乐的安葬仪式,他宣读了祭文《祭希声钱相国文》,文中称钱肃乐为“明故相国”,表明他坚称钱肃乐为明朝贤相,对钱肃乐的抗清活动大加赞赏,并为黄檗山能为钱肃乐提供葬地感到欣慰。但是钱肃乐一家的灵柩却迟迟未能下葬,一直拖了八个多月,隐元当年五月南下厦门时,钱肃乐一家还未得安葬,隐元感叹,南明政权,仁义丧失,必定长久不了。直到隐元东渡日本后,还念念不忘钱肃乐移葬的事,并通过从日本回国的商船寄回资金,以便福清黄檗寺尽早安葬钱肃乐。钱肃乐与黄檗文化的渊源,由此可见一斑。
黄道周が他にない人材なので、清朝は降伏するよう説得しようとしたが、気骨がある黄道周を簡単に揺さぶることはできなかった。洪承疇は清廷の重大臣で、黄道周と福建省の同郷でもあり、黄道周が果たして清廷で使える人材かどうか、ドルゴン清朝初期の皇族であるドンゴンはは洪承疇に探らせた。
福建省南安出身の洪承疇(1593—1665)は明崇禎帝の時に陝西総督、蓟遼総督であり、明王朝の重大臣であった。明王朝の終わりに、朝政は腐敗し、人々は安心して生活することができなかった。農民の蜂起があちこちで起こり、陝西省は反乱軍の数が最も多かった。朝廷は「討伐撫兼施、撫を主とする」という方針を採用した。多くの反乱軍は詐欺的に降伏し、討伐しても死ななかったが、洪承疇だけが情勢を認識し、全面的に掃討し、しばしば奇功を立てた。朝廷は彼を称賛し続けていた。洪承疇の軍隊は「洪軍」と呼ばれた。清王朝の太宗皇太極が即位した後、洪承疇は北京を奪取するために大軍を集めて錦州を包囲した。給料も援助もないまま、100日間城を守った後、捕虜になった。清太宗は「満漢の一人一人が一体に属する」という文化戦略で洪承疇を籠絡し、彼は数日断食した後に降伏した。崇禎帝は洪承疇が戦死したと思って王侯の規格で供養していたが、その後、洪承疇が清王朝に降伏したと聞いた。