黄檗宗寺院
长崎兴福寺、崇福寺、圣福寺、福济寺,都是唐人寺院,是海外华人华侨的精神家园。
兴福寺
兴福寺,是日本最早的黄檗宗唐风寺院,也是开山黄檗宗隐元禅师渡日后最初担任住持的寺院,还因数位杰出的中国高僧曾在此住持而闻名,如“眼镜桥”架设者默子如定禅师、日本近世汉画之祖逸然禅师等,这里曾被誉为“日本的中国”。兴福寺寺内的正殿——大雄宝殿是由默子如定禅师在宽永九年时建造的,由中国的匠人用从中国运来的材料建造而成,柱子和横梁上雕刻了人物、鸟兽、鲜花等图案,是中国南方建筑的代表作,很具中国风,被列为日本的国家重要文化财产。正殿里面的琉璃灯是由中国工匠制作的清朝精致工艺品,如今也是市级重点保护有形文物;其他还有妈祖堂、钟鼓楼、三江会所门、山门、旧唐人居留地大门等,都被列为了重点保护文物,而兴福寺寺院本身也被指定为历史遗迹。
徠(1666—1728)は、黄檗文化の影響を深く受け、「唐音直読論」を説き、中国語の典籍を中国語音声で直読するのを提案した。(林観潮、2013)
黄檗の言語文化は「唐話学」とも呼ばれる。明の宣徳年間(1425—1435)、福建籍商人は海上貿易を興し、日本の長崎を上陸地と移住地とし、百年も続く唐通事の家系が多く現れた。明の万暦年間、長崎の唐通事家系の発展は頂点に達し、中には「閩人材俊」林楚玉、「紡織大王」兪惟和、「長崎依哥」何高材、「東京舶主」魏之琰など福清出身の唐通事が挙げられ、明代の中日商業貿易往来と文化交流に重要な役割を果たしていた。長崎港の受け入れと融合のため、中国南部、特に福建では長崎や関西、北九州で貿易に従事している人がかなりの数であり、最も盛んな時、長崎で七人に一人は福建出身だったという。
それ故、訛りの強い福建語(沿海の閩中、閩東、閩南の方言)が、長崎の街や路地で響いていた。特に隠元禅師と同時期に日本に渡航した人材は何千人もおり、「隠元現象」を成した。300 年以上も経った現在、歴史の記憶が歳月という風雨にさらされ、過去の繁栄も失ったが、言葉というものは空気のように一般民衆の潜在意識に漂い、伝わり続いている。例えば、電話、世界、学校、教室、学生などの言葉はいずれも当時の中国語の字音と字義を残している。また、隠元禅師が日本に持ってきた中国風精進料理である「普茶料理」は「福清料理」の中国語発音による外来語であり、「普茶料理」が福清に由来していることを示している。また、食材と調理法には、「他満卵」、「僕倒豬肉」、「蟶烳炸」、「炒夲」など福清の最も素朴なやり方と呼び方が残り、懐かしく聞かれ、郷愁を誘った。
明朝体のルーツ
日本の黄檗山宝蔵院に収蔵されている鉄眼版一切経約6万枚の版木は、いずれも中国の「宋体字」であるが、明代末期に黄檗の渡来僧により伝来されたため、日本の僧俗や文人から「明朝体」と呼ばれている。現在よく使われている日本語の漢字は、この「明朝体」に倣ったものである。
黄檗宗の寺院
長崎の興福寺、崇福寺、聖福寺、福済寺はいずれも唐寺であり、海外にいる華人華僑の精神的故郷である。
京都黄檗山宝藏院近六万片“铁眼版一切藏经”版木,福清黄檗文化促进会供稿
6万枚ほどの鉄眼版『一切蔵経』の版木 京都市黄檗山宝蔵院所蔵 (福清黄檗文化促進会提供)
興福寺
興福寺は、日本最古の黄檗宗の唐風寺院であり、黄檗宗の開祖である隠元禅師が渡日した後、最初に住職を務めた寺院であり、また「眼鏡橋」の架設者である黙子如定禅師、長崎漢画の祖逸然禅師などの中国人高僧が住職を務めたことで知られており、かつて「日本の中の中国」と呼ばれていた。興福寺境内の本堂である大雄宝殿は、国指定重要文化財として、寛永9年(1632年)に黙子如定禅師によって建立された。ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したものが使われた。柱や梁には人物や鳥獣、花などが彫刻され、中国風が溢れた中国南方建筑の代表作とされる。本堂の中央高く懸けてある瑠璃燈は中国の工匠の作で、清朝末における精巧な工芸品の系譜に属し、市の有形文化財に指定されている。その他、県指定有形文化財の媽祖堂、鐘鼓楼、三江会所門、山門、旧唐人屋敷門などがある。また、興福寺境内自体は県の史跡に指定されて いる。
興福寺は、隠元禅師招請の中心であり、隠元禅師が日本で弘法する最初の場所でもあった。黄檗文化は興福寺に始まり、日本全土に広がり、伝わっていった。興福寺の歴史は隠元禅師が中日文化交流に偉大な功績を残した証であり、それを永遠に銘記し、伝えるべきだと思う。また、特筆すべきなのは、興福寺の山門は諸国より寄せられた寄進により建てられ、隠元禅師自ら筆をとり「東明山」の額を書かれたので、これを興福寺の寺号とした。この額は今も山門に掲げられており、「祖道暗きこと久し必ず東に明らかならん」という意味の壮観、且つ豪華なもので、隠元禅師をもって、興福寺中興の開山とするゆえんである。
崇福寺
崇福寺は1629年に建てられ、興福寺から遠くはない。山門の前後に掲げられている「高登彼岸」と「萬里安瀾」の扁額は同じく福建省福清県出身の檀越である林翘と魏之琰の手蹟である。それは時の華僑たちが媽祖を迎えて渡来したことを語り、航海安全への祈願も含まれている。寺の中に媽祖堂があり、そこで媽祖を祀っている。その媽祖像は歴史が古く、昔中国から迎えられてきたという。当時福建省福清県出身の檀越が多かったことから福州寺とも呼ばれていた。当時の商人たちは航海の安全を守るため、その船内に媽祖像を安置し、台湾海峡、東シナ海、南シナ海北部の荒波を通り抜け、目的地の港町に到着すると、感謝の気持ちを込めて媽祖像を船から揚げ、陸地のしかるべき寺廟に移し、異国で自分たちを守り続けるようと願った。媽祖は故郷の精神的象徴となり、また母性のイメージから、他郷にいる旅人が故郷の母親を懐かしむ感情が寄せられている。それ故に、長崎の黄檗宗の寺院に媽祖を祭るのは自然なことで、隠元禅師の弟子である即非禅師の遺嘱は仏寺としての三宝·伽藍と唐寺信仰としての媽祖の香灯を並列し、引き続き供養を怠らないように諭している。
日本长崎兴福寺,福清黄檗文化促进会供稿
興福寺 長崎市 (福清黄檗文化促進会提供)
兴福寺是邀请隐元禅师东渡的主要发起寺院,也是隐元禅师在日本弘法的初登宝地,黄檗文化在日本发扬光大源自长崎兴福寺,长崎兴福寺的故事,就是黄檗文化在日本弘扬传播的见证,就是隐元禅师在中日两国文化交流史上立下丰功伟绩的真实写照,中日两国和两国人民要世世代代加以铭记和宣传。值得一提的是,兴福寺的山门借助各国捐献而建起,隐元禅师于匾额上亲题“东明山”三字,人们便以此为兴福寺的寺号。东明山含“祖道久暗矣,必于东方明”之意,壮观而华丽,亦为隐元禅师被公认为兴福寺中兴开山祖师的缘由。
崇福寺
崇福寺距离兴福寺不远,建于1629年,在庙堂大门之上,一前一后分别悬挂的是祖籍福建福清的檀越林翘敬立的“高登彼岸”牌匾和同样祖籍福建福清的魏之琰敬立的“万里安澜”牌匾,向后人诉说早年华侨恭迎妈祖漂洋过海,来到长崎这异国他乡土地的故事和良好祝愿。寺内有一座妈祖堂,供奉的是来自中国的妈祖娘娘。这一尊妈祖也是很古老的,据说当初随着海船到日本,寺院的檀越福建福清人居多,所以被称为福州寺。为了保佑航海安全,供奉妈祖神像在船上陪伴,穿过台湾海峡、东海、南海北部的狂涛巨浪,抵达陆地的刹那,船民心中的感恩之情无以言表。他们将船上的妈祖供奉下船,虔诚顶礼膜拜,等到船要返回的时候,移民者又希望妈祖神像留下陪伴,继续保佑,那是必然之举。妈祖,化身为家乡的精神象征,她作为母性的形象,又仿佛是移民海外的游子思念家乡母亲的一种情感寄托。所以长崎黄檗宗的寺院里供着妈祖没有什么奇怪的,隐元禅师的弟子即非禅师临终遗言写道:“三宝,伽蓝,妈祖同样供奉”。
长崎兴福寺山门隐元手书匾额“初登宝地”,福清黄檗文化促进会供稿
隠元禅師書の額「初登寶地」 長崎市興福寺山門 (福清黄檗文化促進会提供)
その後、媽祖を祀る寺院は観音を併せ祀るようになった。江戸時代は身分の違いによる格差社会であったが、日本へ伝わってきたカトリックやキリスト教はあらゆる人間が平等であることを唱え、幕府にとって次第に脅威となったため、布教を禁じられてしまった。媽祖は女性の神であるため、カトリックの聖母に混同されやすく、また聖母像を媽祖と呼ぶカトリック信者もいるから、一層見分けられなくなった。混同を避けるため、幕府は寺院で観音のみを祀るよう命令した。媽祖の禁令はなかったが、寺院の後方に祀られるようになった。
后来,供奉妈祖的寺庙都改为拜观音的佛寺。由于江户时代日本仍存在阶级制度,而天主教、基督教提倡人人生而平等,对幕府的统治权力不利,所以开始禁教。但因妈祖也是女神,与天主教圣母一样,容易模糊,也有天主教信徒将圣母神像说成是妈祖,这样就无法分辨了。为了避免混淆,幕府于是下令佛寺只能供奉观音,对中国所信奉的妈祖倒是没有禁止,如此一来,妈祖就被供奉于寺庙的后方。
圣福寺
圣福寺始建于1677年,晚于兴福寺、崇福寺、福济寺约半个世纪。2014年,圣福寺被日本确定为国家有形文化遗迹。寺院也是典型的明代黄檗寺的风格,同时又综合了日本和式建筑的要素,既是僧侣修行的道场,又是中日文化交流的据点。寺院的开山祖师铁心道胖禅师,出生于长崎西北的平户,是隐元禅师的再传弟子,师出木庵禅师。铁心父亲是中国人,母亲为日本人,自幼便会说汉语。他在京都本山万福寺出家后,担任木庵翻译,又兼作师祖隐元的翻译,因而得以同时受教于隐元禅师,共修于万福寺中。
圣福寺整体建筑,主要仿照隐元、木庵、铁心师徒共同修行的京都万福寺建造。与大多数黄檗禅寺一样,包括山门前所悬挂“圣福禅寺”匾额、正殿的匾额等,都是隐元祖师亲自题写。此外,寺中的主要建筑雕刻花纹,多有桃树纹样。桃在中国文化中,是象征着长生不老的植物,因此,黄檗宗建筑上常能见到此类桃花纹样,包括寺中木质佛像,也大多可见桃纹。
日本长崎崇福寺,福清黄檗文化促进会供稿
崇福寺 長崎市 (福清黄檗文化促進会提供)
聖福寺
聖福寺は1677年に建立され、興福寺、崇福寺、福済寺より約半世紀遅れた。2014年、聖福寺は国の重要文化財に指定された。境内は明の黄檗寺の典型的な様式でありながら、日本和風建筑の要素も取り入れた。僧侶が修行する道場でもあるし、中日文化交流の重要な拠点でもある。寺院の開祖である鉄心道胖禅師は、長崎の北西にある平戸に生まれ、木庵禅師に師事して、隠元禅師の孫弟子に当たる。鉄心禅師の父は中国人で、母は日本人であるため、幼い頃から中国語を話すことができた。京都の万福寺で出家した後、木庵の通訳を務め、また師祖隠元の通訳を兼ねたため、隠元禅師からも教えを受け、京都萬福寺で修行していた。
隐元禅师所书“圣福禅寺”匾额,福清黄檗文化促进会供稿
隠元禅師書の額「聖福禅寺」 (福清黄檗文化促進会提供)
圣福寺中,还保留有为数众多的精美生活用品和书画等装饰物,以及历代的僧侣留下的书画墨迹。特别值得注意的是,圣福寺后期主要接受中国广东籍商人的皈依,因此寺中保留有大量的广东商人捐赠的匾额,承载着粵商的独特情怀。
福济寺
福济寺创建于1628年,由泉州出身的僧人觉海在岩原乡结庵而居,供奉妈祖,是为福济寺的肇始,福济寺又称为漳州寺或泉州寺。隐元禅师赴日曾应请住此寺,后来他的弟子木庵性瑫、即非如一等都入寺说法,寺院建筑都采用明朝建筑风格,部分建筑在二战期间损毁,后重建。福济寺也以日本黄檗宗的发祥地之一而著名。
牛头山弘福寺
东京都墨田区(东京晴空塔附近)牛头山弘福寺,是黄檗宗寺院,由黄檗木庵日籍弟子铁牛道机禅师开创,至今三百五十多年,铁牛禅师是黄檗宗重要的日籍弟子,被日本皇室赐封为“大慈普应国师”,他也是黄檗文化在日本重要的传承弟子,是隐元禅师在日本重要的法嗣。同时他还是日本围海造田的先驱(干拓技术),并协助铁眼道光开版《大藏经》,也是日本的印刷之先驱,对日本的印刷术和干拓事业做出了重要的贡献!
聖福寺は京都萬福寺に倣い建てられ、山門の前に掲げられている「聖福禅寺」の額や本堂の額などは、いずれも隠元祖師の筆による。また、寺院の主な建物には桃の木の紋様が多く刻まれている。桃は中国文化の中で不老長寿を象徴するため、黄檗宗の建物や木造の仏像にはよくその紋様が見ら れる。
聖福寺には、精巧な生活用品や書画などの装飾品、歴代の僧侶が残した書画が数多く残っている。特に聖福寺は後期、主に中国広東籍の商人の帰依を受けていたため、寄贈された額が多く、彼らの独特な思いが寄せられて いる。
福済寺
福済寺は元和五年(1628)に創建され、泉州出身の僧侶である覚海が岩原郷に庵を結び、媽祖を祀ったのがその始まりである。福済寺は漳州寺また泉州寺とも呼ばれている。隠元禅師が日本に赴いた時、その寺に招かれたことがあり、その後、木庵性瑫、即非如一など隠元の弟子もここで説法を行った。寺院の建物はいずれも明の建築様式に則って建てられ、一部は第二次世界大戦で破壊されたが、後に再建され、日本黄檗宗の発祥地の一つとして名高い。
牛頭山弘福寺
東京都墨田区(東京スカイツリー付近)の牛頭山弘福寺は黄檗宗の寺院として、黄檗宗木庵禅師の日本人弟子である鉄牛道機禅師によって創建され、今まで350年以上の歴史がある。鉄牛禅師は黄檗宗の重要な日本人弟子であり、日本皇室より大慈普應国師の諡号を賜り、黄檗文化の日本での重要な伝承者であると同時に、隠元禅師の日本における重要な法嗣でもあった。また、日本の印刷と干拓事業の先駆者として、鉄眼道光の「大蔵経」の開版に協力し、椿海の干拓などにも力を尽くし、大きく貢献した。