服饰
中日两国友好交往历史源远流长,长期以来两国之间相互学习、相互了解,共同创造和构成了丰富多样的东方文明。日本向来是一个善于学习、融合其他民族文化的国家,在不断的学习与融合过程中,创造并形成了自身的文化传统。明治维新以前的日本社会,主要以唐宋时期的中国为师,积极吸收融合中国文化。
第四章 人文習俗、商業貿易と科学技術
中国と日本は一衣帯水の隣国であり、古来より密接な関係を持っている。奈良時代(710—794)の律令制、平安時代(794—1192)の文学、鎌倉·室町時代(1192—1573)の宗教、桃山時代(1573—1603)の学術…日本は色々な面で中国文化の影響を深く受けている。明代中期以降、東アジアにおける政治情勢が複雑になり、中日両国の文化交流は冷え込んでしまった。明清の交替の時期、多数の中国人が渡日し、なかでも特に隠元隆琦をはじめとした黄檗宗の僧侶たちが日本に渡り、伝統的な詩文、書道、絵画、禅宗思想に関する典籍だけでなく、音楽、建築、医学、茶道、陶芸などの技術も日本に伝えた。黄檗宗の祖である隠元が渡日以降日本にもたらした明末清初の諸文化は「黄檗文化」、そして江戸時代当時の様々な芸術作品に現れた中国風の要素は「黄檗様式」と呼ばれていた。黄檗文化や要素は江戸時代の日本へ与えた影響は幅広く、建築、文学、音楽、書道、絵画、彫刻、印刷、医学といった学術や文化の面だけでなく、衣食住といった生活面に密接した分野にまで及び、江戸期の日本文化を大きく発達させた。それらは現代の私たちの身の周りに溶け込み、今なお日本文化の中に息づいている。
一、服飾と音楽
服飾
中日両国は長い友好往来の歴史を持ち、お互いに学び合い、助け合い、深い友情を結びつけ、人類の東方文明に貴重な貢献をした。日本は従来、他の民族文化を学び、融合するのが上手な国であり、絶えず学習と融合の過程で、自身の文化伝統を創造し、形成していた。明治維新以前の日本社会は主に唐宋時期の中国を師とし、中国の文化を積極的に吸収し、それを自身の文化と融合した。
在服饰文化方面,早在绳文时代后期,大致相当于中国上古商周时期,就有大量当时中国的衣服饰品流入日本。到了古坟时代,也就是中国魏晋南北朝时期,中日两国间的服饰文化交流,便出现了第一次高潮。首先,这一时期,由于战乱等原因,大批直接从中国沿海或途经百济进入日本的中国商人、手工业者,凭借自身技术在日本从事养蚕、丝织、缝纫等产业,经过几代的发展,定居日本成为早期的“新汉人”。其次,当时也有不少日本人多次派出使者,直接到中国南方学习纺织、裁缝技术,并带回江南一带的丝织物品。
从公元七世纪初到十二世纪世纪末,日本社会经历了飞鸟时代、奈良时代、平安时代,大体相当于中国的唐宋时期。这一时期的日本更加积极、主动、全面地向中国学习,两国人员往来更为频繁、密切,共同谱写了中日文化交流史上最为绚丽的篇章。这一时期也出现了第二次服饰文化交流的高潮。
从飞鸟时代开始,日本社会通过模仿隋唐王朝的服饰制度,制定完善了自己的一套冠冕服饰制度,并在全国范围内向普通民众推广隋唐服饰样式。进入奈良时代和平安时代前期,日本社会各阶层的服饰装扮,更是与唐代前期的几乎完全相同,并且与唐代前期一样,流行女着男装的风气。在服饰文化方面,奈良时代又被称为“唐风时代”。
平安时代后期开始,大约在中国的北宋到南宋前期,日本服饰文化又发生了一次较大变化,也就是从较为单纯的模仿阶段,逐渐开启了探索具有本民族特点的服饰发展的新方向。奈良时代的日本服饰,主要是上衣下裙或上衣下裤的唐装式样,到这一时期逐渐改变为上下连属的“着物”,这就是“和服”的雏形。同时,独立发展的探索创新,并不意味着中日服饰文化交流活动的中断,相反,具有深厚文化底蕴的中华服饰文化,在日本民间仍然大受欢迎,伴随着宋代海外贸易的兴盛,彼此交流仍有进一步发展。
经历了元朝的短暂衰歇之后,进入明代,特别是在明成祖朱棣统治时期,中国官方短暂地积极推行对外开拓,大力加强经济往来和文化交流的政策,在东北地区实行卫所制度,建立了一条融朝贡、贸易和文化交流为一体的“东北亚丝绸之路”。借助这一海上丝路,本土服饰、丝绸等物品,再次源源不断地东传至日本北海道,形成“虾夷锦文化现象”。这一文化现象生动体现了中日两国之间服饰文化的第三次交流高潮。
ファションの面においては、縄文時代後期、大体中国の上古商、周の時期に、大量の当時中国の衣服やアクセサリーなどが日本に流入した。古墳時代、つまり中国の魏晋南北朝時代、中日両国間の服飾文化交流は初めてのクライマックスに達したのである。まず、戦乱などの原因で、この時期に直接中国沿海から或は百済を経由して渡日した多くの中国商人と手工業者は、自身の技術によって、日本で養蚕、機織り、裁縫などの産業に従事していた。数世代の発展を経て、これらの人々は日本に定住して初期の「新漢人」になった。また、当時日本人に何度も中国へ派遣された使者も少なくなく、彼らは直接中国南方に行って紡織、裁縫技術を学び、江南地域辺りの絹織物を持ち帰った。
7世紀初めから12世紀末まで、日本社会は飛鳥時代、奈良時代、平安時代と時代が変わり、中国では唐宋時代に当たる。この時期の日本は更に積極的、全面的に中国から学び、両国の人員往来は更に頻繁し密接になった。両国が共に中日文化交流史上の最も絢爛たる一章を書き上げたこの時期において、服飾文化交流の二回目の大きな高まりが現れたのである。
飛鳥時代から、日本社会は隋唐王朝の服装制度を模倣することを通じて、自らの冠冕服装制度を制定して完備し、そして全国範囲で一般民衆に隋唐の服装の様式を普及した。奈良時代と平安時代の前期に入り、日本の社会各階層の服装は唐代前期とほぼ同じになった。それだけではなく、女性が男装する風潮の流行も唐代前期と同じだった。服飾文化の面では、奈良時代は「唐風時代」とも呼ばれている。
平安時代後期から、大体中国の北宋から南宋前期にかけて、日本の服飾文化は再び大きく変化し、比較的に単純な模倣の段階から、次第に日本民族の特徴を持つ服装を探求するような新しい発展方向へ変わった。奈良時代の日本の服装は、主に上衣下裳(襟のある上着とスカート状或はズボン状の下衣)の唐服のデザインだったが、この時期から次第に上下連なる様式の服装に変わり、これが「着物」の雛形である。日本の独自の発展の模索と革新は、中日服飾文化交流活動の中断を意味するのではなく、逆に深い文化の基礎を持つ中国の服飾文化は日本の民間で依然として人気があり、そして宋代の海外貿易の繁栄に伴い、両国の相互交流は更なる発展を遂げていることを意味している。
日本和服,福清黄檗文化促进会供稿
和服 (福清黄檗文化促進会提供)
明朝的服饰文化,主要是上承汉唐旧传统而有变化发展,试图体现汉民族传统服饰旧制,极力彰显等级、贵贱的礼法尊卑文化,形成了更为严格、正统化的王朝服饰制度,经过多次改造,最终形成了极具“汉官威仪”的,正统、规矩的制度性服饰化。明清易代之后,统治者一方面废除了明人的汉唐服饰制度,强力推行极具满州女真特色的服饰制度,但另一方面在服饰文化内在精神上,却完全承袭明代,同样十分强调服饰的等级尊卑特性,甚至有过之而无不及。尤其是各级官僚服装,从冠冕服装形制、补子图案、颜色区分等方面,都有严格的规定,不允许有稍微的混乱、僭越。(竺小恩、葛晓弘,2015)
元朝の短い衰退期を経て明代に入り、特に明成祖朱棣の統治時代、中国政府側は対外開拓を一時的に積極的に推進し、経済往来と文化交流の政策に力を入れて行い、更に東北地区で衛所制度を実行し、朝貢、貿易と文化交流を一体化した「東北地区アジアシルクロード」を確立した。この海上のシルクロードを通じて、中国本土の服飾やシルクなどの物品は再び絶えず日本の北海道に伝わり、「蝦夷錦文化現象」を形成した。この文化現象は中日両国間の服飾文化交流の三回目の高まりの鮮明な現れでもあった。
明朝の服飾文化は、主に漢唐王朝の古い伝統様式を受け続いた上で変化し、漢民族の伝統的な服装旧制を表現しようとし、等級、貴賤の礼法尊卑文化を強く表していた。そのため、より厳格で正統化した王朝の服飾制度を形成し、何度も改造した後、最終的に「漢官威儀」を極めた、正統で規則的な制度的な服飾化を形成した。明清易代以降、支配者は明人の漢唐服装制度を廃止する一方で、満州女真の特色を持つ服飾制度を強力に推進した。とは言え、一方の服飾文化の内在的な精神面においては、完全に明代を踏襲し、同様に服飾による等級の尊卑特性を強調し、明代と比べて勝るとも劣らないほどだったと言えよう。特に各級官僚の服装は、冠服装の形から、模様や色などまで、厳格な規定があり、少しの乱れ、僭越も許されない。(竺小恩、葛暁弘、2015)
明末に朱舜水、隠元らが渡日した後、中国文化の保存と伝達に全力を尽くし、日本の社会文化の発展に重要な影響を与え、その中には服飾文化の交流と相互作用も含まれている。文化遺民として、彼らはまさに服飾文化を借りて、中国文化の正統を保存するという追求を体現している。彼らは明王朝の旧式の服装を着ることを堅持し、服飾制度の文化を維持し、清朝の服装を異民族の服装と見なした。このような行動は、服飾文化の面で民族意識を体現し、二者には違いがあるという主張の表れである。
明末朱舜水、隐元等人流亡日本之后,尽心保存和传播中华文化,对日本社会文化发展产生了重要影响,这其中也包括服饰文化的交流互动。作为文化遗民,他们正是借助服饰文化,体现并保存中华文化正统的价值追求。他们坚持着明王朝的旧式服装,维护服饰制度文化,将清朝人的服饰视为异族服装,在服饰文化方面,体现民族意识,坚守华夷之辩。
这种服饰文化首先体现在僧人服饰上。以隐元为首的从中国漂洋过海的黄檗僧侣们,到日本后依旧着汉服,他们以明代遗臣自视,衣冠服饰始终为明代的袈裟和僧服。这些袈裟和僧服与日本其他宗派的服饰明显不同。在固有印象中,僧人的袈裟无非就是一件黄袍子加上外面的褂子,传统的见解给袈裟带上了千篇一律的标签。但真正意义上的袈裟,其实远比这些简单的元素丰富和宏大,甚至于它的由来和演变和各种文化的交融有着千丝万缕的联系。黄檗宗及日本其他的宗派的服饰也是这样的。黄檗宗僧人们的袈裟在当时日本人的眼里显得极其独特而帅气。因此,临济宗、曹洞宗等其他宗派的僧人们,开始在服饰上竞相仿效黄檗僧的袈裟和僧服。
黄檗宗服饰居然给日本本土宗派带来如此大的影响并广为流传,这令日本幕府感到极其震惊,以至幕府于日本宽文十三年(1673)颁布了一条法令,限制黄檗宗僧侣们着汉服饰在江户的繁华街市自由出入。
其次,中国服饰对日本社会的影响还体现在歌舞伎们的服饰上。江户时代,作为时代潮流先端的歌舞伎,他们的服饰也离不开创新。当时的歌舞伎服装的制作上引入了黄檗僧侣服饰的一些独特的新元素,这种崭新的设计引起了来观看歌舞伎的观众们的关注。看到这种新潮独特的着装,他们也纷纷模仿起来,于是这些新元素就慢慢流行开来。比如歌舞伎服装之一的四天服,它的衣襟偏短,衣裾的两侧分别有开缝,形成一个断开处。这种服装就是吸收了黄檗僧人服装的元素而制作出来的。
再如在日常服饰中流传甚广的隐元头巾。江户时代被称为隐元头巾的其实就是高祖头巾。所谓的高祖就是创立了一宗一派的僧人,而江户时代被称为高祖的当然非隐元莫属了。高祖头巾就像和服的袖子一样,戴着高祖头巾的人的脸从袖口露出来。
このような服飾文化はまず僧侶たちの服装に表れていた。隠元をはじめとする中国から海を渡った黄檗の僧侶たちは、日本にいても漢服を着ていた。彼らは明代の遺臣を自認し、その衣冠服飾はずっと明代の袈裟と僧服だった。これらの袈裟と僧服は日本の他の宗派の服装とは明らかに異なった。僧の袈裟は大体黄衣に外の羽織を加えたものだというのはステレオタイプであったが、このような伝統的な見方によって袈裟は常に千篇一律だというラベルが貼れてしまった。しかし、本当の意味での袈裟は、そんな単純なものではなく、豊かで壮大であり、その由来と発展は様々な文化の融合と密接なつながりを持っている。黄檗僧の袈裟と法衣は、他の宗派のものとは異なり、当時の人の目にはとても独特で格好良く見えていたようだ。そのため、臨済宗や曹洞宗という他宗派の僧侶も、黄檗僧の袈裟や僧服などを真似するようになった。
黄檗宗の服装が日本本土の宗派に意外にもこのような大きい影响と流行をもたらしたことに、日本幕府はきわめて驚き、寛文十三年(1673)に黄檗僧の江戸市中徘徊の禁令を出したほどだった。
また、当時中国服飾の日本社会に対する影響は歌舞伎の衣装にも表れていた。江戸時代、流行の最先端を行く歌舞伎の世界でも革新を求め、その衣装に黄檗僧の服飾にあった特別で新しい要素を取り入れた。このような斬新なデザインが観客の注目を集め、それを見た人々が真似をして新たな流行が広がっていった。次の画像が示しているように、歌舞伎衣装の一つに、四天という衽が無く裾が少し短めで、裾の両脇に切れ目が入った衣装があるが、これは黄檗僧服にある要素を取り入れてできた新しい衣装だ った。
また、日常の服装の中で広く伝わっている隠元頭巾もその一例であった。江戸時代隠元頭巾と呼ばれたのが実は高祖頭巾だった。高祖とは一宗一派を創立した僧のことで、江戸時代に高祖と呼ばれていたのはもちろん隠元にほかならなかった。一方の高祖頭巾とは、着物の袖の形をしていて、袖口から顔を出すようになっている頭巾である。
隠元禅師以外に、もう一人日本で明朝の服装文化を推進し、重要な影響を
隐元之外,另一位在日本大力推行明朝服饰文化,并产生重要影响的,是明末遗臣朱舜水。朱舜水定居日本二十余年,是中日文化交流史上的重要人物。在服饰文化方面,他以实际行动积极维护和推行明人服饰文化,向日本社会各界人士传播明朝服饰相关的礼仪制度和文化,引导日本民众穿着明式服装,甚至亲自传授服装裁剪技术。
旅日期间,朱舜水始终以文化遗臣自居,不仅自己坚持穿戴明朝冠冕服饰还要求亲朋好友都要以明朝衣冠制度为准。在讲学和书信中,他都将明代服饰文化作为中华文化的正统,有意识地进行自觉传播。他将这一文化明确纳入日常讲学的内容体系之中,向日本弟子讲授,还不厌其烦地解答弟子所提出的有关服饰文化方面的问题。朱氏弟子懋斋野传、今井弘济等人,后来将朱舜水这方面的言行,记录、整理、保存在《朱氏舜水谈绮》一书中。该书图文并茂地介绍了明代服饰在衣冠裁剪方面的样式分类、具体方法等内容,集中展现了明代服饰文化的详细知识,在中日服饰文化交流史上,具有重要的文物和文献价值。
此外,朱舜水还有意引导日本各界人士正确制作、穿戴明代服饰,亲手裁制各式各样具有明人风格特征的服饰,作为礼物,赠送给日本友人和学生。正是在朱舜水亲力亲为的推动下,日本民众逐渐对以明朝服饰为代表的中华服饰文化产生了浓厚兴趣。其弟子门生中,还诞生了专门研究中国服饰历史及文化的学者,如前述懋斋野传。(竺小恩,葛晓弘,2015)