铁面御史林汝翥

铁面御史林汝翥

隐元出家后,曾周游四方,遍访名师,成为临济宗的传法禅师之后,46岁又接受僧俗的邀请,住持黄檗山。隐元于1637年至1644年,1646年至1654年两度住持黄檗山,前后共十七年。他担任黄檗寺住持后,不断扩建寺院规模,僧众也多达数千人。经过多年经营,黄檗寺成为东南名刹,隐元也被尊为一代名僧。而最初向隐元发起邀请的是数十位福建省福清市上迳镇的父老乡亲,为首的正是被称为“铁面御史”的林汝翥,他是上迳的黄檗外护首领。

林汝翥(1568—1647),是福清县万安乡灵得里土堡境(今福清市上迳镇梧岗村)人,是叶向高的外甥。关于林汝翥的出生有一个离奇的故事,传说明嘉靖四十七年(1568)正月初一,迳江老百姓正准备过春节,海盗乘船来到迳江港口,大家赶紧离家避难,身怀六甲的孕妇郭氏行动不便,眼看将落入海盗魔掌,情急之下,她跳入迳江,所幸正值退潮,郭氏安然无恙,并产下小儿,他就是林汝翥。为纪念林汝翥是正月(即子月)初一诞生于江中,人们把郭氏跳江处蹑云桥下盛产的红睛鲫鱼叫作“子鱼”。(福清县《福清纪略》编委会,1988)明万历三十四年(1606),林汝翥参加乡试考中举人,乡试是省级考试,明朝考中举人就有做官的资格。林汝翥被任命江苏沛县知县,后因抵御白莲教起事有功,升任四川道监察御史。

また隠元も葉進晟の国恩に報いるその熱い心に感服し、彼の要請にすぐさま応じた。当時、黄檗寺で出家した独耀性日(浙江海寧人、通称姚翼明、抗清義士)は葉進晟の善行を高く評価し、移葬のことを積極的に進めた。1654年旧暦の二月八日、独耀性日は、琅岐江のほとりに六年間さらされていた銭粛楽ら四人の棺(銭粛楽、銭夫人、兄嫁の陳氏、甥の克恭の四人の棺を含む)を琅岐から黄檗山に移し始めた。32人の男を雇ったが、両地が百三四十里離れていて、道のりが遠く、山道も険しく、ゆっくりと進むしかなかった。当時、兵が荒れ狂い、棺は常に乱兵に阻まれ、順調に前進することができなかった。このように半月を経て、ようやく棺を黄檗山に移した。

葉進晟は銭粛楽の葬儀を執り行った後、何年も家から出なかった。清朝に仕えるのを嫌って、世を避けて隠居し、「蒙耻苟生,抱病杜門(恥をかきながら生きている、病気でありながら門を閉めて人に会うことを拒否する)」との言葉を自ら口にした。(林観潮、2010)順治十五年(1658)、葉進晟卒す。

鉄面御史の林汝翥

隠元禅師は黄檗寺で仏道に入ってから、各地を周遊して名師を訪ね、臨済宗の正式な伝法者となった。46歳の時、また僧俗の招きを受けて黄檗山の住職となった。隠元の一生では、1637年から1644年まで、1646年から1654年までの2度にわたって黄檗山の住職を務めたことがある。黄檗寺の住職に就任している間、隠元は各地で布施を募ったり、寺院の規模を拡張したりして、僧侶が数千人にも達し、そのうち学問に長けた高僧が多く、黄檗寺が東南の名刹となったが、隠元自身も一代の名僧として尊ばれた。最初に隠元を招請した十数人の福建省福清市上迳鎮の故郷の人々のなかには、上迳鎮の黄檗後援の首領である「鉄面御史」と呼ばれる林汝翥がいた。

林汝翥(1568—1647)は福清県万安郷霊得里土堡境(現在の福清市上迳鎮梧崗村)の出身で、葉向高の甥である。林汝翥の誕生については、不思議な物語がある。嘉靖四十七年(1568)正月一日、迳江の人々は春節の準備をしていたところに、海賊が船に乗って迳江の港に来た。みんなは急いで家を出て避難した。身ごもっていた郭氏は容易に動けなかったため、海賊の魔の手に落ちようとするや、切羽詰まって、彼女は迳江に飛び込んだ。幸いなことに、ちょうど引き潮だったおかげで、郭氏はこの時無事に子供を出産した。この子どもこそが林汝翥だった。林汝翥が正月(子月)の一日目に江の中で生まれたことを記念して、人々は郭氏が川に跳び込んだ蹑雲橋の下で大量に取れる紅眼鮒のことを「子魚」と呼んでいる。(福清県『福清紀略』編集委員会、1988)明万暦三十四年(1606)、林汝翥は郷試試験中挙人を受験した。郷試は省級試験であり、明の試験中挙人は官職に就く資格がある。林汝翥は江蘇県の知県に任命されたが、白蓮教の反乱を防いだ功があり、四川道監察御史に昇進した。

林汝翥被称为“铁面御史”,因为他为人耿介直言、嫉恶如仇、执法如山。史料记载,林汝翥曾杖责阉党,得罪魏忠贤,险些丧命。明天启四年(1624),林汝翥负责维护京城的治安,这年六月,北京城北面发生一件大案,宦官曹进为给养父曹大出气,纠集一帮人把曹大的仇家杀死了,事发之后,刑部无人敢过问,他们把案子推给其他人,林汝翥接到案子,问明案情,马上把曹进和同伙傅国兴抓起来,各笞刑五十下。王体乾是魏忠贤的死党,也算是宦官的头头,他不能容忍宦官被林汝翥处罚,于是与魏忠贤一起奏请明熹宗朱由校廷杖林汝翥,朱由校下旨廷仗一百。林汝翥听闻之后,惊骇不已,“好汉不吃眼前亏”,他逃到遵化巡抚杨渼那里,并上奏明熹宗《弹劾魏忠贤书》,历数魏忠贤罪状,劝熹宗不要纵容阉党。明熹宗不听劝诫,仍将林汝翥抓捕廷杖,林汝翥几次昏迷,但所幸保住了性命。直到崇祯皇帝即位,林汝翥才返回官场。

最能体现林汝翥铁面无私的是他大义灭亲的故事,这个故事在福建福清广为流传。明崇祯年间,林汝翥的侄子们仰仗林汝翥在京为官,为害乡里,十分嚣张。当时的榆溪驿(今福建福清渔溪镇境内),是福州、兴化(今福建莆田)、泉州、漳州四地往来商旅的必经驿站,林汝翥家族中18个子弟,经常在此拦路抢劫,甚至谋财害命,他们都是“夫”字辈后生,因此号称“十八夫”。过往商人不堪其苦,当地百姓对此十分痛恨,将这些林氏子弟骂为“十八虎”。知县害怕得罪林汝翥,也始终不敢捉拿他们。此事传到京城,林汝翥义愤难平,连夜赶回迳江,准备亲自查办这群族侄。他声称大摆筵席宴请族人,族人齐聚一堂,在宴席期间,他令人把“十八虎”绑起来,大声训斥他们的罪行,然后把他们装进麻袋,扔进大海。从此,榆溪驿附近再无人敢犯事,商业往来恢复正常。关于如何处理亲情,传统观念有两种:“亲亲相隐”和“大义灭亲”。孔子在《论语》中曾提出“父为子隐,子为父隐”,他承认有血缘关系的亲属之间可以隐瞒某些罪行不向官府告发,因为亲情是人性中最真挚的情感,相互袒护是人之常情。但政府官员在处理公事时,国法和政治伦理高于亲情,因此要大义灭亲,正如《礼记》所言:“门内之治恩掩义,门外之治义断恩。”(刘厚琴,2017)意思是处理家庭内部的问题,恩爱情意重于道义公理,以和为贵,不必过多计较是非得失,但处理公务,道义公理重于恩爱情意,必须明辨是非,不能因为顾及亲情而败坏道义公理。林汝翥大义灭亲的义举惩治了地方祸患,维护了一方安宁,为后人传颂。

林汝翥が「鉄面御史」と呼ばれているのは彼が率直で、悪を憎み、情け容赦なく法を執行したからである。史料によると、林汝翥は権勢を振るった宦官の魏忠賢を処罰し、危うく命を取られるところだったようだ。明代天啓四年(1624)、林汝翥は巡城御史を務め、都の治安を守った。巡城御史とは天子のかわりに巡察することで、大きな事案の場合、上奏裁定を、小さな事案の場合、即席裁定を実施する。具体的な職務が京城内の東、西、南、北、中五城の治安管理の巡察、訴訟の審理、盗賊の編集·逮捕など、現在の中紀委紀検監察室の処長に相当する。林汝翥の巡礼の時は非常に威風堂々としていた。林汝翥の巡礼隊の最前列の役人が二本の鞭で街中をパタパタと鳴らしながら歩いていた。泥棒はこの澄んだ音を聞くや、遠くに隠れない者はいなかった。この年の六月、京城北城で事件があった。宦官の曹進が養父の曹大の鬱憤を晴らすため、一団を集めて曹大の敵を殺した。事件が発生した後、刑務官たちはその件について誰も口出す勇気がなく、ボールを蹴るように他の人に押しつけた。林汝翥はその事件の内容を尋ねると、すぐに曹進と一味の傅国興を捕らえ、それぞれしりたたき五十回の罰を与えた。王体乾は魏忠賢の親友であり、宦官の頭目でもあった。宦官が林汝翥に処罰されることを容認できず、魏忠賢とともに明熹宗朱由校に林汝翥のことを上奏した。朱由校は林汝翥に尻たたき百回の罰を下した。林汝翥はこれを聞いて大いに驚き恐れ、遵化巡撫楊渼のところに身を隠した。それに、明熹宗に『魏忠賢弾劾書』を上奏し、魏忠賢の罪状を数え、去勢党を黙認してはならないと勧めた。明熹宗は忠告に耳を貸さず、林汝翥を捕らえた。百回も尻たたきの罰を受けている間に、林汝翥は

顺治五年(1648),鲁王从海上率军接连攻克被清兵占领的连江、长乐、永泰、闽清等地。林汝翥积极响应鲁王号召,组织福清义军准备配合鲁王收复福清。鲁王召见林汝翥,任命他为兵部右侍郎,同年,林汝翥与吏部主事林垐汇合攻福清县城,不幸被捕,他拒不投降,清兵残忍地拔掉他的10个指甲,他仍面不改色。死后,族人把他安葬在山坳里,将棺木用铁链吊起来,因为他临终发誓:死不入清土。

林汝翥与隐元禅师是上迳同乡,年龄相仿。崇祯十一年(1638),林汝翥七十大寿时,隐元作诗庆贺,赞赏林汝翥的铁骨铮铮和精忠报国的豪气。清顺治四年(1647),林汝翥抗清兵败就义后,隐元曾饱含深情地写下悼念诗歌,(平久保章,1979)表达对林汝翥抗清义举的敬佩之情,也对他没有退隐官场、保全自身感到惋惜。隐元东渡日本之后,还专门写信给门人慧门如沛,要求在黄檗山供奉有功于黄檗的重要檀越,其中,林汝翥就名列首位。