促成神宗赐藏的阁老叶向高

促成神宗赐藏的阁老叶向高

福清港头镇叶向高雕像,林秋明摄

葉向高像 福清市港頭鎮 (林秋明撮影)

在福清流传一句话,“没有叶向高,就没有黄檗寺”。此言不虚,黄檗寺本是一处普通的地方寺院,明初洪武年间重建的主要殿宇,都被焚毁殆尽。此后虽然经过中天正圆、鉴源兴寿、镜源兴慈等几代禅师的多次重建,仍然大不如前。

明朝万历四十二年(1614)秋天,明神宗朱翊钧为纪念亡故的生母,有意选择六处大寺院赐藏经卷。鉴源、镜源禅师于是就恳请时任内阁首辅的叶向高从中斡旋,因此黄檗寺得有幸位列其中。当时全国共有古刹二十余处,能得到赐藏实属不易。如果没有叶向高的推荐,黄檗寺不可能引起皇室的注意。明神宗御赐《大藏经》,并亲笔题写匾额“万福禅寺”,此寺名沿用至今。皇家的青睐,使沉寂多年的黄檗寺重振雄风,黄檗寺的知名度得到极大提升,福清僧俗才能延请被称为临济宗“中兴之祖”的密云圆悟大师到此担任住持,接着传位法嗣费隐通容,直至隐元,经三代禅师努力弘法,黄檗寺实现了全面复兴,僧众达千余人,宗风闻名遐迩,黄檗寺终发展成国内外著名的禅宗大寺院。

元代以降、黄檗寺は次第に衰退してしまった。明の洪武二十三年(1390)、莆田籍の禅僧大休禅師が黄檗寺を通った際、寺の梁も衰え、壁も崩れそうな様子を見て、寺の中に泊まり、再建しようと決めた。周心鑑の訪問の前日、大休禅師は「近いうちに、檀越(布施をする信者)が来て、寺院の復興が期待できるだろう」と予言した。すると、翌日、周心鑑が本当に予言どおりに訪ねてきた。彼は大休禅師と意気投合し、頑なに自分の田畑を売却し、全力で殿宇の再建を援助した。まさに「尽心尽力尽家産」だ。こうして、黄檗寺は第一回の中興を迎えた。大休禅師が「重興之祖」と呼ばれたのは周心鑑と深い関係があってこそだ。その後、隠元禅師によって書き直された『黄檗山寺誌』の中に、「興化儒商周心鑑,傾尽家財,襄助大休禅師重建黄檗的大檀越。」という周心鑑檀越の話が色濃く書かれた。(『黄檗山寺誌』)それで、周心鑑檀越が黄檗寺の再建を助けたという話は、黄檗の僧侶たちに代々伝えられ、広く称賛されている。

大蔵経の下賜に尽力した葉向高

福清には「葉向高がいなければ、黄檗寺がない」という言葉が伝わっている。黄檗寺はもともと普通の地方寺院であったが、嘉靖三十年(1555)前後に明初の洪武年間に再建された主要な殿宇はすべて焼失してしまった。その後、中天正円、鑑源興寿、鏡源興慈など何代にもわたって禅師が何度も再建したが、以前には及ばなかった。

明の万暦四十二年(1614)秋、明神宗は亡き母を偲ぶため、国内の6つの寺院を選んで蔵経を賜ることとなった。鑑源、鏡源は当時内閣首輔の葉向高に懇願し、ついに、葉向高の協力と斡旋により、黄檗寺はその六ヶ所の寺院の一つとなった。当時、全国には古刹が20カ所以上もあったので、蔵経を賜るのは容易なことではなかった。黄檗寺は葉向高の推薦がなければ皇室の注意を引くことはできなかった。明神宗は「大蔵経」を賜り、「万福禅寺」の扁額も自ら書いた。この寺名は今なお使われている。皇室の愛顧によって長年ひっそりとやや落ちぶれた黄檗寺がよみがえり、その知名度も格段にあげた。臨済宗の「中興の祖」と呼ばれる密雲円悟大師が福清の僧俗に招かれて黄檗寺の住職を務めることになり、その後法嗣の費隠通容に譲位した。雲円悟大師、費隠通容、あとの隠元を加え、三代の禅師が絶えず努力して弘法したので、黄檗寺は全面的に復興され、僧侶が千人にも達し、宗風がはるか遠くまでその名を馳せ、国内外で非常に有名な大禅宗寺となった。

福清叶向高黄阁重纶坊,林秋明摄

葉向高黄閣重綸坊 福清市 (林秋明撮影)

明代三朝元老叶向高(1559—1627),是福清迄今为止职务最高的一位官员,福清县城区内著名的商业街“向高街”便是以他的名字命名。

叶向高对宗教的态度十分宽容,他的学问也广泛涉及儒、道、佛三教。他曾记载自己“黄河遇龙”的故事。天启元年(1621),叶向高结束七年的退隐生活,由福清远赴北京,第二次出任内阁首辅。当他到达淮安清口时,遇到黄河河床淤塞,无法行船,于是到当地龙神庙祭祀祷告,第二天河水上涨,他才顺利渡河。天启四年(1624),叶向高告老还乡,再次经过淮安,中途停留之际,请书法家董其昌亲自书写,将此事刻成碑记,立于淮安清口的淮神庙(当地的龙王庙)内。某种程度上,叶向高对龙王的信仰,与对海洋女神妈祖的信仰是一致的。叶向高从小浸染妈祖信仰,当时福清各地都有天妃宫,他在《苍霞余草》中,也详细记载了港头叶氏家族祭祀天妃的情形。他认为家乡天妃能显灵于海上,与北方龙神显灵于黄河,济人渡舟、救人危难,其信仰功效是一样的。

明時代の三朝元輔の葉向高は福清において今までで最も位が高かった役人であった。現在の福清市内に「向高街」という商店街があるのは彼を記念するためだ。

葉向高は宗教に対してとても寛容な心を持ち、学問の面でも儒教·仏教·道教の三教にも幅広く通じていた。かつて自ら「黄河で龍に出会った」という語を記したことがある。天啓元年(1621)、彼は7年間の隠居生活を終え、福清から北京に赴き、2度目の内閣首相に就任したことが書かれている。淮安清口に到着した彼は、黄河の河床が泥で塞がれ、船を走らせることができないので、地元の龍神廟に行って祈りをささげた。翌日、川の水が増水したので、彼はやっと順調に川を渡ることができた。天啓四年(1624)、彼は年老いて退職し故郷に帰った。再び淮安を通った時、途中で立ち止まり、書家の董其昌に頼んでこれを碑に刻んでもらい、淮安清口の淮神殿内(地元の竜王廟)に立てた。彼の竜王への信仰と海の女神媽祖への信仰は一致している。竜王は水神であり、川や湖、海はすべて竜王の管轄である。竜王は川の神であり、海の神でもあると言える。葉向高は幼い頃から媽祖の信仰に染まった。当時は福清各地に天妃宮があり、『蒼霞余草』にも港頭葉氏が天妃を祭った様子を詳細に記録している。彼は故郷の天妃が海で現れるのと北方の龍神が黄河で現れるのとでは、人を助け舟を渡らせ、人を危難から救うことができる信仰の効果は同じだと思ったのだ。

福清瑞岩山叶向高《谢政归来》题刻,林秋明摄

葉向高『謝政帰還』誌石 福清市瑞岩山 (林秋明撮影)

明万历皇帝钦赐牌匾,林秋明摄

明代万暦皇帝が賜った額 (林秋明撮影)

叶向高对西学天主教持友好接纳态度,他礼遇西方来华的耶稣会(当时罗马天主教海外传教的一个修会)教士利玛窦,他既不像徐光启(1562—1633)、李之藻(1565—1630)等人,直接受洗皈依天主教,也不同于沈榷、许大受等人对天主教痛恨至极,更多的是平等的对话和交流。他与意大利传教士艾儒略(1582—1649)的深厚情谊,成为中外文化交流的一段佳话。天启四年,艾儒略随退休归乡的叶向高入闽,成为福建天主教的创始人。叶向高三次到福州拜访艾儒略,对这位外来的“洋和尚”所念的经很感兴趣,艾儒略的著作《三山论学》中,也详细记载了他与叶向高、曹学俭(1574—1647)等人在福州讨论天主信仰问题的情形。受叶向高的影响,闽地缙绅士人与艾儒略交游者众多,艾儒略也到福建各地传教,广结善友,“八闽大地,周游殆遍”。艾儒略借孔子思想宣传天主教义,并将西学知识的传播与教义宣传相结合,被闽中士人称为“西来孔子”,艾儒略在福建传教前后共计24年,参与修建大小教堂二十余座,受洗皈依者超过万人,为当时的福建士大夫,乃至中国知识界都打开了解西方社会的窗口。(林国平,2017)这些都离不开叶向高的推荐与辅助。

葉向高は西洋のカトリック教を友好的に受け入れ、西洋から中国に来たイエズス会(当時ローマ·カトリックの海外布教の修道会)のマテオ·リッチを礼遇したが、彼は徐光啓(1562—1633)や李之藻(1565—1630)らのように洗礼を受けてカトリックに帰依したわけではなく、沈榷や許大受らのようにカトリックに対して激しい怨念を持っているわけでもなく、平等な対話と交流が多かった。イタリア人宣教師ジュリオ·アレーニ(1582—1649)との深い友情は、中国と外国の文化交流の逸話となっている。天啓四年(1624),アレーニは帰郷していた葉向高とともに福建に入り、福建カトリックの創始者となった。葉向高は三度も福州までアレーニを訪問し、この「外来の和尚が唱えたお経」に興味を持った。アレーニの著書『三山論学』には、アレーニと葉向高、曹学倹(1574—1647)の三人が福州でカトリックの信仰問題を論じた様子が記録されている。葉向高の影響で、アレーニと知り合った福建省の上役人が多く、アレーニは福建の各地で宣教し、広く善友を結んだ。アレーニは孔子の思想を利用してカトリックの義を説き、また、西洋学の知識の流布と教義の宣伝を結びつけ、当時の福建省内の士人たちに「西来孔子」と呼ばれた。福建省で24年間布教し、大小二十余りの聖堂を建設し、1万人以上の人に洗礼を受けさせ、当時の福建省内の士大夫及び中国知識界のために西洋社会を理解するための窓口を設けた。(林国平、2017)これらは葉向高の推薦と協力があってのことで ある。

叶向高当然更是佛教热心保护者,他曾参与重修福州闽侯著名的雪峰山崇圣禅寺、鼓山涌泉寺。在故乡福清期间,他也参与众多寺院的重建,其中就包括黄檗山万福寺。叶向高告老还乡后,亲自为黄檗寺题写对联。叶向高不仅自己出资四百两白银,还与亲友共同发起募捐活动。万历四十三年(1615),叶向高主持重建黄檗山万福寺,历时六年,于天启元年竣工。为了纪念叶向高的外护功绩,寺院僧俗在山内建择木堂,供奉叶向高像,可惜这尊塑像在二十世纪四十年代末,被盗贼所偷,早已不知下落。