福清理学四大家

福清理学四大家

福建的文化,至宋代达到一次鼎盛时期,作为全国刻书业中心的建阳、崇安(今福建武夷山),与海丝发源地福州、泉州,为福建文化的兴盛奠定了坚实的物质基础和现实条件。

宋代是一个理学的时代,作为理学中心的福建,正是北宋著名理学家程颐、程颢兄弟嫡传弟子、程门四家之一——杨时的故乡,也是杨门弟子刘子翚、罗丛彦、李侗的故乡,而理学的集大成者朱熹,正是从学于杨时、刘子翚、李侗等人,生活、讲学于建阳、崇安一带。福清地处福州、泉州之间,既是理学辐射的区域,也是开放创新的海丝文化的中心。北宋末年至南宋以来,福清诞生了一批著名的理学家,其中最为著名的是被誉为“福清理学四大家”的王苹、林亦之、陈藻、林希逸。

王苹画像,林秋明供稿

王苹像 (林秋明提供)

王苹(1082—1153),字信伯,福清龙山(今福清市)人,其思想受程颢的影响,主要强调发明人的内在良知本性,是南宋陆九渊心学派乃至明代王阳明思想的先驱者。王苹与陈藻、林亦之、林希逸,不仅积极传播理学思想,更为推进地方民风道德建设,为福清社会文化的繁荣兴盛,做出了不可替代的巨大贡献。

王苹出生于福清,后随父迁居平江(今江苏苏州),曾到河南洛阳跟随程颐学习,并成为程颐的得意门生。南宋绍兴四年(1134)十月,苏州守臣孙祐曾向朝廷推荐王苹。宋高宗召见王苹,对他提出的“统治者要有道德公心,听取天下人意见,用人不以个人好恶,这样就能建立良好的政治秩序,实现上古尧舜的美好政治社会”等意见很是赞赏,当即赐他同进士出身,并先后担任秘书省正字兼史馆校勘等中央文化官员,参与编撰北宋史书。不过,王苹任职一段时间后,发现这些职位都只是提提意见、抄抄文件,无法实现自己的政治抱负,就自动请辞,出任地方官员,造福百姓。此后不久,他又因儿子王谊写文章讽刺批评秦桧,而与儿子双双被革职罢官。罢官后的王苹,回到乡里,授徒讲学,教化乡里,直到去世。

されないことに対し、彼は朝廷に上書し、郷薦制度を導入し、科挙の補足として、何層もの推薦審査の方法を通じて、国に素行も学識も非常に優れた人をより多く推薦できるようにすることを提案した。彼の提案は宋高宗の賛同を得て実施された。紹興二十九年(1159)、秦桧が死んだ後、宋高宗は再び黄祖舜を副宰相に起用した。宋高宗は最近病死した秦檜の息子である秦熺に「太傅」の官位を下賜することを提案したが、黄祖舜は秦桧父子が国に災いを及ぼし、人民の恨みが沸き立っているので人心を失うことになると厳粛に指摘した。結局、高宗は命令を撤回した。

福清理学の四大家

福建省の文化は、宋代に一度最盛期を迎え、全国の刻書業の中心となった建陽、崇安(今の福建武夷山)と、海上シルクロードの発祥地の一つである福州、泉州は、福建文化の興隆のために堅実な物質的基礎と現実的条件を打ち立てた。

宋代は朱子学が盛んな時代で、朱子学の中心である福建省は北宋の有名な理学者である程頤、程顥兄弟の直伝弟子であり、程門四家の一人である楊時の故郷であり、楊門の弟子である劉子翬、羅叢彦、李侗の故郷でもあった。理学の集大成者である朱熹は楊時、劉子翬、李侗などから学んでおり、建陽、崇安のあたりで生活し講義していた。福清は福州と泉州の間に位置し、理学輻射の区域であるだけでなく、開放革新の海絲文化の中心でもある。北宋末期から南宋以来、福清にはいくつかの有名な理学者が誕生した。その中で最も有名なのは「福清理学の四大家」と称賛された王苹、林亦之、陳藻、林希逸である。

王苹(1082—1153)、字を信伯とし、福清龍山(今の福清市)の出身である。彼は程顥の思想の影響を受け、主に発明者の内なる良心に主眼を置き、南宋の陸九淵心学派、ひいては明代の王陽明思想の先駆者であった。王苹と陳藻、林亦之、林希逸は積極的に理学思想を広めただけでなく、地方の民風道徳文化の建設を推進し、福清の社会文化の繁栄にかけがえのない多大な貢献をした。

福清で生まれた王苹は父について平江(今江蘇蘇州)に移り住み、河南省洛陽で程頤に師事し、程頤の愛弟子となった。南宋紹興四年(1134)十月に、蘇州の守臣である孫祐によって朝廷に推薦され、宋高宗に招かれた。彼が提案した「支配者に対して道徳的で公正な心を持ち、世の中の人々の意見を聞き、個人的な好悪にとらわれずに人を使うことで、良い政治秩序が確立され、上古尭舜のような素晴らしい政治社会が実現できる」などの意見が宋高宗に高く評価され、直ちに進士と同じような学位が授けられた。その後、彼は秘書省正字兼史館の校勘などの中央文化官吏を務め、北宋の史書の編纂に参与した。しかし、しばらく在職した後、これらの役職はただ意見を述べたり、文書を写したりするだけで、自分の政治的抱負を実現できないことに気づき、彼は自ら辞職し、地方の役人に就任し、民衆に利益をもたらした。その直後、息子の王誼が文章を書いて秦桧を皮肉ったことを理由に、親子二人とも解任されることになった。罷免された後、王苹は故郷に帰り、亡くなるまで講義をして、郷民の教化に努めていた。

林亦之(1136—1185),福清新安里网山村(今福清海口镇)人,字学可,号月渔,一号“网山”,当时人称“网山先生”。林亦之一生布衣,乡居读书、学习,跟从莆田著名理学家林光朝,在红泉书院学习,林光朝去世后,莆田乡绅一致推举其为书院山长,继续讲学,传播理学思想。南宋名臣赵汝愚一生褒奖理学,担任福州知州期间,听闻林亦之学问,曾热情延请他到福州东井书堂讲学,拜林亦之为老师。淳熙十二年(1185),重新回到中央的赵汝愚还曾向朝廷举荐重用林亦之,然而林亦之却于同一年亡故,年仅五十岁。

林亦之画像,林秋明供稿

林亦之像 (林秋明提供)

陈藻,字元洁,号乐轩,是林亦之的弟子。他原籍长乐,后侨居福清海口横塘。陈藻屡试不第后,便到福清海口镇追随林亦之学习。陈藻的学术思想,深得林亦之的精髓。林亦之去世后,他接替老师任红泉书院教习。陈藻平时“入则课妻子耕织,出则诱生徒弦诵……独志孔、颜之学,学者称乐轩先生”。景定年间,陈藻的门人林希逸荐其贤,赠迪功郎,赐谥“文远”。(饶安鼎,1989)

林亦之(1136—1185)は、福清新安里の網山村(今の福清海口町)の出身で、字を学可、号を月漁、または「網山」とした。当時の人に「網山先生」と呼ばれていた。林亦之は一生を布衣であり続け、郷に住み、読書や勉強をし、蒲田の有名な理学者林光朝に従って、紅泉書院で学んでいた。林光朝の死後、蒲田の郷紳らは満場一致で林亦之を書院長として推挙し、引き続き講義を続け、理学思想を伝播した。南宋の名臣である趙汝愚は生涯理学を褒賞し、福州の知州を担当していた間に、林亦之の学問を聞き、熱心に福州の東井書堂に招いて講義することを懇請し、林亦之を師とした。淳熙十二年(1185)、再び中央に戻った趙汝愚は朝廷に林亦之の重用を薦めたが、残念ながら林亦之は同年五十歳で亡くなった。

陳藻は、字を元潔、号を楽軒とし、林亦之の弟子である。本籍は長楽で、後に福清海口の横塘に住んでいた。受験に何度も失敗し、福清の海口鎮に行って林亦之に師事することになった。陳藻の学術思想は、林亦之の精髄を深く得ている。林亦之の没後、師の後を継いで紅泉書院の教師として活躍した。陳藻は普段、「家では妻に耕したり布を織ったりするように、書院に出ては生徒たちに詠唱するように勧め、孔子の教えだけに心を向け、学者たちは彼を楽軒先生と呼んだ」。景定年間、陳藻の門人である林希逸がその賢を推薦し、迪功郎を贈り、「文元」の諡号を与えた。(饒安鼎、1989)

福清海口镇宋代古桥,林秋明摄

宋代古橋 福清市海口鎮 (林秋明撮影)

林希逸(1193—1271),字肃翁,号竹溪,又号鬳斋,苏田里(今福清市渔溪镇苏田村)人。南宋端平二年(1235)以省试第一名、殿试中甲科第四名的成绩高中进士第。林希逸少年时跟从陈藻学习儒学,后又到江淮一带游历,杂取百家之长,逐渐成为广博之士,这为他后来学贯儒、释、道三教,主张三教圆融,奠定了基础。与林亦之等人不同,林希逸进士及第后长期担任各级官职,一生仕途还算顺利,并且长期担任皇帝机要秘书。林希逸敢于直陈政见,多次上书言事,政绩较为突出。

在学术文化上,林希逸主要采用通俗语言的方式,注释和讲授儒家、道家经典文献,采用融合儒道、三教并重的方式,阐发儒家和道家修身养性的基本观念,努力将已经发展成熟的宋代理学,特别是修养功夫,通俗化、日常化,对当时南宋中下层社会接受理学、提升文化水平做出了独特贡献,被称为福清籍“南宋最后理学家”。

作为宋代福清文化传播典型代表的林希逸,不仅对闽东南文化产生了深远影响,其思想更是借助兴盛的海上丝绸之路往来交流,以及福清作为港口开放城市的便利条件,随着海丝商路,在日本社会产生了深远的影响。

林希逸(1193—1271)は、字を肅翁、号を竹渓、または鬳齋とした。蘇田里(今の福清市漁渓鎮蘇田村)の出身である。南宋の端平二年(1235)、省試で1位、殿試では甲科4位の成績で進士に登第した。林希逸は少年の頃に陳藻に師事して儒学を学び、その後また江淮一帯を遊歴し、あらゆる学派の良いところを取り入れ、次第に幅広い学識を持つようになった。これは彼が後に儒、釈、道の三教を学び、三教の統合が提唱できる基礎を築いた。林亦之らと違って、林希逸は進士に合格した後、長い間各級の官職を務め、生涯の官途は順調で、しかも長期にわたって皇帝の機要秘書を務めた。林希逸は恐れずに政見を率直に述べ、何度も意見書を差し出し、政績において優れた成果をあげた。

学術文化の面では、林希逸は主に平易な言葉を使い、儒教や道家の古典的な文献を注釈したり講義したりし、儒道、三教を融合する方式を採用し、儒家と道家の修身養性の基本観念を釈明し、すでに成熟した宋代の理学、特に修養工夫を通俗化、日常化させ、当時の南宋の中下層社会が理学を受け入れ、文化を高めることに独特な貢献をし、福清籍の「南宋最後の理学者」と呼ばれる。

宋代の福清文化の典型的な代表である林希逸は、福建東南文化に大きな影響を与えただけでなく、盛んな海上シルクロードの往来交流と福清の港湾開放都市としての利便性によって、林希逸の思想は海上シルクロード商路とともに日本社会にも大きな影響を与えた。

林希逸の主な著作に『老子鬳齋口義』、『列子鬳齋口義』、『荘子鬳齋口義』があり、遅くとも日本の室町時代(1336—1573)前期、つまり中国の元代中後期に、これらはすでに日本の僧侶によって日本に伝来し、復刻出版された。鎌倉時代から戦国時代にかけて、日本の社会文化は次第に仏学を中

林希逸画像,林秋明供稿

林希逸像 (林秋明提供)

林希逸主要著作有《老子鬳斋口义》《列子鬳斋口义》《庄子鬳斋口义》,最晚到日本室町时代(1336—1573)前期,也就是中国元代中后期,这些作品就已由日本僧人传入日本,并被翻刻出版。从镰仓时代到战国时代,日本社会文化逐渐由以佛学为主转向以儒学为主,作为理学传人的林希逸,用道家思想理解儒学,引用佛道典籍阐发儒家的基本精神,这在佛教思想仍然盛行的日本社会,既容易接受,又别开生面,由佛道进入对儒学的学习,这为江户时代以后理学思想的传入,提供了社会条件。(王晚霞,2018)明清之际隐元东渡,强调学佛必先通儒,正是这一时期文化交流模式的某种延续,二者都体现了福清文化中,既具有深厚传统文化的基础,又具有包容、多元、开放的特质。

特别值得一提的是,在林希逸后裔中,有一位即非如一禅师,正是隐元隆琦禅师重要弟子之一,与隐元隆琦、木庵性瑫并称“黄檗三笔”,对日本江户时代的社会影响很大。

从林希逸到即非如一,可以清楚地看到,隐元及黄檗文化之所以能在中日文化交流过程中产生重要影响,正是立足于福清深远的文化底蕴、悠久的传统和一脉相承的历史因缘。黄檗文化,不是地方性的宗教文化,而是源远流长的中华主流文化的一部分,同时也是经由海丝重要港口城市福清的融合、发扬、传播形成的具有新的内涵特征的文人文化、华侨文化、海丝文化。