江南文人与绘画
明代江南地区的绘画艺术,既延续晋唐宋元艺术传统,又和明朝政治、经济、思想、文化的变化密切关联。明朝经历了由盛到衰的三个历史时期,江南地区的绘画同样在三个不同时期形成了各自的表现形态。
早期“浙派”绘画。江南文人受到明初政治弹压的极大打击,到了十六世纪前期,以戴进为首的浙江出身的专业画家活跃于民间,称作“浙派”。戴进(1388—1462),浙江钱塘人,早年入宫成为一名宫廷画家,因画艺超群被谗言陷害后离开宫廷,后以授徒卖画为生。戴进早年擅长精工画描的画法,比如佛像和肖像,存世的代表作有《达摩至慧能六代像》《归田祝寿图》。中年离开宫廷羁居北京,开始更多关注宋元文人画,画作不受拘束、自由放逸,创新求变。如《墨松图》,选取文人画家擅长的梅兰松竹题材,水墨写意,形神相兼。晚年,戴进回到家乡钱塘,绘画技巧更加成熟,如《携琴访友图》,简劲纵逸,奔放有动感。戴进晚年作品兼具工笔、写意之长的特点,一方面运用多种笔墨,表现描写对象的细微而真实的样貌,技巧精微纯熟,另一方面,又擅长通过寓意象征或笔墨情趣,阐发艺术家内心的文人情思,由此享有“国朝画手第一”的美誉。
“浙派”的主将还有吴伟(1459—1508),他曾多次受到皇室青睐,但个性强烈,恃才使气,不受拘束,几度出入宫廷,享受过荣耀,也陷入贫困,主要身份还是以画谋生的职业画家。吴伟存世作品以人物居多,山水其次,花鸟罕见,画风呈现多种面貌。代表作有《铁笛图》《武陵春图》《雪景山水图》《长江万里图》。他的画作题材有较浓郁的生活气息,如渔乐、樵夫、耕读等,多取自生活,画风质朴,真实自然。
変えることは死ぬまでしなかった。また、中国国内の若い世代に何回も手紙を書き、一生懸命に勉強することを忘れず、功績と名声を切望せず、清代の役人を務めないよう忠告した。日本人の友人でさえこれに感心した。もう一つの例は、日本で50年以上暮らし、結婚して子供をもうけても、明代の衣装を変えたことのない陳元贇である。本を書いても絵を描いても、年号は明代にしていたし、故郷をテーマに母国とふるさとへの強い思いを表した。隠元禅師も、さまざまな困難を克服し僧侶たちと渡日し、日本で法を広めることで、世界の変化と禅の衰退によって引き起こされた精神的苦痛に抵抗しようとした。朱舜水、陳元贇、そして隠元禅師との3人の典型的な渡日した明代の遺民には、中国文化における儒教、道教、仏教の統融合と共通性が表れ、渡日した明代の遺民というグループの文化の血潮が流れており、中国文化が染まった精神的遺伝子が引き継がれているのだ。(史可非、2012)
渡日した明代遺民のほとんどは知識が豊富で有能であり、日本の精神文化や政治情勢に重要な影響を及ぼした。
江南文人と絵画
明代の江南地域の絵画芸術は、晋、唐、宋、元時代の芸術伝統を継承しただけでなく、明代の政治、経済、思想、文化の変化と密接につながっていた。明代は繁栄から衰退までの三つの歴史的時代に、江南地域の絵画も同様にそれぞれ異なる表現形態を形成した。
初期の「浙派」 絵画。江南文学は明代初期に政治的弾圧に大きな打撃を受けた。16世紀初頭、戴進(1388—1462)をはじめとした浙江省出身のプロの画家が民間で活躍し、「浙派」と呼ばれていた。戴進は浙江省銭塘江出身で、若い頃から宮廷画家になり、絵画技術が優れていたため中傷を受け宮廷を去った後、絵画を教えたり絵を売ったりして生計を立てていた。戴進は若い頃、繊細な仏像や肖像画などの密画的絵画技法が得意で、『達磨至慧能六代像』や、『帰田祝壽図』などの傑作がある。中年になると、彼は宮廷を出て北京に住み、宋と元の文人の絵に注目し始め、画風は自由奔放で、革新的になっていった。たとえば、「墨松図」は、文人が得意な松竹梅蘭を画題にしており、写意的な水墨画の技が見てとれる作品である。晩年、故郷の銭塘江に戻り、戴進の絵画の腕前はさらに上達した。例としてシンプルで力強く、自由でダイナミックな『携琴訪友図』がある。晩年の戴進の作品は密画と写意の両方の特徴を持っており、巧妙で熟練された技を使って対象物をリアルな姿に描きあげる一方、芸術家の内面の文学的感情を筆と墨に託して表現するのが得意で、「王朝一の画家」と評価されている。
中期“吴派”绘画。明朝成化到嘉靖年间(1465—1566),以苏州府为中心的江南地区,又兴起了新的画家群体,主要代表人物是沈周、文徵明、唐寅、仇英,他们都是苏州府的长洲县人,古代属于吴地,因而被称为“吴门四家”。“四家”的绘画,突出体现文人画的典型特征,擅长运用柔和而富有趣味的笔墨法,融合诗文,以山水画为中心,积极活动。这些画家大多是主流官场之外的文人,或者科举不第,或者选择终身不仕,又或者是仕途失意之后选择归隐。所以,在思想上,他们和元朝末年的隐逸文人画家精神相投、心灵相通,都体现出一种超然于世的艺术精神。
以上这些画家大多出自书香门第,从小就接受良好的文化教育和艺术熏陶,因此,往往是身兼诗人、书法家和画家等多重身份,艺术修养极高的天才型文人艺术家。他们的绘画作品,与北宋苏轼、黄庭坚相近,无不体现出诗、书、画相结合的艺术特点,强调诗中有画,画中有诗,以书入画,充满文人风流和笔情墨趣。这其中,沈周和文徵明是“吴派”的中心人物。
沈周(1427—1509),字启南,号石田,晚年又号白石翁,一生不参加科举,从小由祖父、伯父、父亲亲自教授琴棋书画,因此年少时便酷爱文艺,诗文、书画样样精通,尤其是绘画才能,十分精湛全面,山水、花鸟、人物等主要的国画题材技法,无不精,是一位全能型的艺术家。其中,他的山水画以水墨画为主,墨色饱满滋润,尤其喜欢用浓墨点出苔藓,水和墨的使用变化多样,浓淡搭配,层次分明,此外较多使用浅红色,体现出一种淡雅高洁的风格。沈周的山水画,将诗书画印巧妙融合在画面之中,体现出综合性艺术的文人风貌,这也为文人画的发展,拓展出新的方向。沈周存世的最重要作品,包括《西山纪游图》《庐山高图》《京江送远图》等。
吴门画派的另一位代表文徵明(1470—1559),原名文壁,字徵明,因字而闻名,号稀奇山、停云生等。文徵明也是从小才艺出众,诗文书画无不擅长。绘画方面拜沈周为师,尤其擅长画山水、人物、花卉等题材,其中又以山水著称于世。文徵明的山水作品,工细中见劲健,鲜丽中见淡雅,主要表现隐逸文人的高雅情操和超凡脱俗的精神品质。文徵明的存世作品,主要有《绿荫清话图》《临溪幽赏图》《曲港归舟图》等。
呉偉(1459—1508)は「浙派」のもう一人の代表者であった。王室に何度も認められていたが、個性が強く、自身の才能を誇り、誰からも束縛されたくなかった。彼は何度か宮廷に入っては出て、出ては入って、栄光を浴びたことのあるし、貧困に陥ったこともあり、主な身分は絵画で生計を立てるプロの画家である。呉偉の作品は人物画が最も多く、次に山水で、花鳥もあるが稀である。代表作は『鉄笛図』『武陵春図』」『雪景山水図』『長江万里図』などがある。彼の作品は生活身があり、漁楽や木こり、農業、読書など日常生活を画題にしたものが多く、画風は素朴で、自然である。
中期の「呉派」 絵画。明代の成化から嘉靖(1465—1566)にかけて、蘇州府を中心とした江南地域に新しい画家のグループが現れた。主な代表的な画家は、沈周、文徴明、唐寅、仇英で、四人とも蘇州府長洲県(古くから呉の地に属していた)の出身なので、「呉門四家」と呼ばれていた。、「呉門四家」の絵画は、文人画の典型的な特徴、即ち柔らかくて趣に富んだ筆遣いと墨遣いで詩歌の作り方を参考し、山水画を中心に描かれている。この画家のグループのほとんどは、役人職から離れた文学者で、科挙試験に失敗した者もいれば、生涯仕官しないと決意した者、または役人キャリアに失敗した後に退官した者達である。したがって、彼らは元時代末期の隠逸な文人画家と意気投合し、超然とした芸術精神を持っている。
これらの画家のほとんどは読書人の家柄で生まれて、幼い頃から優れた文化と芸術的教育を受けてきた。したがって、彼らは往々にして詩人、書道家、画家など、芸術的教養の高く才能のある文学芸術家である。彼らの絵画作品は、北宋時代の蘇軾や黄庭堅と似ており、詩、書道、絵画の組み合わせの芸術的特徴が見え、詩には絵があり、絵には詩があり、この詩と絵の統合が強調され、文人らしい趣きに満ちている。その中で、沈周と文徴明は「呉派」の代表人物である。
唐寅(1470—1524),因为是庚寅年生人,肖虎,所以取名唐寅,字伯虎,号六如居士。唐伯虎同样擅长山水、人物、花卉等绘画题材。他的绘画作品,在综合南派写意画和北派青绿山水的两种风格方面,更为突出,具有更加鲜明的个性,不同的绘画题材,往往都饱含强烈和独特的思想意境,突破了吴门画派其他画家那种闲雅悠远的风格特征。他的存世作品主要有《风木图》《王蜀宫妓图》《骑驴归思图》《桐山图》等。
晚明画坛流派林立。晚明的江南画坛上,出现一批不拘守传统,强调用艺术作品直接抒发自我性情的个性鲜明、风格卓异的画家,其中包括徐渭及其泼墨大写意花鸟画,还有陈洪绶及其夸张变形的人物画等。由于这批画家各自艺术个性都很鲜明,这一时期的画坛,可谓流派林立、异彩纷呈。比如山水画领域,出现了董其昌为代表的“松江派”、蓝瑛的“武林派”、项圣谟的“嘉兴派”等。在技法方面,不同的画家也是各具特色,推陈出新。例如花鸟画方面,陈淳、徐渭等人着重水墨写意;人物画方面,吴彬、丁云鹏、陈洪绶、崔子忠等人多表现变形怪异的人物笔法,曾鲸则更主张吸收西洋绘画技法,形成独特的“墨骨法”等。晚明以来这种追求出新怪奇的现象,可视作这些画家极具个性的文人批判精神的侧面反映,这一风气也一直延续到了清初。
董其昌(1555—1636),字玄宰,号思白、香光居士,松江华亭人。董其昌是晚明乃至古代绘画理论的著名代表,总结和提出了以南派写意水墨画为核心的所谓“文人画”理论,认为绘画主要是表达文人心中的人格境界,不在乎形似工巧,强调艺术创作最为核心的是艺术家偶然兴起的顿悟感发。在创作方面,董其昌擅长山水画,并且以水墨山水见长,而轻视华美艳丽的青绿山水。不论是理论还是创作,董其昌的艺术追求,都深受禅宗的影响,体现出一种枯淡、寂静的艺术风格。这既是晚明书画的整体风气,也深深影响了以黄檗书画艺术为代表的禅宗僧侣艺术的形成发展,换句话说,之后出现的黄檗文化中的艺术成就,主要正是明代中期以来兴起的江南文人艺术的产物。董其昌现存的绘画代表作是《秋山图》《集古树石画稿》等。(单国强,2004)
随着海上商贸往来,明朝遗民和黄檗僧侣,陆续把中国的画作引进日本。以中国文人画的作画理念为规范,摄取以南宗画为首的明清绘画的各种样式,日本终发展出独立画风的系谱——南画,而南画可以称作“日本文人画”。(森正夫,2007)
沈周(1427—1509)、字を启南、号を石田、晩年には白石翁とした。一生科挙に参加せず、幼い頃から祖父、伯父、父に琴棋書画を習い、そのため若い頃は文学や芸術、詩、書道、絵画が好きで、特に絵画の才能は非常に精巧で全面的で、山水、花鳥、人物などの主要な中国画の画題の技法のすべてに精通した全能型の芸術家である。なかでも山水画は水墨画を主として、墨の色は濃くて潤いがあって、特に濃い墨でコケを描いくのが好きで、多種多様な水と墨の使い方で濃淡を組み合わせ、また浅い赤色を比較的多めに使い、上品で高潔なスタイルを表していた。沈周の山水画は、詩、書道、絵画を巧みに融合し、文人の芸術的スタイルを反映し、これが文人画の発展に新たな方向を広げた。代表作に『西山紀遊図』『廬山高図』『京江送遠図』などがある。
「呉派」絵画のもう一人の代表者は文徴明(1470—1559)である。彼は明代中期の文人で、書画家だった。初名は文璧、徴明は字。のちに字をもってその名が知られるようになった。号は衡山、稀奇山、停雲生等とした。文徴明も幼い頃から優れた才能を持ち、詩、書道、絵画が得意だった。絵画は沈周に習い、特に山水画、人物画、花卉などの画題を描くのが得意で、その中でも山水画で最も称賛されていた。文徴明の山水画は、淡彩淡墨による細やかで秀麗な画風をつくりあげ、淡中墨と擦筆が用いられ、淡い色彩と平明な自然描写を特色とし、主に隠士の文人の優雅な感情と並外れた精神的資質を表現している。代表作に『緑蔭清話図』『臨渓幽賞図』『曲港帰舟図』などがある。
唐寅(1470—1524)は、庚寅年生まれたため、唐寅、字に伯虎と名付けられ、号を六如居士とした。唐寅も風景、人物、花卉などの画題を描くのが得意である。彼の絵画は、北宗画と南宗画を融合し、より明確な個性を持った優れた山水画を生み出した。異なる絵画の題材は、往々にして強烈で独特な思想の境地を含み、呉門画派の他の画家のような閑雅で悠遠なスタイルを打ち破った。主に『風木図』『王蜀宮妓図』『騎驢帰思図』『桐山図』などの傑作を残している。
明代後期には、多くの流派が林立。明代後期の江南絵画界には、伝統にとらわれず、芸術作品で独特の個性をそのままに表現する画家がたくさん登場した。なかには、伝統にとらわれずに絵画の捨象性、水墨の偶然性を追究する徐渭と、誇張され奇矯な人物画を描く陳洪綬がいる。独特の芸術的個性と新