隐元禅师东渡因缘
十七世纪的日本,在德川幕府统治之下,正步入时间长达265年的江户时代。虽然期间实行闭关锁国政策,但是为了增加财政收入,幕府还是默许了部分和中国、朝鲜以及东南亚诸国进行的海上贸易,已经延续千年的海上丝绸之路,也得以局部维持贸易。此外,德川幕府还同欧洲的西班牙、葡萄牙、荷兰等国,开展有限但密切的经贸往来。伴随着日本与西方国家商业往来的频繁,天主教传教士也进入日本传教,特别是在长崎等地,苦于封建主残酷压迫的日本底层民众,因此纷纷放弃佛教,皈依天主教寻求新的精神安慰。这些社会文化的新形势,无疑加速了原本困难重重的日本禅宗的消沉。而中国新儒学的传入,更是加重了对日本禅宗的打击。日本佛学界一些有理智的僧人,率先想到邀请中国僧人东渡弘法,以期振兴处于沉滞状态下的日本佛教宗风。隐元禅师的赴日正是顺应了日本当时的政治和宗教需求。
この賢明な決断は、まさに仏のように慈悲深い性格によるものである。6月19日、すべての準備が整い、隠元禅師は明の朝廷から下賜された袈裟を着て、八十人の僧侶を率い、『大蔵経』を手に持って水陸法会道場に登り、法具を手にして魚鼓を叩き、声をそろえて読経し、民衆の平安と健康、国家の安定、社会生産の回復を祈った。聴衆はみんな感激して涙にむせんだという。
その後、隠元禅師は警備を強め、行動を慎み、毎日僧徒を率いて薪を市で販売し、敬慕しない者はなく、それゆえに山門は無事であった。1652年、六十一歳の隠元禅師はある日、弟子たちに戒律を伝え、「戒律は洪武十年から伝え始め、成祖昭世に至って遠く伝わった」との一句を読んだ時、突然感傷的に泣き出した。皆は愕然としたが、後にその理由を尋ねると、隠元は「明太祖の元号を聞いた時、亡国の痛みを隠すことができず、涙が止まらなかった」と言った。(平久保章、1979)隠元禅師の心の中で、明は彼の心身の拠り所であり、ずっと変わらなかった。それはまさに彼が文化の遺民としての目に見えない抗争だったのではないだろうか。
二、隠元禅師渡日の理由
十七世紀の日本は、徳川幕府の支配下にあり、265年に及ぶ江戸時代に入った。幕府は鎖国政策を実施したが、財政収入を増やすため、中国、朝鮮、東南アジア諸国との海上貿易の一部を黙認した。それにより、千年以上の歴史を有する海上シルクロードの一部は続けられた。また、徳川幕府は西欧のスペイン、ポルトガル、オランダなどの国と、限られているが密接な経済貿易往来をしている。日本と西洋諸国との頻繁な取引に伴い、カトリック宣教師は日本に入って布教をしはじめた。長崎などでは、重い税の取り立てに苦しんでいた日本の民衆は仏教からカトリックに改宗して精神的慰めを求めた。こうした社会文化の新たな情勢が、日本の禅宗の衰退に拍車をかけたに間違いない。それに加え、中国の儒学の伝来は更に日本の禅宗に打撃を与えた。沈滞状態にある日本仏教の宗風を振興するため、日本仏教界の一部の理性的な僧侶は中国の僧侶を招いて法を広めようと思いつい