为官持正的黄祖舜

为官持正的黄祖舜

黄祖舜(1100—1165),字继道,晚号巩溪宫人,平南里(今福清东瀚镇)人。黄祖舜早年曾师从理学家胡安国,北宋宣和六年(1124)进士及第,不过到了南宋绍兴初年,才被任命为浙江衢州教授,后来得到赵构召见,升迁为守军器监丞,后又担任屯田员外郎、兵部员外郎、吏部员外郎等。

黄祖舜在朝为官期间,刚直持正,不媚权贵。当时权臣秦桧试图拉拢理学官员,但黄祖舜并没有因此对秦桧趋炎附势。他反对秦桧奉行的割地、称臣、纳贡的议和政策。他主张对金国入侵坚决进行抗击,为此受到了秦桧的排挤,被宋高宗调出了京城,担任主管皇族事务的闲职。

绍兴十八年(1148),兴化军知事傅自得,正在审理秦桧下属诬陷泉州太守赵令衿贪污的案子,傅自得虽然明知赵令衿是因为不愿与秦桧同流合污而遭诬陷,但又害怕秦桧的淫威,怕被报复,左右为难。听了别人的建议后专门登门拜访了黄祖舜。黄祖舜告诉他说,审理案子要以事实为依据,不能听信别人的一面之词,只有坚持实事求是,才能使案情大白。傅自得听取了黄祖舜的建议,最终没有定赵令衿的罪。

黄祖舜在政治上也多有建树。例如针对当时用人不重品德的做法,他上书朝廷,建议实行乡荐制度,作为科举补充,通过层层推荐考核的办法,给国家多举荐一些不论品行还是学识都十分出众的人。他的建议得到宋高宗的赞同并实施。绍兴二十九年(1159),秦桧死后,宋高宗才再次起用黄祖舜并让他担任副宰相。高宗提出要赐新近病死的秦桧儿子秦熺“太傅”官衔,黄祖舜则严肃地指出,秦桧父子祸国殃民、民怨沸腾,此举将失去人心。最终,高宗收回成命。

けるように命令した。その結果、九個の箱を開けても、中には瓦礫や石ころばかりだった。蔡京は恥かしさ余って怒り出した。最後の箱を開けると、文房具や本しかなかったが、箱の底にはもう一つのものが隠されていたようだ。蔡京は青ざめた顔で「これは何ですか」と訊ねた。鄭侠はこう答えた。「これは埃払いです。小官はこれで時々掃除し、心も清らかに保てたのです。」そう言いながら、手の中の埃払いを手にして、わざと蔡京の体を軽く拭き、笑いながらこう言った。「そなたのこの体は、恐らくもうきれいにできないでしょう」。蔡京はへどもどして何も答えられなかった。これが「一払い先生」という称号の由来である。(兪達珠、2008)

官吏として正義を貫く黄祖舜

黄祖舜(1100—1165)、字を継道、晩年に号を強渓宮人とし、平南里(今の福清東瀚鎮)の出身である。黄祖舜は若い頃、理学者の胡安国に師事し、北宋宣和六年(1124)に進士に及第したが、南宋紹興初年になってから浙江衢州の教授に任じられ、その後趙構に召され、守軍器監丞に昇進し、さらに屯田員外、兵部員外郎、吏部員外郎などを務めた。

黄祖舜は在官している間、権力者に迎合することなく、まっすぐな性格の人物であった。当時、権臣の秦桧は理学官を登用しようとしたが、黄祖舜は秦檜に媚びることなく、秦桧が実行した地割、称臣、納貢の議和政策に反対した。金国の侵略に断固として抵抗すると主張したが、秦檜に排除され、宋高宗に都から転出され、皇族の事務をつかさどる閑職に就いた。

紹興十八年(1148)、興化軍知事であった傅自得は、秦桧の部下が泉州太守の趙令衿の汚職を冤罪した事件を審理していた。傅自得は、趙令衿が秦桧と同流になりたくなくて中傷されたことを知りながらも、秦桧の暴威や報復を恐れ、板挟みになっていた。人のアドバイスを聞いて、わざわざ黄祖舜を訪ねた。黄祖舜は、事件の審理は事実に基づいたものでなければならず、他人の言い分を聞いてはならず、事実に基づいて真実を求めてこそ、事件の真相を明らかにすることができると教えてくれた。傅自得は、黄祖舜の助言を受け、結局趙令衿の罪を決めなかった。

黄祖舜は政治的にも多くの功績を残した。例えば、道徳的な人格が重視