长崎僧俗四次恳请

长崎僧俗四次恳请

第一次,菩萨梦嘱,禅师婉拒。日本长崎有著名的“唐三寺”——兴福寺、福济寺和崇福寺,都是出于自身信仰需要,由在日华人华侨和中国僧人发起兴建。1652年4月的一天,兴福寺的东渡名僧逸然性融(1601—1668)住持做了一个神奇的梦,他梦见南海观音菩萨对他说,如果要拯救日本佛学界的困境,必须迎请福清县黄檗山万福寺的隐元禅师前来,他就是中国的“鉴真和尚”第二。梦醒后,逸然性融特地去德川幕府申请许可,经过批准,他联名日中两国僧人十三名,向隐元禅师发出赴日弘法的第一封请启。信中写道:“唐宋以后四百年间,日本禅宗宗风低迷。大和尚您是临济正统传人,要法雨均沾,拯救沉迷的扶桑。”(平久保章,1979)信函委托福州船主何素如居士,亲自送到万福寺。何素如回国如期将信函提交隐元禅师,恳请他东渡弘法。此时的隐元禅师对长崎邀请尚无想法,他回信说自己年事高,路途遥远,加上语言、礼节、佛法、人情不同,以行道困难拒绝了邀请。不过信中最后话锋一转,说道:“如果确实因为有缘分,各方期待,我当然也应该去日本弘法。”(平久保章,1979)意思是说待因缘出现,时机成熟,护法神显相,日本王臣重视佛法,一定会应召渡日开化。

た。ここから隠元禅師の禅心妙語が一層伝わり、その高僧像は日本の僧俗界に深く浸透した。隠元禅師の渡日の理由について、これまでいろいろの説が述べられてきたが、それらを大別すると次の三つに集約される。

長崎僧俗からの四度にわたる懇請

最初、菩薩が夢に託し、禅師は婉曲に辞退した。日本の長崎には有名な「唐三寺」——興福寺、福済寺と崇福寺がある。いずれも在日の華人華僑と中国の僧侶によって建てられた寺院である。1652年4月のとある日、興福寺の渡来名僧である逸然性融住職は不思議な夢を見た。南海の観音菩薩から、日本仏学界を苦境から救うためには福清にある黄檗山万福寺の隠元禅師を迎えなければならない。夢から覚めた逸然性融は取り急ぎ徳川幕府に許可を申請し、日中両国の僧侶十三人と連名で隠元禅師に最初の請啓を送った。手紙には、「唐宋以降四百年間、日本禅宗の宗風は低迷した。禅師は臨済正統の伝承者であり、低迷した日本の仏教界をお救いください」と書かれている。(平久保章、1979年)書簡は福州籍船主の何素如居士に依頼され、自ら万福寺に送られた。何素如は予定通り隠元禅師に書簡を提出し、東渡弘法を懇願した。これに対して、隠元は文化も違うし、言葉も通せず、自分も老齢であるからとして断った。しかし、手紙の最後には一転して、「もし機縁があり、皆が期待しているのであれば、私ももちろん日本に行って法を広めなければならない」と述べている。(平久保章、1979)因縁を待ち、時が熟し、護法神が姿を現し、日本官府側が仏法を重視すれば、必ず応じて日本に渡って開化するという意味である。

二度目の隠元禅師への懇請について、同年8 月、隠元禅師から返信を受けた逸然性融は2 通目の請啓を書き、道は遠いが心は同じであり、人情、言葉などは障害ではないことを明らかにし、路費用百金と香帛八種を添えて再び何素如に依頼した。途中海賊に奪われて、隠元禅師には届かなかった。

三度目、度重なる懇願に禅師はためらった。翌年三月、逸然性融は三通目の請啓を送り、長崎奉行や全国の僧俗が隠元禅師の渡日弘法を切望していることを示した。隠元禅師は逸然性融の誠意に心を打たれたが、日本への渡航

第二次,再次请启,未达禅师。同年八月,收到隐元禅师回信的逸然性融又写了第二封请启,阐明两国道远心同,人情、语言等不是障碍,并附上路资百金、香帛八种再次委托何素如送达。可是此次商船被海贼所盗,这封请启没有到达隐元禅师手上。

第三次,继续请启,禅师犹豫。第二年三月,逸然性融继续写了第三封请启,表示长崎奉行和全国僧俗都迫切希望隐元禅师渡日弘法。隐元禅师被逸然性融的诚意打动,但首先黄檗公案未了,其次黄檗山万福寺诸护法和大众苦苦挽留。不过对于赴日一事,他似乎有了一点动摇,信中说他派了弟子前往长崎打探消息,待其回来汇报具体情况后再做决定,可见其谨慎态度。

第四次,持续请启,禅师答应。十一月,逸然性融与七名长崎唐人联名发出第四封请启,强调说长崎奉行已经向江户幕府报告了邀请之事,幕府同意了。十二月,隐元禅师复信说:“如果早知道各位禅道诸人如此矢志不渝的求法向上精神,不忘探求本心,当下了悟见性明心,世间烦恼全部除尽,本心净见无余,那么,老僧我早就到了扶桑弘法相助。”(平久保章,1979)这封信也基本确定了隐元禅师赴日的决心。