制瓷

制瓷

明末清初社会动荡不安,福建因为处于远离京城的沿海地区,所以保存了丰富的中原物质文化和精神文明。作为晚明文人文化代表之一的黄檗文化,禅僧东渡日本将代表当时明代士大夫的生活方式和精神文化都带到了日本,这其中就包括中国的陶瓷和制陶技术。出于对中国瓷器的欣赏喜好,也伴随着两国饮食文化、茶文化的交流、融合与发展,日本终在模仿基础上创新,渐渐形成了独特的日本陶瓷文化。

日本国土面积虽小,陶瓷产地却多得惊人,可以说是一个“陶瓷大国”。以六大古窑为代表的传统制作工艺绵延至今,日本各地工匠依各方水土,合各种用途,将陶土捏合成型后,经过太阳和风的洗礼,干燥后焚薪烧窑。“六大古窑”的存在让现代日本人能够重新审视自己的生活,以及与自然的相处方式,与此同时,也为我们提示了答案。

福建平潭九梁一号明代沉船发掘的运往日本的瓷器,福州博物馆藏,温志拔摄

福建平潭九梁1号明代沈没船から発掘された日本へ輸送されるはずだった磁器 福州博物館所蔵 (温志抜撮影)

一つの文化、二つの海路という言葉で要約でき、一つの文化は黄檗文化を指し、二つの海路は陶磁器の道と文墨の道を指す。

製磁

明末清初では社会の動乱がやまず、不安定で、福建省は都から遠く離れた沿海部に位置するため、中原の物質文化や精神文明が依然と多く保存されていた。明代後期、黄檗禅僧が日本に渡り、当時代表的な士大夫の生活様式と精神文化を日本に持ち込んだとも言えよう。当時の中国陶磁器と製陶技術もその中に含まれていた。中国磁器に対する享受から、両国の飲食文化、茶文化交流の融合ないし発展とともに、日本における模倣陶磁器とその生産体制も整い、成熟してきた。

中国の磁器に対する鑑賞の好みから、また両国の飲食文化、茶文化の交流、融合と発展にも伴い、日本はやがて模倣の上で革新を試み、最終的に独自の特色を持つ日本陶磁文化が形成された。

日本は国土が狭いが、陶磁産地は驚くほど多く「陶磁大国」と呼ばれるほどである。六大古窯を代表とする伝統的な制作技法が今日へと伝わっており、日本各地の職人たちはそれぞれの風土に従って、様々な用途に使用する為に陶器を捏ね上げ形成した後、太陽と風により乾燥させ、薪を焚き窯で焼いていた。「六大古窯」は現代の日本人に生活や自然との接し方を見直させたと同時に、その答えや有難みを示してくれた。

歴史を遡ると、日本の陶磁器は古墳時代に朝鮮半島から伝わった須恵器がその起源で、飛鳥、奈良時代には中国大陸から伝わった釉の塗られた陶器などの舶来品もあり、「六大古窯」はまさにその技法を完全に熟知した上で大量生産へと辿り、やがて民衆の間で流行らせ、一大産業として形成されたわけである。

いわゆる「六大古窯」とは、中世時代から陶磁器の生産制作に携わり現在でもなお衰えない代表的な六大産地(常滑、越前、瀬戸、信楽、丹波、備前)の総称である。都市名で言うと、愛知県常滑市、福井県越前町、滋賀県甲賀市、愛知県瀬戸市、兵庫県丹波篠山市、岡山県備前市で、この六都市で「六大窯日本遺産活用協議会」組織している。協議会は千年に渡って積み重ねてきた各地の技術と文化を改めて評価し、宏観の角度から「六大古窯」の魅力を再発掘しようとしている。2018 年春に日本で開催された「古竈の千年の旅」プロジェクトは、陶磁器を通して人類の根本を成す生存と生殖、人と自然の関係、器物創作の根源などの問題を再考することを目的としていた。(森村建一、曹建南、2007)

追溯历史,日本陶瓷源于古坟时代从朝鲜半岛传入的须惠器和飞鸟、奈良时代从中国大陆传入的施釉陶器等舶来品,“六大古窑”正是将其技法融会贯通后,进行大量的生产,普及到民众间并流传起来,最终形成一大产业。

所谓的“六大古窑”,指的是陶瓷古窑之中,从中世时期开始生产制作一直延续至今的六大代表性产地——常滑、越前、濑户、信乐、丹波、备前——的总称。作为产地的六个市町,包括爱知县常滑市、福井县越前町、滋贺县甲贺市、爱知县濑户市、兵库县丹波篠山市、冈山县备前市,联合组成了“六大古窑日本遗产活用协议会”,协议会试图重新评价各个产地历经千年积淀下来的技术与文化,从宏观的角度再次发掘出“六大古窑”的魅力。2018年春天在日本开始的“六大古窑的千年之旅”项目,就在于通过陶瓷,重新考察人类根本性的生息繁衍、人与自然的关系、器物创作的根源等问题。(森村建一、曹建南,2007)

以“六大古窑”之一的濑户美浓窑为例,其对于福建陶瓷工艺方面的模仿最为突出。应该说,濑户窑并非单纯的模仿,而是依据本土茶文化所需要的器皿和饮食文化的习惯,有针对性地进行模仿生产。特别是在纹饰方面,濑户窑生产的瓷器,多空间宽大,同时多用各类花草等反映自然的图案作为主要装饰题材,力求满足日本民众的自身需求和爱好。

濑户美浓窑的制陶产业,始于中国的宋元时期。十二世纪末、十三世纪初,即中国的宋元易代时期,中国经历了战乱频繁、社会动荡的时代,有大量的福建籍制陶手工艺人,尤其是闽南陶工通过海上商路移居日本。这些手工艺人漂洋过海,为包括濑户在内的日本制陶业的发展,创造了有利条件。他们或者直接参与濑户美浓陶瓷的生产制作,或者传授相关知识和技术,濑户美浓窑由此开始对福建陶瓷,如建窑系天目茶碗、漳州窑系青花的器皿、德化窑系的永春、安溪、南安等,进行大量模仿。这里生产制作的陶瓷,在学习接受福建制陶工艺的同时,也在一定程度上,逐渐朝适合日本茶道文化的需求方向发展,不断改变自身器形和纹饰,体现出日本民族文化特色。(森村建一、曹建南,2007)

到了朱明王朝以后,宋元的抹茶文化遭到禁止,取而代之的是茶叶冲饮法。而与之相反,抹茶文化却在日本作为茶道文化得以继承保存下来。随着茶道文化在社会各阶层的普及,日本社会对各种不同规格的陶瓷茶具的市场需求也与日俱增。为了满足这一需求,以天目茶碗为代表的陶瓷茶具模仿生产,便成为这一时期各大窑场主要生产内容。

「六大古窯」の瀬戸美濃焼を例にとって、福建省の陶磁器工芸を真似たことが最も顕著に現れている。と言うより、瀬戸竈はただ単純に模倣するのではなく、本土の茶文化に必要な器具と飲食習慣に合わせて、需要に応じて模倣し生産したと言った方がよい。特にその模様では、瀬戸焼の多くは空間的に余裕をのこし、そこに草花のような自然を用いた図形を多用し、日本民衆の好みに合うように尽力した。

瀬戸美濃焼の製陶産業の起源を中国の宋元時期に求めることができる。12 世紀から13 世紀へ移るころ、即ち宋元交代の時期は戦いが頻繁に起きた動乱の時代で、福建籍の陶芸家たち、特に福建省南部の閩南地方の陶芸家たちが大勢海を渡り日本に移住した。日本に来たこれらの陶芸家たちは瀬戸を含む日本の陶器産業の発展に大きく貢献した。直接的にせよ間接的にせよ、瀬戸美濃焼の製造、生産に関与しはじめてから、中国由来の知識や技術を使い、瀬戸美濃焼は福建陶磁器、例えば建窑系の天目茶碗、漳州系青花の器具、德化系の永春、安溪、南安等を大量に模倣しはじめた。ここで生産された陶磁器は福建省の製陶技術を受け入れつつ、日本の茶道文化に合うように、やがてその形状や模様が改変され日本独自の民族的特徴が現れた。(森村建一、曹建南、2007)

朱氏明朝になってから、宋元における抹茶文化は禁じられ、取って代わったのは淹茶法であった。その代わりに、抹茶法は日本では茶道文化として保存された。茶道文化が社会各層に普及されるにつれて、日本社会では違う規格の陶磁製茶器に対する需要も日に日に増していった。この需要を満たすために、天目茶碗に代表される陶磁器茶器の模倣生産は、この時期において各大窯場の主な生産内容となっている。

十六世纪后期,也就是日本战国时代末期,统一了日本列岛的丰臣秀吉,为继续稳固自己的地位,转移国内矛盾,选择进攻作为明朝藩属的朝鲜半岛。战乱阻断了景德镇青花瓷器为主的陶瓷进口,日本转而开始了漳州窑青花、白瓷及其模仿产品——志野陶瓷的生产,以填补景德镇青花瓷的市场缺口,这是日本模仿制陶业的新阶段。福建与日本之间的海上贸易开始变得更为繁盛,这一时期福建漳州窑的青花瓷,也不断传入日本,从模仿青花瓷、白瓷开始的志野茶陶产业也迅速发展,以满足日本民众茶道文化的需求。

福建平潭碗礁一号沉船遗址发掘的康熙瓷器,福州博物馆藏,温志拔摄

福建平潭碗礁1号沈没船遺跡で発掘された康熙磁器 福州博物館所蔵 (温志抜撮影)

十六世紀後期、即ち日本戦国時代末期に、既に日本列島を統一した豊臣秀吉は自らの地位を固めようとするため、彼は国内に生じた矛盾や衝突を外部に向かわせ、当時明朝に従属していた朝鮮半島を侵略の対象に決めた。戦乱は景徳鎮の青花磁器を主とする陶磁器の輸入を遮断したため、その市場における不足を埋めようと、日本は漳州窯の青花、白磁とその模倣製品である志野陶磁器の生産を始めたが、これは日本の模倣陶磁業の新しい段階である。福建省と日本の間の海上貿易はより盛んになり、この時期に福建省漳州窯の青花磁も、絶えず日本に伝わり、青花磁、白磁を模倣したことから始まった志野茶陶産業も急速に発展し、日本民衆の茶道文化の需要を満たしている。

上記のように、日本における各窯の製陶工芸や産業発展は決して日本国内の事情によるものでなく、中日両国における政治的、社会的変革、海上貿易や文化伝達の産物にほかならない。両国の職人による長期の交流、交通と影響の下で黄檗文化が日本に移入され、茶道文化の新たな発展を背景に現れた陶磁器に対する巨大な需要に応じながら陶磁器における文化的変革を推し進めた。同時に、黄檗禅僧は日本に渡り、中国茶器などの物質文明ももたらし、日本の製陶業の新たな発展、ひいては磁器文化の変容と繫栄に直接に関与したと言っても過言ではない。

隠元の東渡開宗は、宗教哲学の解釈だけでなく、人文科学の伝達でもあった。それは中国漢民族の寛大さ、忍耐力、恢弘、そして不撓不屈の精神、一方では仏教の慈悲深さ、怨親平等、衆生済度の修養を現し、彫塑、書画、飲食、医学の多方面から日本仏教文化に刺激を与え、数え切れない成果を上げた。日本の仏教文化を滋養すると同時に、中日文化交流史に特筆すべき鮮やかな一ページを残した。

日本学者の柳田聖山が「近世日本の社会進歩は、どこから見ても黄檗文化の影響なしでは語ることができない」(柳田圣山、1992)と述べたように、こうした様々な文化交流の中心にあった黄檗文化は今日にいたってもなおその姿を垣間見ることができる。

隠元、朱舜水らの事績はすでに歴史と化しつつも、黄檗文化の影響は現在でもなお続く。中日両国各自の発展事情、あるいは両国国交の現在も、既に隠元の時代と大きく変わっている。しかしその両国の歴史を生きてきた人々の生活において、重要な影響を残した黄檗文化の人物物語、物質文明は未だに実生活、歴史の記憶および伝統文化の中に残っているのである。

综上所述,我们可以看到,日本各大窑的制陶工艺和产业发展,并非国内陶瓷生产技术独立发展的结果,而是中日两国政治社会变革、海上经济贸易往来以及文化传播、互通的产物。在两国手工艺人长期的交流、往来和影响下,在黄檗文化传入日本,并推动茶道文化新发展的背景下,形成了日本社会对陶瓷器具的巨大需求,以及瓷器中的文化元素变革。与此同时,黄檗禅僧东渡日本后带去的中国茶具等,也直接推动了日本制瓷业的新发展,以及瓷器文化的转型和繁荣。

隐元的东渡开宗,不仅是宗教哲学的阐扬,也是人文科学的宏播。除了阐扬汉民族的宽厚、坚忍、恢宏、不屈不挠之精神与佛家慈悲为怀、怨亲平等、普度众生之修养外,举凡雕塑、书画、饮食、医学等各方面对日本佛教文化的陶熔鼓铸,亦多有卓越的成就,而在滋养日本佛教文化的同时,更为中日文化交流史写下粲然的一页。

正如日本学者柳田圣山所述:“近世日本的社会进步,无论从哪个方面看,离开黄檗文化的影响都无法解释。”(柳田圣山,1992)以上所述诸多方面种种交流表现出来的黄檗文化,时至今日仍无处不在、有迹可循。

隐元、朱舜水等人的事迹尽管业已成为历史,但黄檗文化的影响至今仍在延续。时至今日,中日两国各自发展情况,以及两国关系的现状,也与隐元所处的时代迥然不同,但这些曾在中日两国历史上和民众生活中产生过重要影响的有关黄檗文化的人物故事、物质文化,至今仍然留存在现实生活、历史记忆、文化传统之中。