饮食文化

饮食文化

明末清初东渡的黄檗禅僧,不仅在建筑、雕塑、书画等方面,阐扬中土之风,而且在日常生活方面,亦因处处表现出祖国之风而独树一帜。其中尤为突出的是,饮食方面不改故土习俗,将中国式的烹调、饮食习惯及食物传至日本,对当时的日本饮食生活造成颇大的震撼与影响。

江户幕府虽然从1639年开始就奉行闭关自守国策,但从长崎的出岛东传日本的中国饮食却仍然不少,如《长崎夜话草》卷五所列举由我国东传的点心有香饼、大胡麻饼、砂糖鸟罗保衣、香沙糕、火绳饼、胡麻牛皮、玉露糕、贺馒头等,名目繁多。此一时期东传的饮食中,最具特色的,便是随着隐元东渡而盛行于东瀛的“黄檗普茶”斋食,亦即现今日本人所称的“普茶料理”。

黄檗山“普茶料理”,福清黄檗文化促进会供稿

普茶料理 黄檗山 (福清黄檗文化促進会提供)

した飲食の中、最も特色があるのは、隠元東渡により日本で流行になった「黄檗普茶」という斎食で、現在、「普茶料理」とも呼ばれている。

隠元が長崎の興福寺に入ったばかりの頃、妙心寺の僧侶虚欞了廊がその名を慕って参詣しに行った。その後、彼は書簡で黄檗僧の日常飲食について「一日三食で、朝、昼におかゆ、夜にお茶と果物を食べるのが毎日の決まりである。その間にはお菓子やお茶を1日に6,7回摂り、太って腹が出ており、日本とは大いに異なる。」と書いてある(川上孤山『妙心寺史』,京都:同朋舎,1975年,458ページ)。この描写は誇張しているかもしれないが、当時の食習慣はこれまで日本の禅僧とは異なることが推測される。

隠元は、明朝式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲンマメ、モウソウチク、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を日本へもたらし、また、中国式の「普茶料理」を出した。普茶料理の基本的な特徴は「席に上下の区別がなく、人も食べ物も同じ」の教義に基づき、基本的な原則は4人でテーブル(短足)を囲んで、皿の中の料理を共有することである。森末義彰、菊地勇次郎の共著『改稿食物史』は、このような斎食を大体以下のように描いている。「テーブルの上の料理は昔の唐風の宴席と同じ、貴賤の区別がなく、皆は誠実に向き合う。器の中には箸や食べ物などが置いてあり、主客が順番に味わう。盃とグラス杯は別々に用意して、酒を楽しむ時はお互いに杯を交わして飲む。出汁が食卓にこぼれないのがマナーで、こぼれたときはすぐに拭く。箸で食べ物を挟むには、小皿に置いて食べなければならない。左手にスプーンを持つ。骨は皿に入れ、食べ終わるとすぐに殻入れに入れなければならない。席では上品な言葉をを使わなければならない。例えば、小皿を「碟儿」や「皿子」、土瓶を「茶瓶」、箸を「歯筋」と呼ぶ。赤い中国の懐紙には福禄寿などの縁起の良い文字が書かれている。客の酒の量に応じて,臨機応変に酒を注ぐ」。(森末義彰、菊地勇次郎、1970)このように、主客はそれぞれ箸を持って食卓を囲んで、貴賤を問わず、わだかまりなく食事をすることは、当時の日本の封建社会の厳格な食事マナー、または席の間に頻繁に奔走することや、酒を捧げて掛け声をかけるのと比べて、実に異なる風情があった。最初に長崎に伝わったこの精進料理は、やがて摂津富田や黄檗の各寺院、中国禅僧が訪れた各地に伝わり、万福寺の前に「普茶料理」の専門店までも登場した。このことから、黄檗の斎食は当時、日本で人気を呼んだことがわかった。

隐元初进长崎兴福寺时,妙心寺僧虚棂了廊曾经慕名前往参谒,后来在他写给秃翁的尺牍中,提到黄檗僧的日常饮食云:“食物一日三餐,早晨、中午吃粥饭如常,甫又吃粥,入夜吃茶果,为每日固定的形式。其间并不时有点心、茶,日食六、七次,大腹便便,与日殊异。”(川上孤山《妙心寺史》,京都:同朋舍,1975年,第458页)此一描述或许有些夸大不实,然却可由此推知隐元当时的饮食习惯与此前日本禅僧不同。

隐元将明朝风格的各种文化与中国禅宗一起引入日本。对绿豆、胡萝卜、西瓜、毛竹、莲藕等的食用文化由禅宗大师们进行介绍。与此同时,他们还推出了中式素食菜肴“普茶料理”。普茶料理的基本特征是依据“座无上下区别,同样同物”的教义,基本原则是四人围一桌(短腿),共享盘中的菜肴。森末义彰、菊地勇次郎合著的《改稿食物史》描述此种斋食云:“桌上的料理与以往唐风的宴席相同,无贵贱之分,大家恳诚相待。器皿中放着筷子、食物等,由主客依序赏玩。玻璃杯、酒杯,分别备置,酒酣之际,互相交杯饮酒。汤汁不得溢出餐桌,溢出时应随即擦拭。以筷子夹食物,须置于小碟子来食用。左手持汤匙。骨刺应放在盘子里,并随即倒入渣斗内。席中须使用雅言,如称小盘子为‘碟儿’或‘皿子’;称泥茶壶为‘茶瓶’;称筷子为‘牙筋’,同时,在红色的中国餐纸上面,题有福禄寿等吉利文字。视客人的酒量,临机斟酒。”(森末义彰、菊地勇次郎,1970)像这样,主客各持筷子围着餐桌,不分贵贱,毫无隔阂进食的情形,与当时的日本封建社会之严格规定餐食礼仪,以及于席间频频奔走、献酒吆喝的习俗相比较,实有不同情趣。因此,首先传于长崎的此种斋食,不久便普及于摄津富田、黄檗各寺院及中国禅僧所到之处,而在万福寺前等地竟出现了“普茶料理”的专卖店。由此可知,黄檗斋食在当时是颇受彼邦人士欢迎的。

普茶料理作为黄檗宗临济正宗的一种教义传达开来。与日本的斋菜一样,这是一道不使用任何动物食材的中式素食菜肴,烹饪方法基本是用植物油油炸或炒制。所谓的“普茶”是由“普及茶一请”这句话而来的。它的原来意图就是普及“在让人生存的食材面前所有人都是平等的”这样一种教理。普茶料理即广泛地给一般民众提供茶的意思。普茶料理使用了很多烹饪方法,这与日本的素食大不相同。隐元禅师虽然只在长崎待了近一年,但至今长崎的黄檗寺庙仍继承着普茶料理的习俗。此外,普茶料理中使用的一些菜如芝麻豆腐、飞龙头等如今也已经成为长崎的乡土料理,在平民中广泛传播。

普茶料理は黄檗宗の臨済正宗の一つの教義として伝えられた。日本の精進料理と同じように動物の食材を一切使わない中華料理であるが、調理方法は基本的に植物油で揚げたり炒めたりしていた。色々な調理法が使われている点は日本と大きく異なっている。「普茶」とは、「普及茶一請」という言葉に由来し、その本来の意図は、「人が生きるのに要する食材の前ではすべての人が平等である」という教理を普及させることである。普茶料理はつまり「普(あまね)く衆人に茶を施す」という意味である。隠元禅師は長崎に1年ほどしか滞在していなかったが、今でも長崎の黄檗寺では普茶料理の習わしが受け継がれている。また、普茶料理に使われる胡麻豆腐や飛竜頭などは、今では長崎の郷土料理として民間で広く嗜まれている。

日本の寺院では、法要の終わりに茶礼を行うことになっているが、「お茶だけでは物足りないのでは」ということから、僧侶たちは中国の精進料理、すなわち普茶料理を広めた。日本の萬福寺では、黄檗文化を広めることを目的に、昭和の時から一般の参拝者へ向けて提供を開始した。普茶料理は仏教の祭祀に使う供え物で作った料理で、「食べ物を一つ残らずムダにしない」という考えを基にした。例えば、下味をつけた野菜などを唐揚げにしたもの「油糍」、胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理である「麻腐」、野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの「雲片」など、テーブルにずらりと並べる。淡泊な日本の精進料理をイメージして食べた人は、全く異なる味わいと品数の多さに大変驚いたという。

普茶料理は大体低カロリーの良質な植物タンパク質のある大豆と胡麻、または薬食に似ている食品などを原材料とするため、美容と健康にとても良いらしい。また、普茶料理には山や海の産物が多く食材として使われ、中国風の調理技術として胡麻油がよく用いられていた。もう一つの特色は、肉や魚のように見立てた料理がたくさんあることである。

普茶料理の献立は種類に富んでいるが、とりわけ「二湯六菜」がよく見られる。「二湯六菜」は、スープ、和え物の盛り合わせ、野菜天ぷら、ゴマ豆腐、香菌、野菜、笋羹、味噌汁を主にし、白いご飯と果物を添えて構成されている。一般的な普茶料理のレシピは、胡麻豆腐、羹(飛竜頭、湯葉巻き、豆腐羹)、揚げ物(長芋、かまぼこ、こんにゃくなど)、雲片(とろみ野菜)、味噌汁(各種の芋、大根、椎茸、ほうれん草)、冷菜(酢和えキノコ、酢菊菜、隠元豆腐の胡麻和え)、茶飯(お茶と水を一緒に蒸したご飯)、野菜(大根漬け、白菜)、果菜(山桃、梨)などからなる。尊いお客さんが来るとき、黄檗の僧人は更に高級な精進料理を出すが、ここで言う高級は価格の高いことではなく、作り方のより優れた料理を指している。

据说日本寺庙的僧侣们做法事后要举行茶礼,但只有茶水似乎简单了些,于是僧侣们推广起中国斋菜,即普茶料理。而现在的日本黄檗万福寺,为了广泛传播黄檗文化,从昭和时代起就向一般的参拜者提供普茶料理。普茶料理是僧侣们基于“不浪费所有食物”的想法用佛教祭祀的供品烹制的一道菜。例如,用加了味道的面粉油炸做成的干梅子和馒头、油炸芝麻豆腐的鼻祖“麻芙”,将烹饪时会被扔掉的食材切碎切细,调好味道、裹上葛根粉油炸的“云片”等,然后把所有这些食材齐齐整整地摆放在桌面上。日本民众品尝了这种与传统的素淡日本斋菜完全不同的普茶料理后,往往会为普茶料理别样的味道及种类的繁多感到惊讶。

普茶料理多是用大豆和芝麻作为原料,这些原料可以产生很多低热量的优质植物蛋白,还有一部分原料类似药食,据说对美容和健康非常有益。此外,普茶料理还使用了大量的山珍和海鲜,因为是中国风,所以经常使用香油等油脂。它的另一特色,就是有许多类似肉和鱼的假菜。

普茶料理菜谱多样,其中尤以“二汤六菜”最为常见。它是由清汤、凉拌素什锦、蔬菜天妇罗、香菌、芝麻豆腐、青菜、笋羹、酱汤为主料,再配以白饭和水果组成。一般的普茶料理菜谱是由胡麻豆腐、羹(飞龙头、汤叶卷、豆腐羹)、油炸品(长芋头、鱼糕、魔芋等)、云片(蔬菜勾芡)、味噌汤(各种芋头、切片红萝卜、香菇、红叶麸、菠菜)、冷菜(醋拌金针菇、白醋菊菜、胡麻凉拌隐元豆腐)、茶饭(茶和水一起蒸出来的饭)、菜(腌萝卜、白菜)、水果(山桃、梨)等组成的。当有更尊贵的客人到来,黄檗僧人也会摆出更高档的素菜来,但这里所说的高档并非指价格的昂贵,而是指工艺更精湛的菜品。

据现任京都黄檗万福寺宗务总长荒木将旭介绍,即使是现如今万福寺的普茶料理,也还是强调“人人与茶相伴”“座无上下区别”“餐桌前人人平等”的理念。不过,身份完全不同的人之间的对话,往往难以长久持续。因此,当初为了让不同身份的人在共进普茶料理时也能亲切交谈、加深彼此之间的友谊,僧侣们花不少心思在斋菜上,他们用斋菜的食材,制作成了类似烤鳗鱼片等的各类食品,食用过程中就容易引发新的话题:“这看起来像鳗鱼片呀,到底是用什么材料做成的呢?”于是不同身份的人,也将在愉快、融洽的交谈中共享斋菜。

日本黄檗山普茶料理,福清黄檗文化促进会供稿

普茶料理 日本黄檗山 (福清黄檗文化促進会提供)

普茶料理不仅在黄檗派的寺院中广为享用,作为享受异国风情的一种方式,在饭店和文化界人士中也广受欢迎。作为民间流传起来的普茶料理还和长崎的卓袱料理相互影响,有时使用桌布、珍贵的玻璃酒杯、水壶、西式餐具的情形也经常出现。1772年,《普茶料理抄》等专业食谱书籍出现,食物逐渐变化,它的外观也越来越独特而生动。

普茶料理之外,明显也受中国料理影响的,还有卓袱料理。这是一种中国式料理,最早起源于唐代中国寺院中的佛门素食,“卓”是指桌子,“袱”则是指桌布,“卓袱”一词,就是客人围坐桌子边,以及可口佳肴摆满桌子的意思,体现一种礼让进餐的气氛。这种料理在明清之际由黄檗禅僧带入日本并加以改良发扬,首先在长崎流行开来,因此又被称作“长崎料理”。总之,卓袱料理是由黄檗素食料理衍生而来的一种流行日本的新料理。

日本卓袱料理“文化宴”,福清黄檗文化促进会供稿

日本卓袱料理「文化宴」 (福清黄檗文化促進会提供)

現京都黄檗万福寺宗務総長の荒木将旭によると、現在の普茶調理にも「あまねく人々と茶を供にする料理」という、食の前では身分は平等なりという考え方がある。とはいえ、身分が違うと会話も続かない。そこで僧侶が気を遣い、親睦を深めやすいように、精進の食材で鰻の蒲焼きやカマボコに見立てた「もどきもの」も作っていた。「「カマボコに見えるけど、何で作ってあるんやろう?」とみんなで話しつつ楽しみながら召し上がっていただきたいですね」と荒木さん。

こうした普茶料理は、異国情緒を味わうものとして黄檗宗の寺院ばかりでなく、料理屋や文化人など、民間でも広く嗜まれた。特に民間で行われた普茶料理は、長崎の卓袱料理とも影響し合い、テーブルクロスや貴重なガラス製のワイングラスや水差し、洋食器が用いられる事もしばしばあった。1772年には『普茶料理抄』という専門の料理書も著された。料理は次第に変化していき、見た目が鮮やかな独特のものとなっている。

もう一つ中国からの影響を受けたのは卓袱料理である。これは中国式の料理で、唐代中国の寺院から始まり、「卓」はテーブル、「袱」はクロスの意味(袱紗など)を持つ。「卓袱」とは、大皿に料理を盛りつけ、円卓を囲んで皆で分けて食べる方式で、礼儀正しい雰囲気を体現している。この料理は明清に渡日した黄檗禅僧により、まず長崎で流行したことから「長崎料理」とも呼ばれている。つまり卓袱料理は、黄檗精進料理から派生した日本で流行している新しい料理である。

鎖国時代の約二百年間、日本で唯一、西洋に開かれていた長崎·出島。鎖国中もここ長崎だけは、オランダやポルトガル、中国などの貿易船がやってきて、様々な文化が入ってきた。そこで誕生したのが、和·洋·中のテイス

锁国近两百年间,日本唯一对外开放的是长崎码头。在这期间,日本仅提供长崎出岛供荷兰、葡萄牙、中国等贸易船停靠,从而引进了多姿多彩的文化元素,将和、洋、中三种味道融合在一起的“卓袱料理”,就是在此环境下诞生的。和食、中华料理、洋食的要素相互交融,因此也被称为“和华兰”料理。日本的“和”、中国的“华”、荷兰的“兰”汇合在一起,因此也称为“和华兰料理”。日语的“和、华、兰”发音为“わからん”,这和日语方言“不知道是什么”谐音,即“不知道这是什么料理”。在当时,卓袱料理是当地家庭招待客人的美食。大家围坐在圆形餐桌,品尝大器皿盛放着的各色美食套餐,也与中国传统大家庭聚餐以示团圆的意义相近。

卓袱料理通常是从鲷鱼胸鳍调制的鱼鳍汤开始的,“おめでたい”(祝贺)和“たい”(鲷)同音,取其谐音,有祝贺或特别招待嘉宾之意。卓袱料理最初也主要是表达为每位客人招待一条鲷鱼,以表示感谢祝贺。卓袱料理的特有风格是大家围坐在红漆圆桌周围,用直筷夹取大碟里盛放的料理。在那个时代,日本饮食通常是每人一份餐,因此,这种风格在当时是特别新奇的。

普茶料理在京都府宇治市万福寺及其周边地区、长崎市的兴福寺等地方都能吃到。此外,神户、东京也有专门供应普茶料理的餐厅。与之产生鲜明对比的是,卓袱料理到目前为止仍作为长崎县的地方特色料理,而普茶料理则以黄檗宗各寺院为中心,北及北海道,南至冲绳岛,风靡全国。

隐元与其门下弟子东渡时所携带的家具、植物、食品颇多,这些东西在今天被日人冠上“隐元”或“黄檗”二字,如隐元豆、隐元菜、隐元莲、隐元豆腐、隐元纳豆、隐元西瓜、隐元草、隐元帽、隐元桌、黄檗馒头、黄檗料理、黄檗点心、黄檗天井、黄檗灯笼等,不胜枚举。这些东西的东传,在实际上,不仅促进了中日文化有形的交流,而且使日本人的饮食生活更为充实、丰富,而普茶料理则更成为今天宇治黄檗山寺的出色点心之一。