宗脉继绝

宗脉继绝

福清黄檗山坐落在今天福建省福清市渔溪镇梧瑞村境内,其山因多产黄檗而得名。

唐代贞元年间(785—805),福清黄檗山开辟为佛教道场,由禅宗六祖惠能的弟子正干禅师开创。正干禅师,俗姓吴,是莆田人,嗣法于曹溪慧能,后来到福清黄檗山,想起师父受记的话“遇苦即止”,而黄檗山所产黄檗树的果实味苦,正符合了师父的受记,于是正干就在黄檗山结庵落脚,传播曹溪禅法。正干以后,黄檗希运禅师成为黄檗山历代僧俗引以为豪的高僧。黄檗希运主要继承和发展洪州禅法思想,其禅学思想属于慧能一系,是临济宗的祖师,他的禅学思想集中体现在唐代裴休编录的《断际禅师传心法要》(简称《传心法要》)和《黄檗断际禅师宛陵录》(简称《宛陵录》)中。福清黄檗山万福寺也一直是以唐代黄檗希运禅师为法派始祖。如今在新修建的正大门前就立着《传心法要》的石碑。与黄檗希运同时代的黄檗高僧还有长庆大安、鸿休、黄山月轮等。其中鸿休有骂贼的美誉,话说有一年,社会动荡,寇贼充斥于黄檗山寺外,此时鸿休毫无畏惧,镇定自如走出寺外,脱下衲衣放置松树下的石头上,然后对寇贼说:“我发誓绝不会让你们污染这个清静之地。”说完,安详地拿起刀刃就着脖子一抹,神奇的是刀刃上毫无血迹,寇贼顿时惊异无比,一一下跪忏悔。(福清县志编撰委员会,1989)

ず寺院に隠れたと記録されている。ある日、希運は仏堂で仏像を礼拝し、李忱は希運に仏法を教わり、希運に仏法に対する見解を述べた。李忱は南禅が自悟を重んじ、仏を求めず、法を求めず、僧も求めないと言っているが、求めない以上、どうして礼拝をしなければならないのかと述べたが、それを聞いた希運はすぐに平手打ちをした。幼い頃から皇室で育たれた彼は、こんな待遇を受けたことがなかったので、「どうしてそんなに乱暴なのですか」と怒って希運を叱責したが、それを聞いた希運は再び李忱に近づいて平手打ちをし、同じく「よくそんなことを!ここはどこだと思ってるのだ?ここは本師世尊釈迦牟尼仏の大雄宝殿だ!衆生を苦しみから救うために、仏祖は迦毗羅衛国の皇太子として、王位を捨てて出家して僧となり、苦行を修め、菩提樹の下で、最後に悟り、解脱した。おまえは何をしたのか?お前にこの神聖な場所に立つ資格があるのか?ここでそのような口答えができるとでも?」と一喝した。李忱はそれを聞いて呆然としていた。涙が目に溢れ、光が差し、心の中が喜びに満ちていた。そこで、希運の前にひざまずいて、ざんげした。そして、彼は立ち上がって、希運に言った。「私のこの人生での出逢いは決して平凡なものでないことは運命づけたに違いありません。あなたの指摘がなければ私のこの世での責任と使命はほとんど忘れていたでしょう。いつの日か私がここに立つ価値があることを証明いたします」。希運も涙を流しそうになり、ゆっくりとうなずいた。のちに李忱が皇帝に即位した。彼が唐の宣宗なのである。希運が入寂した後、弟子の願いどおり、唐宣宗は希運に「粗行禅師」というおくり名をつけたが、後に宰相裴休の解釈と努力を経て、「断際禅師」と改称した。

黄檗希運の禅理論は、「心得」の作用に重点を置き、一般の僧侶と人々に対して、どのように彼らの心の中に本来持っている悟りの力を引き出すかは、晩唐の禅宗の修行において最も煩わしい問題であり、特に黄檗希運は頭ごなしに一喝し、さらには手を出すまでの極端な方法を提唱し、それによって相手を目覚めさせ、心に長く潜む困惑と靄を一掃しようとした。

宗脈の断絶と持続

福清黄檗山は現在の福建省福清市漁渓鎮梧瑞村の境内に位置し、黄檗(キハダ)が多くとれることからこの名がついた。唐代の貞元(785—805)年間に、福清の黄檗山は仏教の道場として、禅宗六祖慧能の法嗣正幹禅師によって開山された。正幹禅師は、俗姓は呉、蒲田の出身で、曹渓慧能に師事し嗣法した。後に福清黄檗山に着いた時、「苦に遭ったら止めよ」という師匠の言葉を思い出した。黄檗山で作られた黄檗の木の実の苦味がまるで師匠の言葉のように感じられ、正幹は黄檗山に尼寺を作り、曹渓の禅法を広めていた。正幹以降、黄檗希運禅師は黄檗山の歴代僧俗を誇る高僧となった。黄檗希運は主に洪州の禅法思想を継承し、発展させたが、その禅思想は慧能一系に属し、臨済宗の祖師である。その禅思想は唐代の裴休が編纂した『断際禅師伝心法要』(略称『伝心法要』)及び『黄檗断際禅師宛陵録』(略称『宛陵録』)に集中的に体現されている。福清黄檗山万福寺も唐の黄檗希運禅師を法派の始祖としている。今、新しく建てられた正門の前には『伝心法要』の石碑が立っている。黄檗希運と同時代の黄檗高僧には、ほかにも長慶大安、鴻休、黄山月輪などがいる。そのうち、鴻休は賊徒を厳しく叱ったことで有名となった。ある年、社会は混乱し、寇賊は黄檗山寺の外にあふれていた時、鴻休は恐れず、落ち着きはらって自由に寺の外に出て、刺し子を脱いで松の下の石に置いた。そして、寇賊にこう言った。「この清らかな場所をお前たちに絶対に汚させないぞ」。そう言って、静かに刃を手に取り、自分の首を拭ったが、不思議なことに刃には血の跡がなく、盗賊たちは驚きのあまり、ひざまずいてざんげをしたという。

福清黄檗山黄檗树,林秋明摄

黄檗樹 福清市黄檗山 (林秋明撮影)

黄檗山万福寺在宋元时期的发展状况,因为资料缺失,难以了解全貌。不过两宋时期,禅宗在南方盛行,黄檗山在宋代可能曾经兴旺一时。根据《黄檗山寺志》所记载的宋人诗文似也可以推断其在宋代的兴盛。如蔡襄《宿黄檗听彬长老谭禅》:

一圆灵寂本清真,谁向苍浪更问津。

欲说西来无见处,奈何言句亦前尘。

蔡襄(1012—1067),福建莆田仙游人,北宋名臣,著名的书法家、文学家,曾任福建路转运使、泉州太守等职务。诗句中反映出蔡襄与黄檗寺彬长老谈论禅学的问题,从大臣造访便可知黄檗寺的知名度了。还有刘克庄《黄檗寺一首》:

宋元時代における黄檗山萬福寺の発展状況に関しては、資料が不足しているため、全貌を把握することが難しい。しかし、両宋の時代には、禅宗は南方で大流行となり、黄檗山も盛んになっていた可能性がある。『黄檗山寺志』に記された宋人の詩文からもその宋代においての隆盛さを推察することができよう。例えば蔡襄の『宿黄檗聴彬長老譚禅』という詩文が ある。

一園霊寂本清真、誰向蒼浪更問津。

欲説西来無見処、奈何言句亦前塵。

犹记垂髫到此山,重游客鬓已凋残。

寺经水后增轮奂,僧比年时减钵单。

绝壑云兴潭影黑,疏林霜下叶声干。

平生酷嗜朱翁字,细看荒碑倚石栏。

刘克庄(1187—1269),福建莆田人,南宋著名词人,《黄檗寺一首》说明,他在幼年时候游览黄檗寺时该寺还是非常兴盛的,到了晚年再游时寺院已经凋败,当年朱熹在此留下的碑刻也已只是荒碑了。南宋时期著名理学家林希逸也曾留下《诸侄约至黄檗因思前岁刘朔斋同宿,约后村不至,慨然有感》一诗,记录了游黄檗寺经历:

黄檗山前古梵宫,早年屡宿此山中。

猿啼十二峰前月,鹏送三千里外风。

日者共游因朔老,期而不至有樗翁。

骑鲸人去相如病,更欲跻攀孰与同。

林希逸早年经常借宿寺中,在黄檗山的自然美景中感悟李白、司马相如的逝去,获得精神上的理趣。特别值得一提的是,林希逸后人即非如一禅师,正是明末黄檗山万福寺僧人,隐元隆琦禅师重要弟子之一,对日本江户时代的文化界影响很大。从以上所引诸诗可了解到,黄檗山在宋代应该是颇具规模,兴盛一时。(福清县志编撰委员会,1989)

宋末元初动乱,黄檗山受到毁灭性的破坏,在元代一直没有恢复。到了明朝晚期,逐渐兴盛。明万历四十二年(1614),皇室赐藏经于福清黄檗山,赐寺名“万福禅寺”,使得黄檗山具有了很高的政治地位,为后来的兴盛奠定了基础。崇祯三年(1630),临济宗第三十世密云圆悟(1566—1642)应请前来住持,福清黄檗山万福寺从此归入临济宗流派,作为具有宗派系谱传承的禅寺而展开新的历史。密云圆悟法子费隐通容(1593—1661)、法孙隐元隆琦相继住持,盛况空前。在阐扬临济宗风的同时,黄檗山僧侣和外护有意识强调作为临济义玄师父的希运禅师的源流地位,并以希运为法派始祖确立了法系源流,以标榜黄檗山在明末禅林中独自的主体性。

蔡襄(1012—1067)は、福建蒲田仙遊の出身で、北宋の名臣、有名な書家、文学者で、福建路中継使、泉州太守などを務めたことがある。詩中に、蔡襄が黄檗寺の彬長老と禅学の問題について話していることが示されており、大臣が訪れたことから黄檗寺の知名度が明らかだろう。また劉克庄の『黄檗寺一首』との詩も記載されている。

猶記垂髫到此山,重遊客鬢已凋殘。

寺經水後增輪奐,僧比年時减缽單。

絶壑雲興潭影黑,疏林霜下葉聲幹。

平生酷嗜朱翁字,細看荒碑倚石欄。

劉克庄(1187—1269)、福建蒲田の出身で、南宋の有名な作詞人である。『遊黄檗寺』によると、彼は幼い時に遊覧した黄檗寺は非常に繁盛したが、晩年に再び遊覧した時に寺院はすでに凋落したそうである。当時の朱熹がここに残した碑も荒れ果てた碑でしかなかった。南宋時代の有名な理学者林希逸も、『諸侄約至黄檗因思前歳刘朔斎同宿,約後村不至,慨然有感』との詩に、黄檗寺を訪れた際の光景が描かれていた。

黃檗山前古梵宮,早年屢宿此山中。

猿啼十二峰前月,鵬送三千里外風。

日者共遊因朔老,期而不至有樗翁。

騎鯨人去相如病,更欲躋攀孰與同。

林希逸は早くから寺院に宿泊し、黄檗山の自然風景の中で李白、司馬相如の逝去を感じ、精神上の理趣を得た。特に、林希逸の後人即非如一禅師は、明末の黄檗山万福寺の僧侶で、隠元隆琦禅師の重要な弟子の一人であることが注目される。彼は日本の江戸時代の文化界に大きな影響を与えた。以上の引用された諸詩からわかるように、黄檗山は宋代にかなりの規模をもっていたはずで、一時期盛んであっただろう。(福清県誌編纂委員会、1989)

福清隐元所建报恩塔遗迹,林秋明摄

隠元禅師が建てた報恩塔遺跡 福清市 (林秋明撮影)

清乾隆年间(1736—1795),万福寺又趋衰微,寺僧清馥募化修复。清末民初,因为战乱,殿宇大多被毁殆尽。1928年遭遇山洪之劫,寺院损失严重。