“办学兴闽第一人”翁承赞

“办学兴闽第一人”翁承赞

翁承赞(859—932),字文饶,晚年号狎鸥翁,又号螺江钓翁,谥号忠献。文秀乡光贤里(今福清新厝镇)人,一说莆阳兴福里(今莆田北高镇)人,晚唐五代政治家、教育家、诗人。

翁承赞年少聪慧,七岁就能作诗,三十三岁赴京城长安参加会试,落第后滞留京城四年,毫不气馁,拜访名师,学业大进,终于在唐乾宁三年(896)考中进士,后来又中博学宏词科,被授予陕西周至县县令。此后又先后担任朝廷秘书郎、右拾遗以及户部员外郎等职。

前林村の生まれだという。生没年不詳。貧しい家庭に生まれ、若くして優秀な成績を収め、唐太和四年(830)に士第に登り、史料に明記されている福清置県後初の進士となった。進士に及第した後、林簡言は、当時の一般士人のように、「良い地位」のために官職を極力求めることなく、天下の大事に関心を持ち、道徳のある文章こそ文人の立身の根本であると信じ、決して曲がったことをせず、功徳を賛える文章を書くことを潔しとしなかった。彼の散文は唐代の古文の大家韓愈に倣い、詩歌の創作は中唐の有名な詩人元結、白居易を手本にしたものである。

林簡言は古今を論じて人々を諭すことに長けており、晩唐の日増しにひどくなる藩鎮割拠の弊害に対し、当代の君臣が享楽にふけ、民衆の苦しみに関心を持たないので、彼は憤然として『漢武封禅論』という文章を書き、当時の暗い政治を皮肉っているのである。この文章は発表されるや否や、文人たちに争って読まれていたが、当朝の統治者の怒りを買ったために、役人に罪をでっち上げられ、林簡言は都から追い出された。結局、林簡言は地方に左遷され、漳州の刺史に就任した。赴任する前に朝廷に報告し、福清の庶民への過酷な課税を軽減するよう要請した。唐文宗はこの報告書を戸部に送り、戸部はまた福建省に転送した。福建省の最高責任者である羅譲は、この報告書を読んで驚き、林簡言を叱責した。「当時、盈州の徐公官は相国であったが、彼はただ朝廷に一つの郷の租税減免を要求しただけである。しかし、一介の州の刺史に過ぎないそなたが、県の租税減免を要求した。これが適切だと思うか」。

しかし、林簡言はこう答えたのである。「福清の庶民の多くは主に畑を耕し、塩を干すことに従事していますが、残念ながら土地は不毛で、何年も干ばつが続いていて、何年もご飯を満腹に食べることができません。その上、塩税が重すぎて、塩を売ってもこのような重すぎる課税を負担することができません。まさか父親と同じ世代の人々が餓死するのを黙って見ていられるのでしょうか。福清は唐聖暦二年(699)に置県されてから百三十一年、やっと私のような進士が生まれたのは、まさにそこがいかに貧しくて立ち遅れているかを証明しているものです。今日の私の成功は、すべて郷族の支えによるものです。もし、彼らのために請願することができなければ、故郷の人々に申し訳が立ちません。それに、教育や国のための人材育成に力を注ぐ朝廷の姿勢をどう示せばいいのですか」。羅譲はその話を聞いて非常に感動し、彼の要求を受け入れただけでなく、それ以降、林簡言を見直して非常に尊敬するようになった。

翁承赞画像,林秋明摄

翁承賛像 (林秋明撮影)

为了安抚威武军节度使王审知,唐天祐元年(904),翁承赞被安排回福建册封王审知为琅琊王,受到王审知的热情接待。后梁开平二年(908),他被朱全忠擢升为谏议大夫,又奉命进入福建册封王审知为闽王。留闽期间,翁承赞目睹福州百姓在王审知的治理下安居乐业,更加仰慕王审知的功业。返回开封后,翁承赞虽被提升为史大夫,加左散骑常侍,但由于逐渐不满朱全忠的骄横跋扈,便毅然辞官返闽。

后梁贞明二年(916),翁承赞被王审知任命为宰相,辅佐治理福建,政绩显著,其中包括取消闽江流域的关卡,从而促进了福建西部山区与东南沿海的物资交流的畅通,在黄岐半岛开辟了史称“甘棠港”的对外贸易港,加强了福州的对外商贸往来和文化交流。翁承赞尤其重视发展福州的文化教育事业,直接推动在福州设立经学、史学、哲学、文学“四门学”,在福州城内兴办孔庙,免费招收优秀学生,研读儒家经典,还倡导创办发展州学、县学、乡村私塾等各级教育机构,使福州乃至八闽大地的文化事业得到极大发展,为宋元以后福建地区的贸易开放、文教发展,奠定了坚实基础。翁承赞也被誉为“办学兴闽”的第一人。

「建学興閩の第一人者」 翁承賛

翁承賛(859—932)、字を文饒という。晩年の号は狎鴎翁で、別名螺江釣魚翁、追号は忠献という。文秀郷光賢里(今の福清新厝鎮)の出身で、または莆陽市興福里(今の莆田北高鎮)の出身であったと言う説もあるが、晩唐五代の政治家、教育者、詩人でもあった。

翁承賛は若い頃非常に聡明で、7歳にして作詩ができていたほどだった。33歳で都の長安に赴き、会試に参加したが、合格できなかった。その後、長安に四年間滞在し、少しも力を落とさず、名師を訪ね、学問を大きく発展させ、ついに唐乾寧三年(896)の進士に合格し、後に博学鴻詞科に合格し、陝西周至県の県令を授与された。その後、朝廷秘書郎、右拾遺、戸部員外郎などを歴任した。

威武軍節度使である王審知をなだめるために、唐天祐元年(904)、翁承賛は福建省に戻るよう命じられ、王審知を琅琊王と冊封し、王審知の手厚い接待を受けることになった。後梁開平二年(908)、翁承賛は朱全忠に抜擢されて諫議大夫に昇進してから、福建省に戻るよう命じられ、王審知を閩王と冊封した。福建滞在中、翁承賛は王審知の管理の下で福州の人々が安居楽業な生活をしているのを目の当たりにし、その功績にますます感心するようになった。開封に戻った彼は師大夫、左散騎常侍に昇進したが、朱全忠の横暴と支配に次第に不満を抱き、毅然として辞任して福建省に戻った。

後梁貞明二年(916)、翁承賛は王審知によって宰相に任命され、福建省の整備を補佐することになった。閩江流域の関所を廃止したことで福建省西部の山岳地帯と南東沿海の物資交流をさらに円滑にし、黄岐半島に「甘棠港」と呼ばれる対外貿易港を開設し、福州の対外商業貿易往来と文化交流の強化に貢献するなど顕著な業績を上げた。翁承賛は福州の文化·教育の発展を重視し、福州で経学、史学、哲学、文学という「四門学」の設立を直接推進

在唐代发展的基础上,两宋时期,福清文化事业得到空前的发展,出现了一批忧国忧民的政治家、思想家。有为民请命的郑侠,也有为官持正的黄祖舜,更有影响全国和后世的著名理学家王苹、林希逸等。