出家因缘
当时福清县东林村中有一个印林禅寺,隐元禅师幼小时经常随父母去寺里拜佛乞求平安。在他6岁时,因为家境实在贫困,生计难以维持,父亲决定去荆楚一带经商谋生,这一去就再无音信。从此,家里的一切大小事务都落在母亲龚氏肩上。隐元禅师生性善良,不忍心母亲如此操劳,便主动承担力所能及的家务。三年后,隐元禅师9岁时,母亲送他去乡里的私塾求学,但第二年冬天他便因家境贫寒不得不辍学回家。而隐元禅师并未因此埋怨母亲,而是安慰母亲,说了“负薪挂角”的励志故事,借古人砍柴放牛坚持读书最后成名之事激励自己,抚慰母亲。在家里,隐元禅师主要跟随哥哥学习耕种、砍柴等各种农活,闲暇之余,他还会跟身边的人说:“吾谦少失学,汝等有志于道者,宜早勉励,无贻后悔。”(平久保章,1979)意思是说:“我只恨自己没有机会学习,年纪轻轻就不得不辍学,你们有志向、有抱负的人应该尽早以此勉励,好好用功,不要留待以后悔恨。”可见辍学回家这件事,是隐元禅师一生的遗憾,他一直期待能够多读书。当然,对于那些对一件事抱有坚定信念的人来说,所有困难都有解决办法。回家务农的隐元禅师时刻信守着自己的读书信念,一有闲暇,就读书写字,请教私塾学友。
一、明から清王朝へ変わる中の隠元伝説
明万暦二十年(1592)、中国社会はまだ安定した発展期にあったが、この年に、隠元禅師は福建省福州府福清県万安郷東林村で三男として生まれた。もとの名は曽昺、字は子房である。父の林徳龍、母の聾氏は農業で生計を立て、土地を愛し、仏学を心から崇敬していた。
出家の経緯
当時、東林村には印林禅寺というお寺があり、隠元禅師は幼い頃、両親と一緒にそこに参拝して平安を願うことが多かった。隠元が六歳の時、父は生計のため、湖南、湖北省方面に商売に出かけたまま帰ってこなかった。家のすべてのことは母の聾氏の肩にかかっていた。親孝行な隠元禅師は母の苦労に耐えられず、できる限りの家事を自ら引き受けた。3年後、隠元禅師が9歳の時、彼は郷里の私塾に入ったが、翌年の冬に貧困で学校を中退せざるを得なかった。自責の念を感じた母親に対して、隠元禅師は「負薪挂角」という励ましの物語を語った。その内容は、昔の人が薪を切って牛を放し飼いにして読書を続け、最後に有名になったという話で、彼はこの物語を借り、母親を慰め、自分を励ました。また兄と耕作や薪を刈り、暇な時間があれば、彼は身の周りの人に「私は勉強を怠ることが少なく、君たち道を志す者は、早く勉学に励んで、後悔しないようにしなければならない」と言っていた。(『普照国師年譜』、『新撰校訂隠元全集』第11巻、東京:開明書院、1979年)「自分は勉強する機会がなかったのを残念に思い、後輩に同じ思いをさせたくない」という意味である。学校を中退したことは、隠元禅師にとって一生の遺憾であった。しかし、強い信念を持っていた隠元禅師は常に勉学の信念を持ち、暇があれば読み書きをし、塾の友に教えてもらった。
聡明な隠元禅師は成長するにつれ、多くの人生の疑問にぶつかった。16歳のとき、秋のある静かな夜、友人と松の木の下に座って、星空の動きを仰ぎ見て、宇宙は秘密に満ちていると感じ、この真理は仏でなければ明らかにするのは難しいだろうと思い、仏を慕う心を起こしたという。この頃から心は世俗を離れて、いつも物思いにふけるようになったという。18 歳で径江念仏会に入会し、仏法修行を学んだ。20 歳の頃、母と兄に結婚を促されると、彼は強く反対し、「男は世の親の恩を尊ぶ。今、父が遠出してどこにいるのかわからないのに、私は結婚するものか」と言った。(平久保章、1979)一人前の男は、親の恩を重んじなければならない。父の行方がわからない状態で結婚すれば、親孝行に背き、倫理に逆うことになると言い、隠元禅師はそれを理由に結婚を断った。観念から言えば、父の行方がわからないのは確かに儒教上の理由になりうる。しかし、儒教には三つの親不孝の中でも、子がなく家系を跡絶えるのが最大の不孝だという説があるから、父の行方がわからないというのが理由になれない一面もある。恐らくそれはそもそも理由ではなかったかもしれない。本当の原因は隠元禅師自身もわからず、あるいはまだ自分が選んだ道を確信していないか、その道を歩み続けるにはまだ時間と心構えが必要だからと言ってもいい。翌年、彼は母と兄を説得し、結婚資金を旅費とし江蘇省、浙江省へ父を探しに出かけた。彼は初め江西省の南昌に向かい、その後南京の母方のおじの家に赴いたが、父親の行方について、何ら知りえなかった。叔母から家に帰るよう勧められたが、隠元禅師はそれをやんわりと断り、寧波、舟上一帯を訪ね続けた。この旅は、父を探す旅であり、その途方のない長い道中で深く考え、儒家の人倫の愛から宇宙の答えを求める旅でもあった。二年後、隠元禅師は南海の普陀山に線香を上げる漁船に従って観音菩薩を巡拝し、菩薩の神力をいただいて父に出会えることを願った。父を探すには、儒家、道家などの加護が必要だったのかもしれないが、隠元禅師はためらわず仏教を選んだ。彼は長い間心の中で考えていたのは仏教だけで、だから困難にあった時、まず思いついたのは仏教だけである。他の選択肢がなかったわけではなく、また知らなかったわけでもなく、それを意識的に無視し、遮断したので ある。
聪慧的隐元禅师也曾遇到很多人生疑惑。在他16岁的一个夜晚,曾与朋友坐卧松林之下,看着浩瀚夜空中的星月流辉,觉得这一切是如此美妙,又如此神奇,却无人能说明白,他觉得宇宙间充满了秘密。他心想:这些奥秘估计只有仙佛才能明白吧。那是隐元禅师第一次萌生了慕佛修道的念头。一念既起,便潜滋暗长无法遏制,此后隐元禅师无心留念世俗之事,一心只想超然物外。于是,18岁时,他加入了径江念佛会,学习修行佛法的要领,可以想见此时的隐元禅师一定内心欢喜,且安然怡然,以至于到了20岁那年,母亲和兄长催促他娶亲成家,他极力反对,并说:“男儿生世亲恩为重。今父远游未归不知处所,岂人子议娶时耶?”(平久保章,1979)大丈夫处世,应以念亲恩为重,现在父亲离家,不知身在何处,我此时完婚,有违孝道,有忤常伦,这话说得气势浩然,父亲去向不知的确是个理由。而儒家也有“不孝有三,无后为大”的说法,如果要以儒家的观念来看,则此理由或许也不是个理由。那到底是什么原因,让他断然拒绝?他暂时还不明白,或者说自己也还没有完全确信自己选择的路,因为这条路上的阻力太大,所以他还需要时间、思想准备。到了第二年,他说服母亲和兄长,把娶亲的钱当作路费,赴江浙寻父。他先到江西南昌,后到南京碰到舅母,告诉他根本没有父亲的音讯,劝其回家。隐元禅师委婉拒绝,继续前往宁波、舟山一带寻访。这一路,既是寻父,也是在行万里路中进行深刻思考,在儒家的亲亲人伦之爱中,寻求宇宙的答案。两年以后,他跟随进香的渔船到南海普陀山拜观音菩萨,希望菩萨神力护佑他寻找父亲,其实这是一个很明显的征兆。寻找父亲是事由,而护佑的力量可以是多方面的,儒家、道家都有许多可以寻求保佑的途径,隐元禅师却选择了佛教。因为,他长期以来心里琢磨的、思考的只有佛教,所以当困难发生以后,他最快想到的、最想寻求的、最愿意接近的,也是佛教。至于其他的力量,并不是没有,并不是不知道,并不是找不到,而是有意忽略,有意屏蔽,这便是个人选择的力量。
普陀山に至って、隠元禅師はこの山の風景の静寂幽遽、寺院の荘厳を見て、たちまち俗念が取り払われ、この場所こそが彼がずっと求めていたものだと感じた。彼は潮音洞に投じ茶頭を務めることになったが、毎日何千何万人分のお茶を入れても、文句一つも言わなかった。潮音洞の住持は、「そなたはきっと菩薩の使者に違いない、どうしてこんなに疲れを知らないで気を配ることができようか」と称賛した。隠元禅師は晩年の『自勉録』にも、「私は昔普陀大士の朝礼で出家の意を得た。もう五十年が過ぎた。」(吾昔朝礼普陀大士遂発心出家、今五十年矣!)と書いている。(平久保章、1979)普陀山にいた時、隠元禅師は悟りを得た高僧の指導を得て、出家の決意を固めた。この時、行方不明の父や生活に困窮している母と兄弟、自分の苦しみに満ちた人生、その俗世のすべてを捨てなければならないと悟った。
到了普陀山后,他果然发现佛国殊胜,宛如仙境,顿时凡念皆除,这是他一直想做的事,一直期待接近的地方。于是他便在潮音洞担当了茶头执事,每天为来往众人提供茶水,一句怨言也没有。潮音洞的住持称赞他说:“你是菩萨派来的使者吧,不然怎么会如此不知疲倦地发心呢!”隐元禅师晚年在《自勉录》也曾写道:“吾昔因朝礼普陀大士遂发心出家,今五十年矣!”(平久保章,1979)可知在普陀山时,隐元禅师心理发生了较大的变化,还遇到过得道高僧点化,产生了出家的想法,开始发心于此,放下俗世的一切:寻不到的父亲,贫苦无奈的母亲兄弟,以及为个人痛苦流转无休止的俗世人生。
而真要做出这个决定,绝不容易。隐元禅师陷入深深的思考中,他要认真地想好,父亲、母亲、兄弟都要想好,而佛教的生活和未来,他也要想好。就这样,不知不觉中,他在普陀山一待就是一年多,这期间寻找父亲的事情,也再无进展了。之后隐元禅师回到家中,告诉母亲他的想法,母亲听闻他要出家,坚决不同意,说:“我今年事已高,去日无多,你要出家等我百年以后也不迟。”母亲所言不虚,侍奉母亲终老,也是作为人不可推卸的责任,于是隐元禅师听从劝告,在家中服侍母亲,而与此同时,他志向已定,并未放弃自己的理想,一边吃斋念佛,一边思考佛理。三年后,隐元禅师26岁,母亲尚在,他经过几年的思考,决定毅然出家,不再等待,看隐元禅师几年如一日不犹豫不动摇,而且越来越坚定,母亲默然认可。于是,隐元禅师打点行李,迈上新的征途。人算不如天算,在宁德一带的路上,他遇到强盗,衣物、路费被抢一空,无奈之下只得返乡,继续耕樵,又过了两年吃斋念佛的日子。据说盗贼当时想灭口,无奈举刀时候手脚发软,因为隐元禅师口中在默念观世音菩萨保佑,他也因此逃脱了一劫。这个路遇盗匪的环节,是社会混乱所致,也是佛祖对隐元禅师的考验。心意不坚者,经此劫难,恐怕就退缩了,改变方向了,或许以为都要出家了,却并未得到护佑,还被洗劫一空,会对信仰发生怀疑。信仰坚定者会认同,取经路上,艰难险阻,只有心志超群、毅力非常者能获取真经。苦难艰辛,是试金石,更是筛选框,把不符合标准者经过一次次筛选,漏于网下。幸运的是,隐元禅师始终毫不动摇。
农耕的生活依旧。一日,隐元禅师登上石竹山九仙观祈梦,恍惚间来到了一处深山,见三位僧人盘腿坐在临崖的一块石头上,正在分食一个西瓜,见隐元禅师来到便将西瓜分成四块,分一块给他。隐元禅师心中无比高兴,想这是四沙门的征兆,我也算其中一个,出家之事肯定能成。或许也是佛祖怜悯他母亲尚在人世,自己也曾许诺要照顾母亲终老,如在母亲尚在时出家会愧对母亲和自己的承诺,于是盗匪出面阻拦。再次回家以后,隐元禅师继续照顾久病的母亲,两年后,隐元禅师28岁这年,母亲因病去世,家人请了渔溪镇黄檗山万福寺的鉴源兴寿禅师(?—1625)为母亲举行葬仪。
しかし、この決定を下すのは容易なことではなかった。家族のことも、仏家の生活と未来も、隠元禅師は真剣によく考えなければならなかった。こうして、瞬時に一年が経ち、父の捜索も進捗していなかった。普陀山に滞在した後、一旦母のもとにもどった禅師は、再び普陀山に登って出家する旨を母に伝えると、「わたしはもうこの世にいる時間が長くないので、出家するなら、わたしがなくなった後にしなさい」と言われ、猛反対にあった。すると、隠元禅師はその志をしばらく留め、家で一年間母に仕えながら念仏を唱えていた。しかし隠元禅師の出家の志はすでに固まっており、決して容易に変わるものではなかった。三年後26歳の時、隠元禅師は母を説き伏せ、普陀山に向かったが、寧徳一帯の道で盗難にあった。盗賊は刀を振り隠元禅師を殺そうとしたところ、突然彼らは手足の力が抜けた。それは隠元禅師が口の中で観世音菩薩を唱えていたため、おかげで一難を逃れたという。盗賊との出会いは、社会の混乱によるものであり、仏からの試しでもあった。意志が堅くない者は、このような災難に遭ったら、恐らくひるんで、方向を変えるかもしれない。出家しようと思ったのにもかかわらず、なぜ仏様から加護を得ていないのかと信仰に疑いを生じるかもしれない。それに対し、信仰がしっかりしている者なら、固い志を持ち、粘り強い者だけが真の経を得る。苦難は試金石であり、それにより選別される。幸いに、隠元禅師は終始揺れることはなかった。
衣類、旅費をすっかり奪われた隠元禅師は、仕方なく再び故郷に帰り、引き続き畑を耕し、木こりをし、母子とも念仏持斎(念仏をしながら)の生活を送った。ある日、禅師は石竹山に登り九仙観で祈夢(仮眠して見た夢の吉凶を判断する)し、ぼんやりとある山奥にふと立ち寄ると、三人の僧侶が崖に面した石の上にあぐらをかいてスイカを分けて食べていた。隠元禅師が来たのを見て、僧侶たちはスイカを四つに割り、その一つを与えてくれた。これはまさか四沙門の兆候ではないかと、隠元禅師は大喜びして、これで出家の願いが叶うと確信した。28歳の時、母が病気で亡くなり、家族は漁渓町にある黄檗山万福寺の鑑源興壽禅師(?—1625)を請じて法事を営んだ。
福清石竹山道院,温志拔摄
石竹山道院 福清市 (温志抜撮影)
隐元骑狮图,福清黄檗文化促进会供稿
隠元騎獅像 (福清黄檗文化促進会提供)
母亲的去世了却了隐元在尘世的一切牵挂,他遂决心到普陀山出家。万福寺的鉴源和尚得知隐元有出家意愿之后,就指引他在黄檗山剃度,说:“普陀山、黄檗山都是佛教胜地,在哪儿出家都一样,为什么要舍近求远呢?”而隐元禅师却觉得黄檗山相较普陀山来说,离俗世太近,容易惹人讥疑诽谤,滋生烦恼,不适合参佛法。鉴源说:“任俗无妨,心不俗就好。”(平久保章,1979)一个人要是要求通过环境改变来改变自己,也是可能的,但经常是无法如愿的。环境能改变,那最好,这样自己可以随之做出比较轻松的改变。但如果环境一时无法改变,自己就不进步了吗?许多人以此为保持现状的理由,鉴源和尚这句话指出了关键。无论俗世环境如何,一个人都可以改变自己,成为自己,发现自己,发展自己。因为,一切的决定应该是在自己手里,而不是在环境,更不应该把自己应该成为什么样的人的决定权交给环境。经过思考的隐元禅师,答应到黄檗山万福寺出家。
母がいなくなると、この浮世にあるすべての絆が断ち切られ、隠元禅師は普陀山で出家することを决意した。鑑源は隠元禅師の出家の志を知ると、「普陀山も黄檗山も仏教の名所で、出家するならどこでも同じであるから、遠くまで捜し求める必要がない」と黄檗山で剃髪するよう勧めた。しかし、隠元禅師は、黄檗山は普陀山に比べてあまりにも俗世に近いため、誹謗を受けて悩みが生じやすく、仏法には向かないと考えていた。それに対し、鑑源は次のように言った。「俗に任せてもかまわない。心が俗でなければいい」。(『普照国師年譜』)周りの世界を変えることによって自分を変えようとすると、常に望み通りにならないのである。周りの世界は変えられるなら楽だが、そうならなければどうすればよいか。多くの人がこれで自分を変えることを諦めたが、鑑源和尚はその核心を突いた。俗世に関わらず、自分によって、自分を変えようとしなければならない。どのような人間になるのか、その決め手は周りではなく、自分によるものである。この言葉に悟った隠元禅師は、黄檗山万福寺で出家することを約束した。
旧暦1620年2月19日の観音誕生日に、隠元禅師は29歳で鑑源禅師に従って出家し、隠元の法号は、隆琦の字を授けられた。案の定、故郷の人たちから嘲笑された。これは仏門の道を進む者にとって大きな障害であり、克服しなければならない道である。決して容易ではない。このような外的干渉は絶え間なく、特に儒教思想がはびこる社会ではどこにでもある。隠元禅師はそんな中傷を受けても気にすることはなく、淡々と「仏性は誰にでもある。昔は東晋の廬山東林寺に高僧慧遠大師がいたが、今は福清の東
1620年农历二月十九日观音诞生日,29岁的他皈依了鉴源禅师,落发为僧,法号隐元,字隆琦。果然乡人嘲笑他,这也是取经路上的一大障碍,要克服,并不容易,因为这种干扰,持续不断,范围甚广,无所不在,尤其是在儒家思想盛行的熟人社会。隐元禅师听到却不以之为恼,淡然说:“佛性人人有,东晋的时候,江西庐山东林寺就出了一位高僧,叫慧远大师,难道我们福清东林村,就不能出这么一个高僧吗?”他没有停留在大家嘲笑他的点上,出不出家无须讨论,问题是出家以后的未来和为生民祈福的意愿,因而,他的着眼点是远超脱于周围人的,自然大家也都为他的气概折服,钦佩赞赏。隐元禅师于是立下宏愿:“从现在起,如果我不能认真修行,振兴禅门,就让我陷落地狱吧!”自此,隐元禅师的佛门生涯正式开启。