黄檗名人与文化交流

第三章 黄檗名人与文化交流

明朝万历年间,万福寺僧人请得明朝廷所赐的《大藏经》,明神宗亲笔御赐匾额“万福禅寺”。福清籍宰相叶向高也为此亲自题写大殿门联:“千古祥云临万福,九重紫气盖山门”,至今万福寺的万福殿大门上,仍保留着这幅烫金大字对联。在万福寺的发展史中,福清的地方乡绅为万福寺的发展做出了巨大的贡献,神宗赐藏是万福寺发展的重要转折点,自此,万福寺香火鼎盛,临济禅风浩荡,特别是在隐元隆琦禅师两次住持万福寺期间,万福寺成为东南沿海有名的临济宗道场。

明末清初,东南地区纷乱不断,隐元应邀东渡日本,他希望在近邻日本保存临济法脉,等到国内安定后,可以反哺中国。隐元在异域弘法虽然艰辛,甚至遇到日本旧有的禅宗教团的阻挠,但最终得到幕府将军德川家纲的护持,隐元在日本宇治(京都府)创建万福寺,作为开山之祖,创立了日本黄檗宗。在他的法嗣木庵性瑫的住持下,万福寺成为日本具有中国独特风格的寺院。

无论是国内还是日本,黄檗僧团在隐元弘法过程中起着举足轻重的作用。南明时期,许多反清复明的志士文人皈依隐元禅师门下,他们才华颖异,提升了黄檗僧的整体文化水平,隐元禅师在日本创立黄檗宗后,许多避难于日本长崎的明朝遗民亦皈依万福寺。以隐元为首的黄檗僧团传播的不仅仅是禅宗思想,还是涵盖了哲学、书法、绘画、医学、饮食等诸多领域的文化,被日本社会称为“黄檗文化”。

第三章 黄檗名人と文化交流

明代万暦年間、万福寺の僧侶が明朝廷から「大蔵経」、そして明神宗から直筆の「万福禅寺」との扁額を賜った。福清籍の宰相葉向高はそのために自ら本堂の対聯を書いた。「千古祥雲臨万福、九重紫気蓋山門」。万福寺の万福殿門には、今もこの金箔装飾の対聯が残っている。万福寺の発展史の中で、福清の郷紳は万福寺の発展に多大な貢献をした。神宗が大蔵経を賜ったことは万福寺の発展における重要な転換点であった。それ以来、万福寺はお参りが盛んになり、臨済禅の宗風は堂々とし、特に隠元隆琦禅師が2度万福寺の住職をしている間に、万福寺は東南沿海の有名な臨済宗道場となった。

明末清初、東南地区の混乱が絶えず、隠元は招かれて日本に渡ったが、近隣の日本でどこかよい土地を探して宗派を設立し、臨済法脈を護り、国内が安定した後、中国に恩返しすることを望んでいた。隠元は異国で法を広めるのに苦労し、日本の古い禅宗教団の妨害に遭遇したが、将軍徳川家綱の保護を得て、宇治(京都府)に万福寺を創建し、開山の祖として日本黄檗宗を開いた。彼の法嗣木庵性瑫のもとで、万福寺は中国風の日本の寺院とな った。

国内でも日本でも、黄檗僧団は隠元弘法の過程において極めて重要な役割を果たしている。南明の時代、多くの反清復明の志士文人が隠元禅師の門下に帰依した。彼らは才能のある指導者であり、黄檗僧侶の全体的な文化水準を向上させた。隠元禅師が日本で黄檗宗を創立した後、日本の長崎に避難し