音乐

音乐

自日本奈良、平安时代,也就是中国的唐宋时期,中日音乐文化交流达到高潮之后,一直到江户时代以前,两国音乐艺术方面的交流,受到双方国内各自的战乱等因素影响,基本停歇,只有平安时代后期到镰仓时代初期,还在民间小规模地进行,例如宋代音乐全书《陈乐书》的传入日本,对后来日本音乐理论的发展,产生了一定影响。直到黄檗文化所处的时代,借助隐元东渡,两国的音乐文化艺术交流,又迎来了崭新的一页。

与えたのは、明末の遺臣朱舜水である。彼は日本に20年余り定着して、中日文化交流史上の重要な人物である。彼は日本の社会各界の人々に明朝の服飾に関する礼儀制度と文化を広め、日本の民衆に明式の服装を着るように導き、更に自分で裁縫技術を伝授した。こうした実際の行動で明人の服飾文化を積極的に維持して推進していた。

日本に居住する間、朱舜水は終始己が文化遺臣だと意識し、明王朝の冠服を着続けただけでなく、親戚や友人にも明の服装文化を守るよう要求した。彼は講義や手紙の中でも明の服飾文化を中華文化の正統とし、意識的にそして自ら進んでそれを広めたのである。例えばこの文化を日常の講義の内容と関連して日本の弟子に教授し、弟子の服飾文化に関する問題を煩うことなく解答した。朱氏の弟子である四斎野伝、今井弘済らは、朱舜水の言動を『朱氏舜水談綺』という本に記録して整理し、保存した。この絵付きの本は衣冠の裁縫様式の分類から具体的なやり方まで、明代の服飾文化に関する知識を詳しく紹介した本であり、中日の服飾文化交流の歴史で重要な文化財や文献の価値を持っている。

また、朱舜水は日本各界の人々に明の服装の正しい作り方や着方を伝授し、自分で裁縫した様々な明式の服装を贈り物として日本の友人や学生にも贈った。朱舜水の影響で、日本の民衆は明の服飾を代表とする中華の服飾文化にますます興味を持つようになった。彼の門生の中には、前述の懋斎野伝のような中国の服飾の歴史と文化を研究する学者も誕生した。(竺小恩、葛暁弘、2015)

音楽

奈良時代、平安時代、つまり中国の唐宋時代に中日の音楽文化交流が最高潮に達してから江戸時代の前まで、両国の音楽芸術における交流は、それぞれ国内の戦乱などの影響でほぼ止まっていた。ただし、平安時代後期から鎌倉時代の初期まで民間で小規模で行われることもあった。例えば宋王朝に日本に伝わった音楽全書『陳楽書』がその後、日本の音楽理論の発展に一定の影響を与えた。両国の音楽文化交流は、黄檗文化の時代になってやっと新しい発展を迎えた。

《魏氏乐谱》

明清时代传入日本的中国音乐,通常被称为“明清乐”,但是明代音乐和清代音乐,实际上在各方面都存在较大区别。前者以古典诗词为主要唱词,配合贵族宫廷雅乐,而后者则以民歌小调为主要唱词,音乐风格多为通俗俚曲。传入日本的中国音乐,则融合二者之长,雅俗兼收,进入明治时期以后,日本社会就将发展变化后的这种中国音乐形式,合称为“明清乐”,但江户时代传入日本的音乐形式明乐、清乐,实质上是独立的。

大约在明末崇祯年间(1628—1644),明人音乐就已传入日本,最为著名的就是明朝音乐家魏之琰携带明人乐器东渡日本,并向日本社会各阶层人士教授明乐。

魏之琰(1617—1689),字尔潜,号双候,人称“九官仪”。根据2015年泉州海外交通史博物馆新发现的作于清康熙四十一年(1702)的《魏之琰墓志铭》记载,魏之琰是福清七建(大约在今福清东瀚镇)人。魏家祖上世代都为宫廷乐官,魏之琰本人也出于宫廷乐师,清军入关后,为避祸而只身东渡日本长崎,时间大约是清顺治十年(1653)。(薛彦乔、陈颖艳,2019)

此后不久,魏之琰与家兄来往于越南与日本长崎之间,开展海上丝绸、瓷器、药材、香料贸易,成为著名的海丝商人。日本宽文十二年(1672),魏之琰最终在日本长崎定居。在此期间,他与隐元交往频繁,不仅要求后者弘法讲经,还多次捐款扩建长崎的崇福寺。

在文化交流史上,魏之琰主要是作为音乐大师被载入史册,并为两国学界熟知和研究。他的名作《魏氏乐谱》,于明朝末年就传到了日本,全书内容包括《诗经》《乐府诗集》,以及唐诗宋词的相关乐谱、歌舞谱和郊庙音乐、佛教音乐等,被日本各界称为“明乐”或“魏氏乐”。

日本延宝元年(1673),他奉命进入京都天皇御苑,为后者演奏展示明朝音乐。美妙绝伦、高华典雅的明宫廷雅乐,立即引发了当时皇室王族及其他贵族群体的热烈反响,直到江户时代结束以前的两百年间,始终长盛不衰。

元禄二年(1689),魏之琰在日本去世后,魏氏家族的后人,仍世代有功于明乐的传播。例如第四代裔孙魏浩,长期致力于明乐的传承与普及工作,为便于传授学习,明和五年(1768),他从家传乐谱中,选辑五十首代表性乐谱刊印成书,此后又陆续整理刊行了全部六卷,这就是流传至今的《魏氏乐谱》。这本书出版后,在日本社会产生广泛影响,魏之琰的名字则更加广泛地在京都王侯贵族中间传扬,不仅该书被日本奉为国宝,魏之琰也被称作日本民间音乐的鼻祖。(廖深基,2020)

『魏氏楽譜』

明清時代に日本に伝わった中国の音楽は、通常「明清楽」と呼ばれているが、明楽と清楽とは実際大きな違いがあった。前者は主に古典詩を歌の文句とし、そして貴族宮廷雅楽に合わせて演じるものだったが、後者は主に民謡小唄の歌詞を歌の文句にして、その音楽スタイルは通俗的なものが多かった。その後、両者の優れた点が融合し、雅俗を兼ねたものに発展した。明治に入ってから、日本社会はこのような中国音楽から生まれた音楽形式を「明清楽」と呼ぶようになった。しかし、実は江戸時代に日本に伝わった音楽様式の明楽、清楽は、実質的に独立していた。

明末崇禎年間(1628—1644)、明人音楽はすでに日本に伝わり、とりわけ最も有名なのは明代の音楽家である魏之琰だった。彼は明人楽器を持って日本に渡り、日本社会の各階層の人々に明楽を教えた。

魏之琰(1617—1689)、字を爾潜、号を双候とし、「九官儀」と称されている。2015年に泉州海外交通史博物館で新しく発見された清康熙四十一年(1702)に作られた「魏之琰墓誌銘」によると、彼は福建省福州府福清県七建(現在の福清東瀚鎮)の出であった。魏の祖先は全て宮廷楽官で、魏之琰本人も宮廷楽師であった。清初の戦乱を避けるため、彼は清順治十年(1653)頃に一人で日本長崎へ赴いた(薛彦喬、陳穎艶、2019)

ほどなくして、魏之琰と兄はベトナムと長崎の間を行き来し、シルク、磁器、漢方薬、香料などの貿易を行い、有名な海上シルクロードの商人となった。やがて寛文十二年(1672)に魏之琰は日本の長崎に定住し、その間、隠元との付き合いが頻繁に行われ、隠元禅師に弘法講経することを求め、そして長崎崇福寺の増築のために何度も寄付した。

文化交流史においては、魏之琰は主に音楽の巨匠として史書に記されており、両国の学界によく知られ、研究されている。彼の名作『魏氏楽譜』は、明朝の末に日本に伝わり、その中に『詩経』、『楽府詩集』、そして唐宋詩歌の関連楽譜、歌や踊りの楽譜、郊廟音楽、仏教音楽などが記載されており、日本各界で「明楽」もしくは「魏氏楽」と呼ばれている。

日本延宝元年(1673)、彼は天皇の命令を受け、京都天皇御苑で明朝音楽を演奏した。そのこの上なく精妙な明代宮廷雅楽は当時の皇室王族や他の貴族の間で熱烈な反響を呼び、江戸時代が終わるまでの二百年間、その勢いや影響は衰えることはなかった。

长崎历史文化博物馆藏《魏氏乐谱》,福清黄檗文化促进会供稿

『魏氏楽譜』 長崎歴史文化博物館所蔵 (福清黄檗文化促進会提供)

在日本传播数百年之后,《魏氏乐谱》于1943年,再次传回中国,为原本保存数量稀少的中国古典音乐乐谱文献,再添瑰宝,引起了中国音乐届、学术界的热切关注。近年来,在福清黄檗文化促进会的积极推动下,相关学者得以展开广泛而深入的研究讨论。特别是2016年,促进会在日本长崎历史文化博物馆重新拍得该书全本后,历经三年,至2019年4月,广西艺术学院艺术家们首次将其中的著名诗篇,包括《关雎》《阳关曲》《月下独酌》《关山月》《游子吟》《清平调》《蝶恋花》《青玉案》等诗篇曲词,复原奏唱出来,为世人展现了不一样的古韵情怀。《魏氏乐谱》在中日两国之间的流传、复原、展示,无不生动体现出中日两国文化交流的成果与价值。

《魏氏乐谱》复古首演,福清黄檗文化促进会供稿

『魏氏楽譜』復古初演 (福清黄檗文化促進会提供)

元禄二年(1689)、魏之琰が日本で亡くなった後も、魏氏一族の子孫たちは、明楽を広めることに功労があった。例えば魏之琰から四代目にあたる魏浩は、長年にわたって明楽の伝承と普及に力を入れた。明楽を伝授するため、明和五年(1768)に家伝楽譜の中から代表的な楽譜50首を選集して本に印刷し、その後、6巻を続々と整理して刊行した。これが今日まで伝わってきた『魏氏楽譜』だ。刊行した後、この本は日本社会に及ばす影響は広く、日本で国宝とされている。それだけでなく、魏之琰という名も京都の王侯貴族の間で幅広く褒め伝えられ、日本の民間音楽の元祖と呼ばれている。(廖深基、2020)。

日本で数百年広まった後、『魏氏楽譜』は1943年に再び中国に帰ってきた。中国古典音楽楽譜文献が元々僅かしかなかったため、『魏氏楽譜』は貴重な宝物とされ、国内の音楽界、学術界の熱い注目を集めた。近年、福清黄檗文化促進会の積極的な推進により、学者達は幅広く且つ深い研究を行うことができた。特に2016年、促進会は日本長崎歴史博物館のオークションでこの本を購入して、その三年後の2019年4月、広西芸術学院の芸術家たちが初めてその中の有名な『関雎』、『陽関曲』、『月下独酌』、『関山月』、『遊子吟』、『清平調』、『蝶恋花』、『青玉案』などの詩編曲詞を復元して演奏することによって、その奇妙な古韻の情を世間に展示した。『魏氏楽譜』の両国間での伝承、復元、展示は、中日両国の文化交流の成果と価値が鮮やかに現れている。

日本长崎历史文化博物馆黄檗文化展品,福清黄檗文化促进会供稿

黄檗文化展示品 日本長崎歴史文化博物館 (福清黄檗文化促進会提供)

黄檗声明

所谓“声明”,是日本佛教寺院中有关典礼音乐的统称,又叫“音声佛事”,梵语称为“梵呗”,意为佛教赞歌。将“梵呗”改称“声明”,主要是因为,日本佛学界人士多认为“梵呗”原指天竺佛教音乐,而日本寺院所用音乐,多为中国的佛教音乐与后来的日本音乐相结合的产物,包括“汉赞”“和赞”两大类,并非梵语音乐。

拥有千余年历史的日本佛教典礼雅乐“声明”,在发展过程中,因佛教宗派的不同,也产生了不同流派类型,主要包括奈良声明、真言声明、天台声明以及黄檗声明等。其中黄檗声明,就是由隐元禅师开创的京都黄檗宗的寺院典礼雅乐,主要遵循明代的佛教典礼仪式规范,在唱念诵经过程中,采用明朝南京官话为基本语音,且黄檗声明的器乐十分发达,表现力更强,其中保存了大量明清时期的雅乐元素。在中日两国文化交流史、佛教交流史上,黄檗宗的声明,是最后传入日本,也是体系最为完备的中国佛教雅乐。

黄檗声明「声明」とは、日本の仏教寺院における式典音楽の総称で、「音声仏事」とも呼ばれる。梵語では「梵唄」と呼ばれ、仏教賛歌を意味する。「声明」に改称されたのは、日本の仏学界の人々が「梵唄」はもともと天竺仏教音楽を指していたが、日本の寺院で使われていた音楽の多くは、中国の仏教音楽とその後の日本音楽が結合した産物であり、「漢賛」、「和賛」の2種類を含み、梵語音楽ではないからだ。

「声明」は日本の仏教儀式雅楽として千年余りの歴史を持ち、その発展の過程で、仏教宗派の違いによって奈良声明、真言声明、天台声明及び黄檗声明など、異なる流派が生まれた。その中で黄檗声明は、隠元禅師によって創始された京都黄檗宗の寺院式雅楽であり、主に明代の仏教式の儀式規範に従い、読経を歌う過程で、明朝南京官話を基本音声とした。また、黄檗声明の器楽は非常に発達していたため、その表現力がより強く、明清時代の雅楽要素が大量に保存されている。中日両国の文化交流史、仏教交流史において、黄檗宗の声明は最後に日本に伝わった声明であり、最も体系が完備した中国仏教の雅楽でもある。

黄檗声明の曲やふしは、文化交流の融合の過程における多くの共通した特徴を反映していた。その中にある二つの風格特徴、つまり典型的な日本本土音楽の旋律特徴を持つ「和風旋律」、また中国の伝統雅楽の特徴を持つ「華風旋律」は、中日両国の文化の印だと言えよう。「都節音節」という典型的な日本民謡の音階以外、黄檗声明の最大な特徴と価値は、日本の仏教寺院音楽に古代中国雅楽の基本音階、演奏形式、リズム様式などの要素が今尚保存されているという点にある。だからこそ、今の時代に生きる私たちは、伝統音楽、特に明清雅楽の魅力を直感的に感じることができるのではないか。(周耘、2011)

日本黄檗声明演出现场,福清黄檗文化促进会供稿

日本「黄檗声明」公演現場 (福清黄檗文化促進会提供)

黄檗声明的音乐旋律,体现了文化交流融合的许多特征,它既具有典型的日本本土音乐的旋律风格,也就是所谓“和风旋律”特征,又具有突出的中国传统雅乐的风格样貌,即所谓“华风旋律”。除了“都节调”这种典型的日本民谣调式外,黄檗声明最大的特点和价值是,在日本佛教寺院音乐中,至今保存了古代中国雅乐的基本调式、演奏形式、节拍样式等因素,让今天的我们得以直观感受传统音乐,特别是明清雅乐的魅力。(周耘,2011)

此外,在音乐方面,除了京都黄檗山佛事音乐全仿明清外,东皋心越禅师(1639—1696)个人对日本音乐的影响是比较突出的。东皋心越明朝时出生于浙江省浦江县。幼时起就皈依佛门报恩寺。1676年为避清朝的压制从中国东渡到日本。受澄一禅师的邀请于1681年担任长崎兴福寺的住持,他曾拜访黄檗山万福寺木庵禅师并四处游历,作为外国人在日本各地周游,曾被误作清朝密探而被监禁在长崎。在1683年,受水户藩藩主德川的尽力帮助得以释放。在水户天德寺时他开始传授篆刻和古琴。在日本,东皋禅师又被称为琴乐中兴的祖师,他不仅擅长弹奏弦琴,东渡日本时还带去了虞舜琴,并且将演奏技法以及古乐乐谱,一一传授给了日本弟子,包括人见竹洞、杉浦琴川和小田野东川三人,三人中,尤其以杉浦的成就为最高。杉浦将东皋禅师带去的乐谱进行了整理,编成《东阜琴谱》一书,最终让失传已久的琴法,再度在日本复兴,演奏出又一曲文化交流、共同发展繁荣的交响乐。

また、音楽においては、京都黄檗山の仏事音楽が全部明清を模倣しているほか、東皐心越禅師(1639—1696)の日本音楽への影響も大きかった。東皐心越は明代に浙江省浦江県に生まれ、幼い頃から仏門の報恩寺に帰依した1676年に清の圧政から逃れるため日本に渡った。1681年に澄一禅師の招きで長崎興福寺の住持を務め、黄檗山万福寺の木庵禅師を訪ね、外国人として日本各地を周遊した。清朝の密偵と誤解されて長崎に監禁され、1683年、水戸藩藩主の徳川の尽力により釈放された。水戸天徳寺で篆刻と古琴を伝授し始めた。東皐禅師は日本で琴楽中興の祖師とも呼ばれ、弦琴が得意であるだけでなく、日本に渡った時に虞舜琴を連れて行き、演奏技法と古楽譜を日本の弟子に伝授した。彼の弟子には人見竹洞、杉浦琴川、小田野東川の3人がいて、特に杉浦の業績が最も高かった。杉浦が東皐禅師の日本に持って行った楽譜を整理してできた『東皐琴譜』は、伝承の絶えた琴法を再び日本で蘇らせ、両国間の文化交流と繁栄の美しい曲を奏でた。

二、飲食と茶道

飲食文化

明末清初に日本に渡った黄檗禅僧は、建築、彫刻、書画などの面で中華文化を広めただけでなく、日常生活を通して、わが国の特有の風習をも示していた。特に飲食においては故郷の習慣を改めることなく、中華風の調理、食習慣や食品を日本に紹介し、当時の日本の食生活にとても大きい震撼と影響を与えた。

江戸幕府は1639年から鎖国してきたが、長崎の出島から日本に伝わる中国料理は依然として少なくなかった。例えば『長崎夜話草』巻5に挙げられている我が国の東伝した菓子には、香餅、大胡麻餅、砂糖鳥羅保衣、香沙餅、火縄餅、胡麻牛皮、玉露餅、賀饅頭など、種類が多い。この時期に東伝