草莽英雄周鹤芝

草莽英雄周鹤芝

隐元禅师与福清海口、镇东两城的统帅周鹤芝交情甚厚。周鹤芝始为草莽英雄,后为抗清义士的传奇故事在福清、平潭两地县志均有记载。

周鹤芝(约1592—约1680),又名周芝、周崔芝。福清仁寿里(今福清市音西镇)人,是明末清初威震闽海的传奇人物,少年时喜爱武艺,精于骑射,有侠义之气,被当地土豪劣绅视为眼中钉。有一次,周鹤芝杀死了一位欺压百姓的地方官,逃亡海上,不能返乡,他索性干起劫富济贫的海盗营生。他常在日本沿海岛屿活动,把许多日本海盗打得落花流水,成为名震闽海的“江洋大盗”。但他行事仁义,并不滥杀无辜,实为“仁盗”。当时日本有一个名叫撒斯玛的萨摩王爷,是一个拥有权势的大将军,他慧眼识才,十分赏识年轻的周鹤芝,不仅收他为义子,还赐给他祖传的“太阳剑”,把他留在身边担任侍卫官。周鹤芝帮助王爷巩固势力,王爷也资助周鹤芝组建海盗集团,从此,周鹤芝在中日两国之间的商船畅通无阻。

何度か意識不明になったが、幸いに一命を取り留めた。林汝翥は崇禎帝が即位するまで官界に戻ることはなかった。

林汝翥の鉄面無私を最も体現できるのは、彼の大義滅親の行為だ。明代崇禎年間、林汝翥の甥たちは林汝翥に頼って京で役人となり、同郷の人々を脅かしたりして、非常に威張っていた。当時、楡渓駅(現在の福建福清漁渓鎮境内)は福州、興化(現在の福建莆田)、泉州、漳州の四地の商業往来に必ず通る宿場だった。林汝翥一族の18人の甥はよく楡渓駅で強盗をしたり、財産を奪うために人を殺すことまでもした。彼らはいずれも名前に「夫」という字を持つ子孫であるため、「十八夫」と呼ばれていた。かつての商人はその苦しみに耐えられず、地元の人々も彼らを「十八虎」と憎んだ。知県は林汝翥の機嫌を損ねるのを恐れて、ずっと彼らを捕まえる勇気がなかった。この事が京城に伝わると、林汝翥は義憤に駆られ、夜通し紅江に帰り、自らこの一族の甥たちを取り調べようとした。大宴会を催して、甥たちを集めた。宴会の間に「十八虎」を縛らせて罪を叱責し、麻袋に入れて海に放り込んだ。それ以来、楡渓駅の近くでは誰も何もしないようになり、商業往来は正常に戻った。家族愛をどのように扱うかについては、伝統的に「親相隠」と「大義滅親」の二つの考え方がある。孔子は『論語』には「父は子隠、子は父隠」が述べられている。血縁関系の親族の間でいくつかの罪を隠して官庁に告発しなくてもよい、親族の情は人間性の中で最も真摯な感情で、互いにかばうのは人情だとしている。しかし、官吏が公事を処理する際には、親族の情よりも国法や政治倫理が優先されるため、『礼記』に「門内の治恩は義を覆い、門外の治恩は義を断つ」とあるように、大義で親族を滅ぼす必要があった。家庭内の問題を処理するには、道義の公理よりも愛の情を重んじ、和を貴とし、是非の損得をあまり気にする必要はないが、公務を処理するには、愛の情よりも道義の公理を重んじ、是非を明らかにしなければならず、家族の情を顧みて道義の公理を乱してはならないという意味である。(劉厚琴、2017)林汝翥が大義で親族を滅ぼす義挙によって、地方の害になる者が処罰され、一地方の安寧が守られた話は、後世に語り継がれた。

清順治五年(1648)、魯王は海上から軍を率いて清兵に占領されていた連江、長楽、永泰、閩清などを次々と攻略した。林汝翥は魯王の呼びかけに積極的に応え、福清義軍を組織して魯王の福清回復に協力しようとした。そうすると、魯王に召見され、兵部右侍郎に任命された。同年、吏部主事林垐と合流して福清県城を攻めたが、不幸にも逮捕された。彼は降伏を拒否し、清兵は残忍に爪10本を抜いたが、彼は顔色を変えなかった。死後、一族は彼を山間の窪地に埋葬し、棺を鎖で吊るした。彼は最期に「清朝の土には入らない」と誓ったからである。

周鹤芝虽为海盗,但他是一位身飘浮海,心忧国难的爱国人士。他在太平洋从事海盗营生时,已结识郑芝龙、郑成功父子俩,并与郑成功心气相投。明崇祯五年(1632),周鹤芝接受明朝廷招安,担任七品武官把总,负责稽查海上船只。明朝灭亡后,周鹤芝一直坚持抗清复明的立场。

南明隆武元年(1645),南明唐王封周鹤芝为水军都督,他以浙江舟山为基地,尽心尽力发展抗清武装力量,并派人送书信给日本义父萨斯玛王爷,表明抗清决心,痛述自己复明困境,恳请萨斯玛王爷派兵相助。王爷答应了他的请求,允诺第二年发兵三万驰援周鹤芝。周鹤芝大喜,正准备派遣使者前往日本接洽,却遭主将黄斌卿阻挠,黄斌卿认为周鹤芝向日本借兵,无异于吴三桂引清兵入关,有谋反之嫌,实际上,他更怕的是周鹤芝力量强大,会损害他身为主帅的权威,因而,周鹤芝向日本借兵的计划失败了。周鹤芝一气之下带兵回到福建。

同年,在南明唐王朝廷独揽大权的郑芝龙居然倒戈投降清廷,他写信给周鹤芝,当面劝他归顺清廷,周鹤芝义愤难平,坚决拒绝,当即立下誓言,“生为明朝人,死为明朝鬼”。郑芝龙拿他也没有办法。此后,周鹤芝移兵海坛(今平潭县),在此建立抗清武装基地,并第二次向日本义父借兵,但未能如愿。

1645年2月,清军南下,逼近福州福清,黄檗寺恐慌,寺中长老一致决定请隐元(当时隐元在福建长乐县龙泉寺担任住持)回寺住持大局,隐元在1646年正月底回到黄檗寺,再次担任黄檗寺住持。同年,唐王封周鹤芝为平鲁伯,他回到老家福清,镇守海口民城、镇东卫城两城。海口一地两城,地处福清、长乐、平潭三县交通要塞,是兵家必争之地,海口的镇东卫城曾是明朝的大卫所之一,与天津卫城齐名,史称“北有天津卫,南有镇东卫”,最强盛的时候屯兵近九千人。明朝时期的海口也是经济繁荣的良港,号称“百万华居”,人称“小杭州”。

林汝翥は隠元禅師の上迳の同郷で、年齢も似ている。崇禎十一年(1638)、林汝翥が七十歳の誕生日を迎えたとき、隠元は詩を作って祝い、林汝翥の頑強不屈で国に忠誠を尽くす豪気を賞賛した。清順治四年(1647)、林汝翥が清兵に立ち向かって敗北した後、隠元は深い愛情を込めて追悼詩を書いた(平久保章、1979)。林汝翥の清に抵抗する義挙への敬服の情も表しており、官界に退かず、自らを保全しなかったことも惜しんだ。そのうえ、隠元は門人の慧門如沛に手紙を書いて、黄檗山に黄檗に功績のある重要な檀越を奉納するよう要求した。その中で、林汝翥の名が首位に立っていた。

二、南明の秀でた人物

民間英雄の周鶴芝

隠元禅師は福清海口と鎮東両城の司令官である周鶴芝と親交が深かった。周鶴芝は民間の英雄であり、その後に抗清義士になったという伝説は福清と平潭両地の県誌に記録されている。

周鶴芝(約1592—約1680)、別名周芝、周崔芝。福清仁寿里(現在の福清市音西鎮)の出身で、明末清初の頃、福建辺りでは伝説的な人物であった。少年の頃は武芸が好きで、騎射に精通して、任侠の気があり、地元の土豪劣紳に目の敵にされていた。ある日、周鶴芝は人々を抑圧していた地元の役人を殺した。海に逃亡して、故郷に帰ることができず、思い切って金持ちの財産を奪って貧しいものに施すという海賊を生業とした。日本沿海の島々で活動し、福建海に名をとどろかす「大盗賊」となったが、それと裏腹に仁義を尽くし、無実の人をむやみに殺すことがなく、実に「仁盗」であった。当時、日本にはサスマという薩摩王がいた。権勢を持つ大将軍であった。彼は

1646年9月,清兵攻破福州后,屠杀城中居民,次年3月,清兵围攻福清海口,军民与清兵抗争百日,最终被清兵将领满进忠率军攻陷。当时,周鹤芝不在城内,两城防守大军,还有众多协助守城的抗清民众被屠杀,据史籍记载,海口屠城死难者数千人(也有学者认为约二三万人被杀害)(释东初,1970),血流成河,惨不忍睹,这就是清军酿成的“丁亥惨变”。事变之后,隐元率领僧众前往海口、龙江两地举行水陆法会,超度亡灵。隐元作诗偈四首,其怀念旧朝与悲天悯人的情愫溢于字里行间,即使是身处空门的高僧,面对国破家亡、民生涂炭的现实也难以平复内心的悲凉,海口屠城给隐元禅师思想的震荡是巨大的,或许他曾经想做一位退隐山林不问世事的僧人,但世道浇漓,何处是净土?在明清鼎革之际,哪怕是僧侣也会直接或间接卷入反清复明活动。

海口被清兵攻陷之后,周鹤芝又转战平潭。1647年,平潭城破。至此,清兵占领福建全境,周鹤芝也不知去向。据说,周鹤芝此后随郑成功军队在福清、长乐登陆,曾一度攻下海口、镇东二城(今属福清海口镇)和长乐、松下等地,转战海坛,郑成功离开后,周鹤芝在海坛统兵据守。(平潭政协文史资料编辑组,1988)又据说,1680年,周鹤芝率兵与清廷提督万正色激战月余,最后粮尽,自刎殉国,此说尚无从考证。这位声震闽海的草莽英雄为抗清复明的理想战斗到生命的最后一刻,可歌可泣。