江户前期的日本佛教

江户前期的日本佛教

江户时代,日本国力到达巅峰,期间不仅是经济社会的发展,更有思想上多番的较量与更迭,最显著的特点是,儒学传入,生命力蓬勃旺盛,道教流行,长久以来流行的佛学,却日渐衰微。

社会背景

从政治发展历史上看,由于古代日本社会,从镰仓时代到室町时代,长期处在战争动乱之中,特别是镰仓时代以后南北分裂的时期,在大约六十年的时间里,天皇、幕府将军、守护大名以及武士等统治阶层内部,相互斗争更是异常激烈。在此情况下,原本属于从属地位的小农阶层,却纷纷获得了独立,这反而促进了农业及相关产业的发展。伴随着农业和手工业经济的发展,日本的商业经济也得到了一定程度的发展,在此条件下,日本社会开始出现了较为发达的城市经济,在这些以商业为基础发展起来的城市中,平民阶层也不断扩大,悄悄地改变了日本社会的结构。

进入室町时代后,势力不断增强的大名阶层,也开始割据地方。在经历了长达百余年的战国时代和安土桃山时代(1573—1603)之后,特别是丰臣秀吉死后,大名集团中,实力最强的德川家康(1543—1616)最终掌握了朝政实权,并于日本庆长八年(1603)被册封为征夷大将军。从此开始一直到日本庆应三年(1867)幕府向天皇归还大政,共计265年,因德川幕府设在江户(今日本京都),这一历史时期,就被称为日本的“江户时代”。由于这一时期的日本政权始终掌握在德川家族手中,故这一时代也被称作“德川时代”,大致年代,相当于中国晚明到晚清时期。

思想发展史上,在此前日本的奈良、平安时代,佛教从整体上说始终是日本的国教,受到极大的尊崇。而到了镰仓和室町时代以后,由于中国儒学的传入和影响,在儒佛激烈的斗争中,佛教渐渐显出没落的态势,儒教逐步兴隆。在长期的儒学、佛教斗争的历史过程中,社会上层主要接受了儒学,而佛教在中下层民众中仍有重要的影响。具体而言,由于日本室町时代主要对禅僧开放海禁,中日两国佛学界的互通往来较为频繁,这一时期在京都和镰仓所实行的五山制度,以五山的禅僧为日本接受、创作和传播中国文化的主体,因而兴起的汉文学与文化的主要内容也是所谓“五山文化”。“五山文化”具有浓厚的佛教禅宗色彩,但是与此同时,这些五山的禅僧并不完全排斥中国儒学和其他中国的传统思想,并以开放心态研究各类汉籍,因此,中国文化的各个元素,都得以传入日本社会。

た。そのため、隠元禅師の渡日は、その当時の政治的·宗教的欲求に即したものであった。

江戸時代前期の日本仏教

江戸時代に日本の国力は頂点に達し、経済社会の発展が進み、諸思想の交渉と交替が激しくなっている。その中で最も顕著な特徴は、儒学の伝来により道教が盛んになり、一方で長い間流行していた仏教は日に日に衰退に向かい、生気を喪失しつつあった。

社会背景

政治発展の歴史から見ると、古代の日本は、鎌倉時代から室町時代にかけて戦乱が止まらず、特に鎌倉時代以降南北が分断され、約六十年の間、天皇、将軍、守護大名、武士などの支配層の内部では、激しく闘争していた。それを背景に、もともと従属的な地位にあった農民層が独立し、農業や関連産業の発展を促進した。農業と手工業の発展に伴って、日本の商業はある程度の発展を得て、比較的発達した都市経済が現れた。こうした商業を基礎として発展してきた都市の中で、庶民層がますます壮大になり、徐々に日本社会の構造を変えていた。

室町時代に入ると、勢力を増していた大名層も、地方を割拠するようになった。百年余りの戦国時代と安土桃山時代(1573—1603)を経て、豊臣秀吉の死後、戦国大名の中で最強とする徳川家康がついに政治の実権を掌握し、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任じられた。それ以来、慶応三年(1867)の大政奉還までの265年間、徳川幕府が江戸(現在の京都)に置かれたことから、この歴史的時期は「江戸時代」と呼ばれている。この時期の日本の政権は終始徳川家に握られていたため、この時代は「徳川時代」とも呼ばれ、大まかな年代は中国の清末からの時期に相当する。

思想発展史から見ると、日本の奈良と平安時代では、仏教は日本の国教であり、大きな尊崇を受けていた。しかし、鎌倉·室町時代以降、中国儒学の伝来により、儒仏の激しい闘争の中で仏教は没落の様相を呈し、儒教は次第に隆盛していった。長期の儒仏闘争の中で、上層階級は儒学を受け入れ重んじてきたが、中下層階級の民衆の中で、仏教は依然として重要な影響を持っている。具体的には、室町時代には民間人の海上交易が禁止されているが、禅僧の渡航は認められていたため、中日両国の仏学界の往来は比較的頻繁であった。この時代に京都·鎌倉で行われた五山制度は、主に五山の禅僧が中国文化を受け入れ、受容と流布したため、この時期盛んになった漢文学と漢文化を主とする「五山文化」は、仏教禅宗的な特徴が多くあった。しかし同時に、これらの五山の禅僧たちは儒学とその他の中国の伝統思想を完全に排斥することはなく、開放的な態度で各類の漢籍を研究している。これにより、中国文化の各要素は日本社会に伝来することができた。

日本奈良鉴真所建唐招提寺,林雪云摄

鑑真和尚によって建てられた唐招提寺 奈良市 (林雪雲撮影)

与室町时代相比,江户时代的日本,社会政治稳定,整体处在太平盛世时期,不论是农业、手工业还是商业经济,都得到了大力发展。蓬勃发展的商业经济,不断动摇着武士阶层的经济利益。反映到思想文化上,由于长期寄生于武士阶层的僧侣地位开始下降,佛教文化的影响也随之减弱,与此相对,维护幕府政权稳定的朱熹理学思想的影响日益增大,理学文化甚至已经成为当时学术思想领域的主流。这就是黄檗文化东渡日本之际,日本佛教所处的社会思想背景。

室町時代と比べ、江戸時代の日本は、社会政治が安定し、国が栄えた太平な時代にあり、農業、手工業、商業などはいずれも大いに発展した。活況を呈した商業は、武士層の経済基盤を揺るがし続けた。思想と文化の面では、古くから武家に寄生していた僧侶の地位が下がり、仏教文化の影響力が低下したのに対し、幕府政権の安定を維持する朱子学の影響力が強くなり、朱子文化が当時の学術·思想分野の主流となっていた。これが黄檗文化が日本に渡来した際、日本仏教が置かれた社会思想的背景である。

日本岐阜县高山市江户风格街景,林雪云摄

江戸風街並み 岐阜県高山市 (林雪雲撮影)

江户佛教处境

中日两国的文化交往,大致可以分为三个阶段,日本社会流行中国文化和汉文学也出现过三次高峰。第一次,是奈良时代的贵族士大夫文学,第二次,是室町时代的以五山文化僧侣为中心的汉文学,第三次,无疑就是江户时代儒者、文人为主体的儒学、佛学、文人文学艺术为主要内容的汉文学发展。(绪方惟精,1980)在古代的东亚国家和社会,接受中国文化典籍的数量,往往是衡量这个国家和社会文明程度高低的重要指标。(陈小法,2011)这三次高峰,也正是儒学、史学、诸子、文学、艺术典籍、作品流传至日本的高潮。这也离不开来自中国的高僧群体对中国佛学、禅宗典籍传播所做的努力。

作为中日文化交流的一次高峰,江户时代前期,一方面佛教依然有较高的地位,并且已经深入日本社会日常生活的方方面面,但是,另一方面,从奈良时代以来,长达数百年的发展渗透使江户时代前期的日本佛教早已失去了创新活力,对于新兴的平民文人群体的吸引力也开始降低,单纯作为一种管理工具的佛教,各种弊病也层出不穷,这恰恰为儒教和道教的乘虚而入,提供了有利的环境和条件。一种思想一旦显示出衰微的征兆,便会加速衰微。因为加速的力量不是在衰微的时候才出现,而是早已存在,只是尚未显示出来,而在主流思想之衰弱出现的时候,一直隐藏其中的其他力量,便趁机凸显。

江户时代以前,新思想的出现,往往借着佛学的旗帜,即使到了江户时代初期,著名儒者如藤原惺窝(1561—1619)、林罗山(1583—1657)等人,也都曾在年少时出家为僧,在寺院中学习读书,学有所成之后,才出山在幕府担任儒官职务。而到江户时代中期以后,随着佛教在日本的堕落和腐败,其社会地位也大大下降,日本的儒者、文人,往往不再出于佛门,一般儒者也以曾经入于佛门为耻,这时期佛学的发展和影响,已经远远不及儒学。(朱谦之,1958)此时,日本儒学发展势头猛进,佛教远远不及。

三教合一的趋势

“五山时代”的文学,一个令人瞩目的特点,便是提倡儒佛一致、三教一致的观点,这种观点越来越普遍,可以看作儒学——主要是朱熹的理学——开始凌驾于佛教之上的先兆。而且“五山禅僧中几无不言三教合一的”(朱谦之,1958),五山禅僧本身就是主张三教合一的早期代表,隐元高足之一的即非如一禅师,在东渡日本后,也是三教合一的践行者,他校勘了福清名儒林希逸的《老子鬳斋口义》,这部道家著作,便是明证。禅僧们的思想倾向导致“三教一致这时成为一般外佛者而内俗儒的一种借口”,可见此时日本的释者已显出弱势。

江戸仏教の境遇

中日両国の文化交流は、大きく三つの段階に分けられる。過去に日本社会の中国文化と漢文学の受容において三度のピークが訪れた。一度目は奈良時代の貴族士大夫文学、二度目は室町時代の五山文化僧侶を中心とした漢文学、三度目は間違いなく江戸時代の儒者、文人を主体に、儒学、仏教、文人文学芸術を主な内容とした漢文学の発展である。(緒方惟精、1980)古代の東アジア諸国では、中国文化典籍の輸入数は、その国と社会の文明度の高さを測る重要な指標となっていた。(陳小法、2011)この三度のピークは、まさに儒学、歴史学、諸子思想、文学、芸術典籍、作品が日本に伝わるクライマックスでもある。それには、中国の高僧たちによる中国の仏学、禅宗典籍の伝来のために力を尽くしたことがなくてはならない。

中日文化交流のピークの一つとして、江戸時代前期、仏教は依然として高い地位を持っており、そして日本社会の日常生活の各方面に深く入り込んでいる。しかし、一方で、奈良時代以来何百年も経ち、江戸時代前期の日本仏教は、すでに革新的な活力を失い、新興の庶民文人集団への魅力も低下し始め、幕府の管理手段の一つとしても様々な弊害が続出し、儒教や道教の参入にチャンスを与えた。また、仏教は衰微の兆しを示すと、急速に衰微する。それは、衰微の兆しが出る前から既に存在しながら、まだ現れていない力が、主流思想の停滞が現れた時、その機に乗じて際立っているからである。

江戸時代以前、新しい思想は仏教の看板を掲げて出世するのが普通で、江戸時代の初期になっても、有名な儒者である例えば藤原真窩、林羅山などは、若い時に出家して僧になり、寺院で勉強してから幕府で儒官の職務を担当するのである。しかし、江戸時代の中期以降、仏教の衰退に伴って、仏教の社会地位が大幅に低下し、寺院で勉強する日本の儒者と文人が少なくなり、仏門に入ったことも恥とされ、この時期の仏教の発展と影響力は儒学にはるかに及ばない。(朱謙之、1958)儒教は大変な勢いで発展したため、仏教がはるかに及ばなかった。

三教統合の傾向

「五山時代」文学の注目すべき特徴の一つは、儒仏一致、三教一致の観点を提唱することであり、これは儒学——主に朱子学——仏教を超える前兆と見ることができる。しかも、「五山禅僧の中には三教統合を語らない者はいない」。(朱謙之、1958)五山禅僧自身が三教統合を主張した初期の代表であり、隠元の高足である非如一禅師は日本渡来後も三教統合を実践し、福清市の名儒林希逸が書いた道家の著作『老子鬳斎口義』を校勘したことがその証である。禅僧たちのこの傾向により、「三教統合はこの時、外見は仏者ながらも、中身は儒者と言うのが常である」。日本の仏教はすでに弱体化していたことがよくわかる。

到江户时代前期,佛教和儒教还处在论争之中,在社会上并未分出胜败,而实际的状况是这时涌现出越来越多的寺庙,其中80%的寺庙仅靠自己的收入已经不能维持自身的生存(Richard Bowring,2017),这是当时日本佛教衰落的一个征兆。

道教随着移民潮在魏晋南北朝时期就传入日本,并有一定接受度,江户初期就有吉川惟足(1616—1694)创立的吉川神道、山崎暗斋(1619—1682)创立的垂加神道、契冲和尚(1640—1701)等衍生出的复古神道等等。在儒学传入日本以后,室町末期呈现出佛、儒、道并存的局面,各自都在借力发展,于是渐渐滋生出三教合流的趋势。

日本京都妙心寺,福清黄檗文化促进会供稿

妙心寺 京都市 (福清黄檗文化促進会提供)

江戸時代の前期までは、仏教と儒教の交渉はまだ勝負がついていなかった。この時期、寺院がたくさん創立されたが、そのうち80%は自らの収入だけでは維持できなくなり(Richard Bowring、2017)、これが当時日本仏教の衰退の兆しとなった。

道教は魏晋南北朝時代に日本に渡来し、ある程度受容されていた。江戸初期には吉川惟足(1616—1694)が創始した吉川神道、山崎暗斎(1619—1682)が創始した垂加神道、契冲和尚(1640—1701)などが創始した復古神道などがある。儒学が日本に伝来した後、室町末期に仏教、儒教、道教が并存する局面を呈して、それぞれ力を借りて発展し、徐々に三教が合流する傾向が生まれた。

当時、仏教は相変わらず宗派の振興に力点を置いていた。そこで、中国の高僧を招いて、外来思想を導入し、仏門の士気を奮い立たせるのは最もよい選択であった。名高い隠元禅師はその最初の人選とされている。

隠元禅師は福清市万福寺を二度にわたって十七年間住職を務め、国内外でその名を馳せた。彼の『隠元語録』の二巻は、旅人の往来とともに日本に伝わり、日本の僧侶の間で広く知られるようになった。日本の学者である木宮泰彦はかつて次のように述べている。「隠元の盛名は長い間日本長崎に滞在している中国僧侶の間で広く知られ、しかも隠元の来日三年前に『黄檗隠元禅師語録』がすでに日本に伝わっていた。最も隆盛な京都の妙心寺(日本臨済宗の本寺)では僧侶たちはこれを購入して読んでいた。」(木宮泰彦、陳捷、2015)隠元禅師渡日の前、日本京都妙心寺の高僧である禿翁妙宏は『黄檗隠元禅師語録』に感銘を受け、僧侶に積極的に購入して読むよう要求し

而当时佛教的着力点,依然是振兴教派。向外借力,引进中国高僧,以引进思想,提振佛门士气,就成为不二做法。久负盛名的隐元禅师,便是其中首选。

隐元禅师先后两次住持福清万福寺,长达十七年之久,可以称得上是名扬海内外。他所刻印的《隐元语录》二卷随着商旅往来传到日本,在日本僧界广泛传播。日本学者木宫泰彦曾这样描述:“隐元盛名久为留居日本长崎的中国僧人间所宣传,且其在中国开印之语录,当彼未来日以前,已传至日本禅林中,最隆盛的京都妙心寺(日本临济宗本寺)派下僧侣,多购读之。”(木宫泰彦、陈捷,2015)隐元禅师渡日前,日本京都妙心寺高僧秃翁妙宏(1611—1681)读到《隐元语录》,深为叹服,便要求僧侣积极购买阅读。隐元禅师的禅心妙语由此流播开来,他的高僧形象更加深入到日本僧俗界。

关于隐元禅师渡日的原因,中日说法不一,目前学界主要有以下三种观点。