招请密云圆悟的叶益蕃

招请密云圆悟的叶益蕃

黄檗寺成为南禅临济宗固定道场,始于明末崇祯三年(1630)。临济宗的第三十代传人、六十四岁的密云圆悟禅师,被称为明代临济宗“中兴之祖”,这年三月到八月,担任黄檗山万福寺住持,是第一代住持开法。而负责延请密云禅师的,就是“檀越”叶益蕃等人。叶益蕃是叶向高的长子叶成学之子,即叶向高的长孙。叶益蕃在延请密云圆悟的帖书中写道:“自从自黄檗希运禅师传播临济思想以来,至今代代相传,从未断绝。自神宗万历皇帝亲赐经藏之后,黄檗临济的传承更是兴盛,如今这项事业正需要阁下的亲临传扬,以满足各方人士的共同期待。”(福清县志编纂委员会,1989)叶益蕃表达了拳拳之心,强调黄檗寺虽然荣幸获得神宗赐藏,但长期没有大师到此弘法,甚为可惜,黄檗山虽地处偏僻,仍真切盼望密云禅师到此担任住持,传播临济禅宗。

虽然密云禅师住持万福寺的时间不到半年,但他的弟子费隐通容(福建福清人),从崇祯六年(1633)开始继任黄檗山万福寺住持,正是在此期间,费隐培养出了以隐元隆琦为代表的六十四名重要弟子,极大地壮大了密云圆悟禅师的临济宗天童派。隐元更是被誉为“黄檗中兴之主”。正是在隐元住持黄檗寺期间,黄檗寺成了东南沿海一大名刹。清顺治十一年(1654),隐元东渡日本,开创了日本“黄檗宗”之后。福清的黄檗寺始终被日本“黄檗宗”奉为祖庭。这一切与最初招请密云圆悟的叶益蕃,密不可分。

葉向高も熱心な仏教保護者で、福州府福建侯県雪峰山の崇聖禅寺、福州鼓山の涌泉寺の復興を助けた。故郷の福清では、黄檗山万福寺など多くの寺院の再建に携わった。葉向高は年をとって故郷に帰った後、自ら黄檗寺のために対聯を書いた。そして、四百両の銀貨を出資しただけでなく、親戚や友人と共に募金活働にも参加した。『黄檗寺誌』によると、葉向高が主導した黄檗山伽藍の再建は、万暦四十三年(1615)に始まり、天啓元年(1621)に終わった。葉向高の外護の功績を記念するために、黄檗山の僧俗は山内に択木堂を建て、葉向高像を祀ったが、残念ながらこの像は1940年代末、盗賊に盗まれ、行方不明になった。

密雲円悟を招請した葉益蕃

黄檗寺が南禅臨済宗の固定道場となったのは、明末の崇禎三年(1630)に始まる。臨済宗の三十代の子孫である六十四歳の密雲円悟禅師は、明代臨済宗の「中興の祖」と呼ばれ、この年の三月から八月まで、黄檗山万福寺の住職を務め、初代住職開法になった。密雲禅師の招聘を担当したのは、「檀越」の葉益蕃らであった。葉益蕃は葉向高の長男葉成学の息子、すなわち葉向高の一番上の孫である。葉益蕃は密雲円悟を招いた帖書の中で、「臨済思想は黄檗希運禅師によって広められて以来、今に至るまで代々受け継がれ、特に、神宗万暦皇帝から経蔵を賜われたのをきっかけに、さらに盛んになった。今日、各方面の人々の期待に応えるために、現場へのご臨席の弘法が必要なのだ」。(福清県誌編纂委員会、1989)葉益蕃は懇切なる心を言葉にした。神宗から蔵経が与えられたことは素晴らしいことだが、黄檗寺は辺鄙な場所にあるから、長い間ここに来て法を広める有名な法師がいなかったのは非常に残念に思う。葉益蕃は密雲禅師にここに来て住職となり、臨済禅宗を広めてほしいと心から望んでいた。

密雲禅師が万福寺の住職を務めた時間は半年足らずだったが、法嗣の費隠通容(福建福清人)は崇禎六年(1633)に、黄檗山万福寺の住職を引き継いだ。その後、隠元隆琦をはじめとする64人の法嗣を養成し、密雲円悟が開いた臨済宗天童派の中で特に隆盛を極めた。そのうち、隠元が「黄檗中興の主」と呼ばれていた。彼が黄檗寺の住職をしていた頃、黄檗寺は東南沿海の名刹となった。清の順治十一年(1654)、隠元は日本に渡って仏法を広め、日本の「黄檗宗」を開いたため、福清の黄檗寺は日本の「黄檗宗」の祖庭となった。これらすべての始まりは、密雲円悟を招いた葉益蕃にあると言っても過言ではない。

京都万福寺藏费隐禅师像,福清黄檗文化促进会供稿

費隠禅師像 京都萬福寺所蔵 (福清黄檗文化促進会提供)

臨済宗が黄檗寺で発揚できたのは何代にもわたる禅師の努力による結果で、当時の社会環境にしては容易なことではなかった。元の時代から、程朱学は封建支配者の支配思想とされ、明清の時代になると、さらに強化された。明代の支配者は仏教も支持したが、一方で仏教を制限し粛正することもあった。例えば、寺院の田畑面積について明確に規定したり、寺院を整理併合したり、宋代の僧官制度に倣って、地方に各級の仏教管理機関を設けて仏教の僧尼事務を管理したり、寺院の数などを厳しく抑えたりした。

明万暦の末から清の始めにかけて、福清黄檗寺をはじめ、福建各地の有名な寺院は、いずれも厳しい環境の中にありながら、次第に福建臨済宗の有名な道場に発展した。(王荣国、1997)。このような寺院を積極的に発展させてきた功績のため、隠元師弟などは福建だけでなく、全国においても臨済宗中興期の有名な禅師として崇められるようになった。

禅宗六祖慧能の円寂後千年あまり、明末嘉靖年間、江蘇省宜興で、蒋という若者が26歳の時、偶然に『六祖壇経』を手に入れ、とても喜んだ。昼は耕作芝刈り、夜はわらじを編みながら、『壇経』の仏法を参究していて、いつも悟るところがあった。「私は魚を捕ったり、柴刈りをしたり、畑を耕したり、牛を放牧したりしているが、人が生死に如何に向き合うかということだけはずっと理解できずにいた」と彼は思った。そこで二十九歳の時、彼は家のことを片づけ、宜興の顕親寺に行き、幻有正伝禅師の下に出家した。正伝禅師はとても厳しく、しばしば彼をひどく叱った。ある時正伝法師に「君はまあとんだことになったものだなあ、かってにしろ。もう他に何も言うことはない」と言われた。彼は恥ずかしさあまり,なんと大病を患ってしまったが,二十七日後にやっと全快した。その後、龍池山に千日間閉じこもったが、大悟せず、出関後2年、銅官山の頂上を通り、周囲の草木が生い茂っているのを見て、ふと悟った。この時、彼は38歳だった。その後各地を旅し、1610年に正伝法師の元に戻り、ようやく正伝法師に認められた。この青年こそが、「臨済宗中興の祖」と尊ばれている密雲円悟禅師だ。

临济宗能在黄檗寺弘扬得力于几代禅师的努力,在当时的社会环境下这并不是一件容易的事。从南宋理宗以后,程朱一派的理学,就已经进入科举考试,被尊为统治思想,到明清两朝,程朱理学在科举社会中的地位更是如日中天。历代统治者对佛教虽然也予以一定程度的支持,但也有不少限制与整顿,包括对寺院田产面积加以明确的限定,多次整顿归并寺院,同时也参照宋代的僧官度牒制度,在地方设置各级佛教管理的专门机构,对佛教等宗教事务加强管理,并且严格控制寺院数量等。

明万历末至清初,包括福清黄檗寺在内的福建各地著名寺院,都在艰难的环境中,渐渐发展为当时福建临济宗的著名道场。(王荣国,1997)正是因为这些发展兴寺的功绩,隐元师徒等人才被推崇为福建乃至全国临济宗中兴时期的著名禅师。

自禅宗六祖慧能圆寂一千多年,明代嘉靖年间(1522—1566),江苏宜兴有个蒋姓年轻人,二十六岁时,偶然得到一本《六祖坛经》,高兴不已,于是白天耕种砍柴,晚上一边编织草鞋,一边对《坛经》佛法进行参究,时时有所体悟。他想:“我打过渔、砍过柴、耕过田、放过牛,唯独对人如何面对生死这件事还一片茫然。”于是,二十九岁那年,他安置好家室,前往宜兴显亲寺,在幻有正传禅师的指导下出家。正传禅师对他要求严格,经常厉声责骂,有一次,正传法师对他说:“你如果到这田地,便就放身倒卧,我没有其他的话可说。”他惭闷交集,居然大病一场,二十七天后才痊愈。他在龙池山闭关千日,但并未大悟,直到出关后的两年,他经过铜官山顶,看到周围草木盎然,突然有所顿悟,此时他已三十八岁。接着,他到各地游历,直到1610年回到正传禅师身边,得到正传认可。这位蒋性青年就是被称为“临济宗中兴之祖”的密云圆悟禅师。

密云圆悟秉承六祖慧能的南禅宗法,历任六大名刹住持,僧俗问法者终日不绝,嗣法者十二人,座下徒众三千余人。圆悟用棍棒敲打或者大喝一声的方式,来暗示和启发对方,这种“当头棒喝”的禅修实践,主要是警醒和启发弟子,达成顿悟本心的效果。圆悟的禅学思想和修行实践方法,对明末清初的禅宗各派都产生了重大影响。隐元禅师也正是在这一历史时期,前往浙江投密云圆悟禅修两年并最终开悟。崇祯三年(1630),密云圆悟开始担任黄檗寺住持,隐元隆琦师徒三代共同倡道,薪火相传,推动黄檗寺成为东南名刹。

密雲円悟は六祖慧能南禅宗法を受け継ぎ、六大名刹の住職を歴任していた。その間、僧俗問法者は終日絶えず、嗣法者は十二人で、座下徒衆は三千人余りであった。円悟が棒で頭を敲いたり、一喝したりして、相手に悟りを開かせる、いわゆる「頭ごなしに一喝する」という方法は、禅を学ぶ人の頑迷さを目覚めさせることを目的としている。それ故に、円悟の禅思想は、明と清が入れ替わる時期の禅宗各派に大きな影響を与えたのだ。それに、隠元禅師は天啓四年(1624)に浙江省海塩県の金粟山に行き、密雲円悟座の下に参禅し、2年間の修習を経て悟りを開いた。崇禎三年(1630)、密雲円悟がようやく黄檗寺の住職に就任するような招きを受けたのは、葉益蕃の出頭と直接関係があった。密雲円悟、費隠通容、隠元隆琦の三代が絶えずに弘法に力を尽くした結果、ついに黄檗寺が東南の名刹になった。

抗清義士の葉進晟

崇禎十七年(1644)、明王朝の政治は腐敗堕落し、風雨に揺れていた。李自成が蜂起軍を率いて北京城を攻略し、崇禎帝の朱由検は百官を集めて協議したが、対応できる人が一人もなく、たまらなく絶望して、景山に逃げ、古いエンジュの木で首を吊って亡くなり、明は覆滅した。その後、清朝は混乱に乗じて山海関(万里の長城の東端の町)より内側に入り、李自成を追い出して北京城を占領した。明代から清代へ変わる中、明の宗室は南方で相次いで政権を樹立し、統治に反対する闘争を展開していた。例を挙げると、南京福王の弘光政権(朱由崧年号、1644—1645)、福州唐王の隆武政権(朱聿鍵年号、1645—1646)、紹興魯王の監国政権(朱以海年号、1645—1646)、広州唐王の紹武政権(朱聿鐭年号、1646)、広東肇庆桂王の永暦政権(朱由榔年号、1647—1683)などがある。これらの政権はすべて南方で活動していたため、「南明」と呼ばれている。

清の順治五年(1648)、魯王朱以海は金門、厦門一帯を守っていた永勝伯鄭彩に擁立されて福建琅江(現在の福建福州琅岐)に駐在した。当時、龍峰岩寺院(福建省福州市長楽区)に隠棲していた元明刑務官外郎の銭粛楽は、その知らせを聞いて琅江に魯王を訪ねにきた。魯王はすぐに彼を兵部尚