茶道
中日两国都拥有悠久的茶文化历史,从唐代开始,中日两国之间就开始了频繁的茶文化交流,而两国茶文化交流的一个高峰,正是黄檗文化兴盛的明清时期。彼时,以茶叶生产、贸易为基础,兴起发展了官方、民间都盛行的文化交流。这其中,不仅包括茶叶栽培、加工技术的交流,也包括中国茶文化典籍、茶具等精神文化产品向日本的流传。伴随黄檗文化借着海上丝绸之路传播海外的,还有明清茶文化,而这一茶文化的传入也在后来影响了整个日本社会。
トが融合した「卓袱(しっぽく)料理」。日本の「和」、中国の「華」、オランダの「蘭」が交わってできたことから「和華蘭(わからん)料理」とも呼ばれている。また、「和、華、蘭」は日本語で「わかからん」と発音し、これは日本語の方言「何なのかわからない」の語呂合わせで、「何の料理なのか分からない」という意味である。当時、卓袱料理は地元の家庭が客をもてなす美食料理だった。大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わう形式をもつのは、中国の伝統的な大家族の会食で、団欒の雰囲気が味わえる。
卓袱料理は普通、鯛の胸鰭部分の吸い物でスタートする。「おめでたい」は「たい」(鯛)と同音で、語呂合わせでお祝いや特別招待の意味があり、当時お客様お一人に対して鯛一尾を使っておもてなしした」という意味が込められているそうだ。「卓袱料理」は、朱塗りの円卓を数人で囲み、大皿に盛られた料理を直箸で取り分けていただくスタイル。当時、日本の食事は1人につき1つの御膳というものだったので、このスタイルはとても斬新なものだったという。
普茶料理は京都府宇治市の万福寺やその周辺、長崎市の興福寺などで食べられ、また、神戸、東京にもお茶専門のレストランがある。普茶料理は黄檗宗の各寺院を中心に、北は北海道南から沖縄島にかけて全国を風靡したのに対して、卓袱料理は、今でも長崎における郷土料理の代名詞として愛され親しまれている。
隠元とその弟子が日本に渡った際に持っていった物は、家具、植物、食品が多く、これらのものは今日、日本人に「隠元」または「黄檗」の二文字をつけて命名している。例えば隠元豆、隠元菜、隠元蓮、隠元豆腐、隠元納豆、隠元スイカ、隠元草、隠元帽、隠元テーブル、黄檗饅頭、黄檗料理、黄檗点心、黄檗天井、黄檗灯篭など、数え切れないほどある。これらのものの伝日により、中日文化交流の有形化を促進させることができただけでなく、日本人の食生活をより充実させ、豊かにし、特に普茶料理は今日の宇治黄檗山寺の優れたお菓子の一つとなっている。
茶道
中日両国はお互い長い茶文化の歴史があり、唐代から、両国の間に頻繁なお茶の文化交流が始まった。両国のお茶の文化交流でクライマックスを迎えた一つに、黄檗文化が盛んな明清時期がある。お茶の生産、貿易を基礎として、官民ともに盛んに行われた文化交流が興った。この中には、お茶の栽培、加工技術の交流だけでなく、中国の茶文化典籍、茶器などの製品も日本に伝わった。そして海上シルクロードを通じて、海外に伝えられた黄檗文化の中でもう一つ重要なものである明清茶文化も、後に日本社会全体に影響を及ぼすこととなった。
日本的茶文化,包括饮茶习俗等,都与中国存在着千丝万缕的联系。可以说,日本的茶文化,就是中日两国文化交流、碰撞、融合的产物。与此同时,日本的茶文化,又再输入中国,对中国产生了重要的影响。两国的茶文化,可谓是同中有异,各具特色,都是在文化互通交流中,加入自身文化因素,加以发展衍生,最终形成独立而富有本民族特色的文化形态。
明代以后,中日两国海上贸易的一个重要的内容,就是日本向中国购买、收藏大量的唐宋物品,特别是与茶文化相关器具,这为日本茶道的前身——书院茶道的孕育,奠定了坚实的物质基础。在数量众多的中国茶具文物的基础上,书院茶道承袭足利幕府时期的文化价值观,充分利用各地茶会的便利场合,积极推行优雅的饮茶文化,从而带动茶叶贸易需求。在这一商业宣传推动的过程中,部分大茶商本人,变身为茶文化的代言人,他们本身就是日本草庵茶道的先驱者,直接促成了草庵茶道的发展成熟。
日本京都大德寺千利休雕像,福清黄檗文化促进会供稿
千利休像 京都大徳寺 (福清黄檗文化促進会提供)
日本のお茶の文化とお茶を飲む習慣などは中国と密接に絡まっていて、中日両国の文化交流、衝突、融合の産物と言える。日本のお茶の文化もまた、中国に輸出し、中国に対して重要な影響を与えた。両国のお茶の文化は、同じように見えて違いがあり、それぞれの特色があると言えよう。どちらも独自の文化的要素を加え、発展させ、最後に独立し、その民族独特の豊かな形態を形成したのではないだろうか。
明代以降、中日両国の海上貿易の一つの重要な内容は、日本が中国に大量の唐宋の物品を購入し、収蔵することである。特に茶文化に関連する器具は、日本茶道の前身である書院の茶の育成のために、確固たる基盤を築いた。書院の茶は、数多くの中国茶器の文化財を基に、足利幕府時期の文化の価値観を踏襲して、各地ので行われている茶会を十分に利用し、積極的に優雅な飲茶の文化を推進し、茶の貿易の需要を牽引した。この商業的なプロモーションの過程において、一部の茶商は、茶文化の代弁者に変身した。彼ら自身が日本の草庵の茶の先駆者であり、草庵の茶の発展に大きく貢献した。
その中で最も有名な代表人物は、室町時代から安土桃山時代までの千利休(1522—1591)である。千利休は商人家庭出身で、小さい頃から茶道に熱中していたが、その後、茶人であった武野紹鴎に弟子入りし、豊臣秀吉の重用を受け、先人を継いで「草庵の茶」を創った。その後の日本茶道はその上で黄檗禅僧により伝日した明清製茶法を融合させてきたものである。
日本の茶道は主に抹茶道と煎茶道の二種類に分けられている。その中で、抹茶道の発展はより古い歴史を持ち、中国の宋代に遡ることができる。鎌倉時代の日本臨済宗の開祖となる栄西(1141—1215)は、南宋孝宗、光宗の時期に中国に臨済禅法を学びにきた。光宗紹熙二年(1191)、日本に帰国した時、臨済禅法だけでなく、お茶の栽培法、または宋代の成熟した点茶法、喫茶技術も持ち帰った。そのため栄西禅師は後世に日本の茶祖とも呼ばれた。
日本京都建仁寺荣西禅师茶碑,福清黄檗文化促进会供稿
栄西禅師茶碑 京都建仁寺 (福清黄檗文化促進会提供)
这其中,最为著名的代表人物,便是室町时代到安土桃山时代的千利休(1522—1591)。千利休本身就是出身于大商人家庭,从小热衷茶道,后来拜茶道大师武野绍鸥为师,受到丰臣秀吉的重用,继承前人创造了“草庵茶道”。后来的日本茶道,正是在此基础上,融合了以黄檗禅僧为代表的明遗民传入的明清制茶法后,调整完善而来。
日本茶道主要有两种,分别是抹茶道和煎茶道,其中,抹茶道发展较早,其源头可追溯至中国的宋代。镰仓时代的日本临济宗初祖荣西禅师(1141—1215),曾于南宋孝宗、光宗时期来到中国学习临济禅法,光宗绍熙二年(1191),他回到日本时,不仅带回了临济禅法,还带回了有关茶叶种植和宋代发展成熟的点茶饮茶技术。因此荣西禅师也被后世称为日本茶祖。
もう一つの茶道——煎茶道は、江戸時代中晩期に形成されたもので、日本の既存の茶道文化の基礎の上で、隠元禅師が持ち込んだ明清茶文化を融合させて発展した新しい茶道文化である。日本の煎茶文化は、黄檗禅宗文化と日本伝統文化的の二重の特徴を持つという、特別な文人文化の特徴があり、洒脱で清逸な精神品格を体現している。(馬崇坤、2010)。
「煎茶」という二文字は中国唐代の茶聖陸羽の『茶経』に最初に見られる。弥生時代の日本人は、茶の木が自然に生い茂っていて、全国各地の民衆は早くからお茶を飲む習慣があった。山茶、香炉茶(奥多摩小仏)、釜炒茶(九州嬉野)、黒石茶(青森県)などの種類があり、その中の百沸茶も簡単な飲み方で、煎茶を飲むのと同じようだ。徳川時代になって、隠元の渡日、または明との貿易往来が頻繁になったことによって、茶道の点茶法は更に儀式を重んじるようになった。隠元の布教、臨済禅宗の隆盛に伴い、各『寺伝』では、明朝の煎茶はすでに既定の方式があるように見える。その後、煎茶道も徐々に民間に伝わってきた。
京都宇治抹茶道,福清黄檗文化促进会供稿
茶道 (福清黄檗文化促進会提供)
另一种茶道——煎茶道,则大约形成于江户时代中晚期,是在日本已有的茶道文化基础上,融合隐元禅师带入的明清茶文化发展而来的新茶道文化。日本的煎茶文化,具有独特的文人文化特点,体现出洒脱清逸的精神品格,具有黄檗禅宗文化与日本传统文化的双重特点。(马崇坤,2010)
“煎茶”二字最早见于中国唐代茶圣陆羽的《茶经》。日本弥生时代时,种植的茶树都是自然生长的,日本全国各地的民众很早开始就有喝茶习惯,他们喝山茶、香炉茶(奥多摩小仏)、釜炒茶(九州嬉野)、黑石茶(青森县)等,其中的百沸茶可算是同属这类茶的简便饮法。到了德川时期,隐元的到来以及明朝贸易频繁的往来,让茶道点茶法变得更为讲究且仪式化。随着隐元的传教、临济禅宗的兴盛,在各《寺传》中可以看到,明朝的煎茶似乎已经有了既定的方式。随后,煎茶道也慢慢在民间流传开来。
在日本,拥有文人茶个性的煎茶诞生的直接原因,当然是中国明清时代的文人茶。根据日本的足利三代将军所述,日本与明朝之间的贸易于1404年就开始了,德川幕府初期也积极开展对外贸易,不久中日贸易禁令被发出。1633年日本人海外渡行也被禁止,那时的长崎是日本唯一开放的口岸,只有中国可以与日本进行贸易活动,从中国传来的东西主要经过长崎传到日本。茶具、茶书、笔、墨、纸、砚和文人茶的清洁氛围通过长崎传到日本,为日本的茶道吹入了新鲜空气。那时长崎住了许多中国人,根据记载,1626年前后,长崎居住的中国人达到了5 000人以上,为了这些人开展日常信仰活动和葬礼仪式,佛寺是必要的。在那里首先建造了中国式的兴福寺、福济寺等。一代代住持也都是从中国招去的僧侣,29岁时在黄檗山万福寺出家、55岁时成为黄檗山万福寺住持的隐元禅师是应兴福寺的住持毅然性融之邀,于1654年63岁时率领36人小队去了长崎兴福寺。
黄檗禅僧的东渡日本,极大地推动了两国之间的文化交流。1661年,幕府为隐元在宇治修建了黄檗山万福寺,隐元在这里积极推广中华文化。隐元不仅仅在禅僧之间受到欢迎,他所带来的明代文化也受到了日本一般的文化人的欢迎,在皇室、幕府、各地,隐元的大名也广为传播。当时的后水尾天皇非常热衷于学问艺术的交流活动,天皇为隐元建立了金塔来安放5颗舍利子,在隐元临终前赐予他大光明普照的称号。
日本で文人茶の特性を持つ煎茶道が誕生したのには、中国の明清時代の文人茶からの影響が大きかった。日本の足利三代将軍によると、日本と明の間の貿易は1404年に始まり、徳川幕府の初期にも積極的に対外貿易を展開し、やがて中日貿易禁止令が発令された。1633年に日本人の海外渡航も禁止され、その時の長崎は日本の唯一の開放港であった。そして、日本と貿易活動を行うことができたのは中国人だけで、中国から伝わったものは主に長崎を経て日本に伝わった。茶器、お茶の本、ペン、墨、紙、硯と文人茶などの清潔な雰囲気は長崎を通じて日本に伝わり、日本の茶道に新鮮な空気を吹き込んだ。当時長崎には多くの中国人が住んでいたが、1626年頃、長崎に住んでいた中国人は5 000人以上に達したと記載されている。彼らの日常的な信仰活動や葬儀のために仏教の寺院が必要だった。そこでまず中国式の興福寺、福済寺などが建てられた。そこの代々の住持は中国から招かれた僧侶だった。29歳の時に黄檗山万福寺に出家し、55歳の時に住持となった隠元禅師は、興福寺の住持を務めた毅然性融の招請に応じ、1654年63歳にして36人を率いて長崎の興福寺に足を運んだ。
黄檗禅僧の日本への東渡は、両国間の文化交流を大きく推進した。1661年、幕府は隠元のために宇治に黄檗山万福寺を建てた。隠元はここで中国文化を積極的に普及させた。隠元は禅僧の間で声望が高かっただけでなく、彼がもたらした明代の文化が日本の一般的な文化人にも歓迎され、皇室、幕府、各地で隠元の盛名も広がるようになった。当時の後水尾天皇は学問芸術の交流に熱心で、隠元のために金塔を建てて5つの舎利子を安置し、隠元が臨終する前に大光明普照の称号を与えた。
明代後半に栄えた茶、即ち文人茶道は隠元によって日本に伝えられた。彼の随行僧侶の中には製茶技術に詳しい者がいた。また黄檗山の中には茶園があり、日常生活で常にお茶を提供できた。このように、中国の黄檗山万福寺は自給自足の準備が整っている。隠元が日本に来た後も、福建省黄檗山の従来の習わしに従っていたため、日本の黄檗万福寺もこれらを学んだ。黄檗山の製茶法が急速に普及し、隠元が亡くなった後の30年間、京都周辺で煎茶法が普及した。更に臨済宗の黄檗派の急速な発展に伴い、隠元の名前も加わって、その茶法は「隠元茶」と呼ばれた。
京都万福寺茶具冢,福清黄檗文化促进会供稿
茶具塚 京都万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
明代后半期繁荣的文人茶道就是通过隐元被传到了日本,隐元来到日本之后,随他来的僧侣中就有懂制茶技术的人,黄檗山中就有茶园。制茶用来提供日常生活之用,中国的黄檗山万福寺形成了自给自足的体制,隐元到日本后依照福建黄檗的习俗,日本的黄檗万福寺也都学习了这些。黄檗山的制茶法很快被推广,隐元死后的三十年间,京都的周边都普及了煎茶法,而且随临济宗黄檗派快速发展,隐元的名字也被加入其中,这种煎茶被称为“隐元茶”。
黄檗禅僧们带去的明清煎茶法,在经过有日本“煎茶道始祖”之称的柴山菊泉(1675—1763),以及田中鹤翁、小川可进等人的大力推广后,最终确立“煎茶道”在日本的地位。江户时代的另一位日本名僧柴山元昭,13岁时就去拜见黄檗山万福寺第四代住持独湛禅师,在万福寺修行。33岁时又特地到长崎向中国僧人学习煎茶技术。作为驰名当时的卖茶翁,柴山在京都东山设立通仙亭,沿途售卖茶水,并广交各地文人,因而被誉为日本煎茶道的“中兴之祖”。
黄檗禅僧たちによって伝日した明清煎茶法は、日本の「煎茶の始祖」と呼ばれる柴山菊泉(1675—1763)や田中鶴翁、小川可進らの強力な普及で、最終的に「煎茶道」として日本での地位を確立した。江戸時代のもう一人の日本の名僧柴山元昭は、13歳の時に黄檗山万福寺の四代目の住持である独湛禅師に会い、万福寺で修行した。また、33歳の時、彼はわざわざ長崎に行って中国の僧侶に煎茶の技術を学んだ。当時の有名な茶商として、柴山は京都東山に通仙亭を設立して、沿道でお茶を売り、各地の文人と付き合いを深めた。そこで日本煎茶道の「中興の祖」と知られ、呼ばれるようにな った。
京都万福寺卖茶翁祭屋,福清黄檗文化促进会供稿
売茶翁祭屋 京都万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
在当时的各种文献资料中,也记载着禅僧之间流行以中国旧饮茶方式煮团茶的风俗习惯。如义堂周信的《空华集》中有题为《煮铭谈禅》诗,还有“相邀来碶赵州茶”“雪水煎茶”等诗句;虎关的《济北集》中也频繁地出现过“烹雪煎茶”“烹茶”“煮茶”“煮茗”等词语。别源元旨(1294—1364)的外集《东归集》中有《煎茶》诗,此诗的最后一句是“瓦瓶重ねで注ぎ余香を啜る”,可见曾有熬茶之事。
煎茶道成为江户时代“黄檗文化”的重要组成部分,并受到日本各界的普遍接受流传,其中一个重要原因,是煎茶文化中所体现的文人自由精神,其体现了宋元以来兴起、晚明以来达到鼎盛的文人趣味,这也与江户时期日本社会兴起的文人文化精神相适应。这一时期兴盛的煎茶道,实际上是把文人修养、艺术追求与日常生活中的茶饮趣味统一起来。在这一文化环境中,围绕煎茶道形成了以卖茶翁为中心的各种文人集团,这又进一步强化了文人与煎茶的关系。
如果说抹茶道体现的是一种贵族气象,多表现出华美繁复的特点,那么,煎茶道体现的则是一种平民文人的精神追求,多体现出清雅简洁的风格,提倡一种“和敬清闲”的气象,它与抹茶道的“和静清寂”最大的区别,在于一“闲”字,这充分体现出煎茶过程所注重的轻松愉悦的精神特质。为了突出饮茶过程中的文化精神追求,煎茶道还重视煎茶席环境的优美情趣,体现一种超脱悠远的文化精神。
正是由于黄檗煎茶文化所带来的上述新的茶道精神,全日本煎茶道联盟总部,也就理所当然地设在了京都宇治黄檗山万福寺内,这一联盟会指导日本各地众多的煎茶道组织、爱好者定期举行的品茶会。如今,煎茶已经成为日本茶文化生活的一种重要形式。黄檗文化根植日本各个文化领域,繁花盛开,硕果累累。
当時の数多くの文献資料には、禅僧の間で中国の古い飲茶方式で団茶を煮る風習が流行していたことも記載されている。例えば、義堂周信の『空華集』には『煮茗談禅』という詩があり、「相邀来沏趙州茶」「雪水煎茶」などの詩句がある。虎関の『済北集』にも「烹雪煎茶」「烹茶」「煮茶」「煮茗」などの言葉が頻繁に登場した。別源元旨(1294—1364)の外集『東帰集』には『煎茶』という詩があり、この詩の最後の句は「瓦瓶を重ねて注ぎ込んで余香を啜る」とあり、茶を煮ることがあったことが伺える。
煎茶道は江戸時代の「黄檗文化」の重要な構成部分となり、日本各界に伝わっていった一つの重要な原因は、煎茶文化の中で体現された文人の自由精神である。宋元に興起し、晩明に最盛となった文人のこの趣きは、江戸時代に日本社会で興った文人の文化精神に適応していることが感じられる。この時期に盛んになった煎茶道には、実は文人の修養、芸術への追求と日常生活の茶飲みの趣味を総括している。このような文化の環境の中で、煎茶をめぐって、茶商を中心とした様々な文人集団が形成され、文人と煎茶の関係が更に強化された。
もし抹茶道が貴族のありさまの現れで、主に華やかで洗練された特徴を表しているというなら、煎茶道は庶民文人の精神を追求し、主に清らかでで簡潔な風格、「和敬清閑」の気風を提唱していると言えよう。
抹茶道の「和敬清寂」という特徴との一番大きい違いは、「閑」という字にあって、これは十分に茶を煎じる過程で気楽で楽しい精神、または調和がとれた気楽な内外の環境を造営することを重視することを表している。茶を飲む過程の中の文化精神への追求を際立たせるため、煎茶道はまた煎茶席の環境の優美な情趣を重視して、一種の超脱な文化精神の表れである。
黄檗煎茶文化がもたらしたこのような新しい茶道精神があるからこそ、全日本煎茶道連盟本部は、当然ながら京都宇治黄檗山万福寺内に設置され、日本各地にある各種の煎茶道組織、愛好家が定期的に行うお茶会を指導している。現在、煎茶道はすでに日本の生活において重要なスタイルになっている。黄檗文化は日本の各文化の分野に根を下ろし、大きな成果を収めて いる。
即非如一的木刻书法匾额及黄檗式煎茶道具,福清黄檗文化促进会供稿
即非禅師書の木彫り額及び黄檗式煎茶道具 (福清黄檗文化促進会提供)
综上所述,由于中国福建与日本长崎之间繁荣的海上贸易往来,明清文人茶的茶具、茶书等茶文化形式陆续传到了日本,隐元将文人茶的制茶饮茶文化传到日本,他的到来又吸引了众多文化人聚集在长崎,他们由是接受了从中国传来的新文化。黄檗文化所引发的文化交流热潮,不仅带来了日本社会饮茶习惯的变革,更引发了茶道为代表的文化观念的变迁与革新。江户时代以前,占据主流的是相对严苛繁琐的抹茶道,主要流行于上层贵族和武士阶层之中,黄檗文化带来的新的文化观念,则与日本社会自身的演进相呼应,贵族之外的知识阶层开始逐渐独立,文人精神便是这一阶层变动的新的文化风尚。在这一文化新风之中,各阶层广泛参与其中的煎茶道,便是典型代表。日本煎茶文化新的精神内涵的形成,很大程度上,是与黄檗文化的东传密不可分的。正是在这个意义上,日本社会才将隐元禅师尊奉为煎茶道的重要始祖。
以上のように、中国福建省と日本の長崎との間の繁栄した海上貿易の往来により、明清の文人茶の茶器、茶書などの茶文化形式は続々と日本に伝わった。隠元は文人茶の製茶法、飲茶法文化を日本に伝え、また彼の到来によって多くの文化人は長崎に集まり、中国から伝わった新しい文化を受け入れた。黄檗文化が引き起こした文化交流のブームは、日本社会の飲茶習慣の変革をもたらしただけでなく、茶道に代表される文化観念の変遷と革新を引き起こした。江戸時代以前、比較的厳しく煩わしい抹茶道が主流で、主に上層貴族や武士階級の中で流行していたが、黄檗文化がもたらした新しい文化観念は、日本社会自身の発展を呼応していた。貴族文化以外の知識階層は次第に独立し始め、文人精神は新しい文化風潮と為した。各階層の人々が多く参加している煎茶道はその代表である。日本の煎茶文化は黄檗文化の伝来と切っても切り離せない関係だ。だからこそ、隠元禅師は日本社会で煎茶の重要な始祖と尊ばれている。
中日両国の間の茶文化に関する交流は、世界の他の国と地域より早く、長期的な海上シルクロードの商業貿易往来の過程において、茶貿易は終始その中の一つの重要な構成部分となっている。特に明清時代の中日茶文化の交流は、互いの文化特色をいっそう際立たせた。自身の文化の発展、転化と向上を促進するとともに、中日双方の、相手の茶文化に対する理解を深め、それによって双方の交流と協力をさらに推進した。茶文化交流が頻繁に深く行われたお陰で、両国の茶文化の精神性が豊かになっただけでなく、東方文化の独特な精神気質が大きく形成され、両国の文化、及び心理的距離をも縮ま った。
現代の中日両国の間の茶文化の交流は、更に多様で生活に入り込んでいる。両国は更に国交50周年をきっかけに、積極的に中日の茶道の文化を伝えて、更に多くの一般人に両国の茶文化を理解してもらい、両国の間の歴史
中日两国间有关茶叶文化的交流,早于世界其他国家和地区,在长期的海上丝绸之路的商贸往来历程中,茶叶贸易始终是其中重要的组成部分之一。明清时期中日茶文化的交流,更加凸显了彼此文化的特色,促进了自身文化的发展、转化和提升,也加深了中日双方对对方茶文化的了解,从而进一步推进了双方的交流合作。频繁深入的茶文化交流,既丰富了两国茶文化的精神内涵,也在很大程度上塑造了东方文化独特的精神气质,拉近了两国人民之间的文化心理距离。当代中日两国之间的茶文化交流,正以更为多样深入的方式展开,两国更应该以邦交五十周年为契机,积极传播中日茶道文化,让更多的普通民众深刻了解和认识中日茶文化之间的渊源关系,珍惜两国间历史上曾形成的友好关系,更加珍视未来的友好关系。