医术
中日两国之间的医学交流,同样源远流长,隋唐时期,就有日本医者陆续前往中国学习中医文化和诊疗技术。不过在很长的历史时期里,由于中医知识和技术都只限于封闭的师徒授受相传,少有对外开放传播。
明朝中期以后,以“经世致用”为特征的实学思潮开始兴起,一些原本不受重视的科学得到了一定发展,其中最为突出的,就是医学与药学,不仅医学知识的传播超出家传,许多医学著作也随着雕版印刷技术的成熟,不断出版流传,例如这一时期诞生了中日两国都家喻户晓的李时珍的《本草纲目》。这些发展成就,吸引了日本医师和僧侣来中国学习医药学知识,他们学成归国后,真正推动了日本汉方医学的发展,并由此形成了自身的体系。由于医学知识与诊疗技术的不断丰富发展,原本封闭传授的方式逐渐被突破,日本的中医学习传播变得更为开放,在频繁的中日医学文化交流、医籍东传的基础之上,日本人大胆创新研究,大量著书立说,推动创立并发展了包括古方派、折衷派、后世派以及考证派在内的不同医学流派。这些不同的汉方医学流派的形成,也标志着日本独特医学体系的确立。(邵沁、宋欣阳,2019)
仏、菩薩、護法神、祖師などの人物の彫像は純銅でできており、荘厳さの裏には伝統文化と現代科学を完璧に融合させるための工夫が施されている。
黄檗盛世に逢い、萬福新顔を照らしめる。歴史蒼々とした千年古刹は海上シルクロードの発展や勢いに乗って黄檗文化の宣揚、中華五千年の文化の継続、両国民間における文化交流をより一層深めるための役割を果たしていくであろう。
医術
中日両国間における医学交流は長い歴史を持っている。医学文化や診療技術を学ぶために、隋唐時期はすでに続々と日本の医師が中国へ赴いていた。ただ長い間、漢医学は師弟授受に限られている故、開放した試しが少なか った。
在这样的时代背景下,明清之际黄檗文化的东传日本,也成了推动日本医学流派形成的重要资源和力量。赴日的华人华侨、黄檗禅僧、中国古代文人中很大部分也有超高的医术。明末清初名医陈明德、王宁宇、戴笠(即独立性易)便是其中重要代表。
十七世纪流寓日本的陈明德(1596—1674),医术高超,尤其擅长小儿科,在长崎人的极力挽留下,最终加入长崎籍行医,还曾经著有《心医录》一书,流传至今。王宁宇,号五云子,原籍山西太原,东渡日本后,先在长崎行医,开设医馆、教授医术,并将明朝流行的药剂包装手法也传入日本,后来主要在江户一带行医,影响很大。他们是明朝灭亡后东渡日本遗民中众多中医名家的代表,极大地推动了日本医药学的发展成熟。此外,中日交流的文化使者朱舜水,也是精通医药的著名代表。他们都将自己的医药知识和诊疗技术带入日本,传授学生,造福日本人民。
这些精通医术的明朝遗民中,还包括寺庙僧侣群体,如黄檗禅僧群体,独立性易便是这一群体中的一员。独立禅师于1653年进入日本,不仅擅长书法、绘画、篆刻,还精通中医医术,著有《痘诊治术传》《痘科键口诀方论》等重要医学著作,在日本被尊为“治痘术始祖”。他的嫡传弟子,包括幕府著名的儒医高玄岱、“治痘专家”池田正直以及“大阪名医”北山道长等。
独立性易的高足池田正直(嵩山),也有流传后世的医学文献,主要有七种“生理病理图”和六部医书,其中最有名一部是《痘科健》,池田也因此成为著名的治痘专家。池田的曾孙池田瑞仙,继续将独立禅师一门的治痘术发扬光大,编著《痘科辩要》《痘诊戒草》等书,使更多的日本民众免受病痛之苦。
明代中期以降、「経世緻用」を提唱する実学の思潮の台頭と共に、それまで重視されなかった科学もある程度の発展を遂げた。そういう中で最も目立つのは医学や薬学の長足な発展で、医学知識の伝達が家伝から離脱し、医学著作の多くも活字印刷技術の成熟にしたがって流布するようになった。例えば、中日両国でも民間に広く知られる『本草網目』(李時珍)もこの時期に誕生したのである。これらの発展成果は、日本医師と僧侶の関心を惹き、中国まで医療技術を学びに来る人も後を絶たなかった。学成して帰国するや、たちまち日本の漢方医学の発展を推し進め、独自の体系を形成させた。医学知識や診療技術の絶えざる発展によって、もとよりの閉塞的な伝授法が漸く破られ、日本における漢医学の伝達が更に開放されるようになった。中日両国間の医学文化交流が頻繫になり、そのため医学典籍も東伝する中で、創新琢磨によって果敢に推進されたので、古方派、折衷派、後世派、ないし考証派を含めた多数の医学流派の誕生経緯はこの時期まで遡らなくてはならない。これらの漢方医学流派の形成は、日本独自の医学体系の確立を示すようなものでもあった。(邵沁、宋欣陽、2019)
こうした時代背景の下で、明清の際に東伝された黄檗文化も当然、日本医学流派の成立に一役を買った重要な存在であった。東渡した華人華僑や黄檗禅僧は中国古代文人の多くが医学に精通していた。そして優れた医術の持ち手であった。例えば、明末清初の名手陳明徳、王寧宇、戴笠(すなわち独立性易)はまさにその代表人物だった。
十七世紀に日本に寄寓していた陳明徳(1596—1674)は医術に熟達し、殊に小児科に老練であった。長崎住民に引き留められてやがて長崎に入籍し、医業を続けることにした。陳の著した『心医録』が現在まで伝わっている。王寧宇、号五雲子、山西省太原市を原籍とする。王は渡日してからまず長崎で開業した。医院の開設や医術の伝授のついでに、明朝に流行っていた薬剤包装の技術も日本に導入した。その後は主に江戸一帯で診療し、その影響は甚大である。彼らはみな明の滅びるにしたがって渡日した遺民における多数の漢方医名手の代表の一員で、日本医薬学の発展と成熟に大いに貢献した者達であった。また、中日文化交流使節の朱舜水もまた、医薬に精通する一人であった。彼らは自分の持っている医薬知識や診療技術を日本に伝え、日本
像《伤寒论》流传日本一样,随着越来越多中国医书在日本刊行,许多日本医学流派都在黄檗禅僧的影响下,开拓创新了医学诊疗技术。古方派的形成发展,便是很好的例子。古方派之祖名古屋玄医(1628—1696),受到黄檗禅僧传入的明清之际经世致用医学思想的影响。他在广泛研读汉文医书后,在独立性易禅师的医学思想和观点基础上逐渐发展形成了“贵阳贱阴”的医学观点。古方派的另一位中坚人物吉益东洞(1702—1773)的代表著作——《类聚方》与《方极》,也选用了传统医书《金匮要略》和《伤寒论》中的重要医方,并花大功夫对其中较难理解的文字,作了浅显易解的注解说明,是江户时期学习汉方的首选入门书。古方派的许多研究影响都流传至今,如古方派另一代表、《伤寒论》推崇者与研究者后藤艮山(1659—1733)的腹诊研究,最早提倡伤寒派腹诊,在望、闻、问、切传统中医四诊基础上,创造性地加上了“按腹”和“候背”二诊方法,合为六诊法。前述的吉益东洞,也十分重视腹诊法,认为腹部是生命运动的根本,各种病症都根源于此,医者给患者问疾诊断,一定要关注腹部。凡此种种,都是随着黄檗文化传入日本,在明清传统中医思想和诊断方法影响下的进一步发展。(邵沁、宋欣阳,2019)
此外,又如深见玄岱,也通晓医道、著作丰富,同样出于独立禅师的门下。独立禅师在日本医流享有很高的地位,备受尊敬,至今,每逢他的忌日,许多医者都前往黄檗山祭奠。