倾尽家财的大檀越周心鉴
福建省莆田市流传着一个“周檀越题缘”的民间故事,元末明初,福建兴化府莆田县(今福建省莆田市)有个贩牛的客商名叫周心鉴,仗义疏财,笃信佛禅,在莆田县、福清县渔溪镇一带颇负盛名。有一次,周心鉴被邀请参加一个为重建黄檗寺召集的募捐宴会,他在红漆木盘上的缘簿(指寺庙化缘的簿本)上,题了“尽心尽力尽家产”七个大字,引起众人喝彩。但他心里清楚,自己的生意遭小人算计,家产并不多。回家后,他的妻子听闻黄檗寺题缘一事,虔心向上天祈祷,结果他们在床底发现上天赐给他们的三坛银子,周心鉴随即将银子送到福清渔溪的黄檗寺,重修了九十九间僧房。佛教将那些向僧众施与衣食,或出资举行法会的供养信众,都称作“檀越”,于是便有了“周檀越题缘”的故事。
位于渔溪镇西北的黄檗山,正处于莆田与福清交界处,莆田籍僧俗多有致力于振兴黄檗寺事务。黄檗寺的开山祖师,就是莆田籍的正干禅师,他在黄檗山创立了第一座伽蓝——“般若堂”。唐贞元五年(789),正干禅师学禅回闽,途经黄檗山,见此处山风灵秀,黄檗成林,想起师父六祖慧能大师临别赠语“遇苦则止”,他马上感悟黄檗树皮味苦,正是师父慧能所指带有苦味的地方,于是便在黄檗山止步,开山结庵,募缘建寺,最初取名“般若堂”。三年之后,禅寺已经初具规模,唐德宗又赐名“建福禅寺”,俗称“黄檗寺”。
元代以后,黄檗寺逐渐衰落,到明洪武二十三年(1390),莆田籍禅僧大休禅师经过黄檗寺,眼见寺庙梁朽墙塌,一派荒废之象,便决定居住寺中,发愿重建。据说,在周心鉴来访的前一天,大休禅师就预言“最近会有檀越到来,寺院殿宇复兴有望了”。第二天,周心鉴果然进山拜访大休禅师,两人心缘相契。周心鉴毅然变卖田产,全力资助重修殿宇,正是“尽心尽力尽家产”。黄檗寺迎来第一轮中兴,大休禅师被称为“重兴之祖”,周心鉴功不可没。后来,隐元禅师重修《黄檗山寺志》,浓墨重彩地写上周檀越的故事,称“兴化儒商周心鉴,是倾尽家财襄助大休禅师重建黄檗的大檀越”。大檀越周心鉴帮助黄檗寺重建的故事,被黄檗僧众代代相传,广为称颂。
ていた多くの明王朝の遺民も万福寺に帰依していた。隠元をはじめとする黄檗僧団が広めたのは禅宗思想だけでなく、哲学、書道、絵画、医学、飲食など多くの分野の文化も含まれており、日本で「黄檗文化」と呼ばれた。
一、郷紳商人
家財を傾けた大檀越周心鑑
福建省莆田市には、「周檀越題縁」という民話が伝わっている。元末明初、福建省興化府莆田県(今福建省莆田市)には、周心鑑という牛売りの商人がいた。信心深く、義侠心からよく金を出して困っている人を助けるので、莆田県や福清県漁渓町の辺りでは、非常に有名だった。ある日、彼は黄檗寺再建のための募金会に招かれ、朱塗りの木皿に置かれた勧進帳に「尽心尽力尽家産」という七つの大きな文字を書いて喝采を浴びた。しかし、自分の商売は卑しい人に陥れられ、家財はそれほど多くないことを心の中で知っていた。家に帰ると、妻は黄檗寺の題縁(お布施)のことを聞いて、敬虔に天に祈ったところ、天から与えられた三壇の銀を寝床の底で見つけた。周心鑑はすぐさま福清漁渓の黄檗寺に銀を届け、九十九棟の僧房を再建した。かつては僧侶に衣食を施したり、お金を出して法会を開いたりする供養信者を「檀越」と呼んでいたので、「周檀越題縁」という話があるのだ。
漁渓町の北西部に位置する黄檗山が莆田県と福清県の両県の境にあるため、黄檗寺の振興に力を入れていた莆田籍の僧侶も多かった。黄檗寺の開祖は莆田籍の正幹禅師であり、黄檗山に最初の伽藍である「般若堂」を創立した。唐貞元5年(789)に、正幹禅師は禅を学んで福建に帰る途中、黄檗山を経由した。ここには黄檗という木がたくさんあり、景色がとても美しかった。師匠の六祖慧能が別れる際に教えた「遇苦則止」(苦に遇えば留まれ)という言葉を思い出し、黄檗という木の皮の味が苦いことからそこがまさに師匠慧能のおっしゃったところだと悟った。そこで黄檗山で歩みを止め、山を開いて庵を結び、寄付を募って寺を建てた。最初は「般若堂」と名づけられた。3年後には禅寺の規模が大きくなり、唐徳宗は「建福禅寺」と名づけ、俗に「黄檗寺」と呼ばれた。